第2話 嘔吐
いつもの音に、いつもの人達、僕はプレス機を使って金属の板材の形を変えていく。変わることのない日常と変わることのない僕が板材の形を変えていく。これが何の製品になるのか訊いたが、そんなものお前が知る必要のないことだと工場長に言われた。
いつもと同じ日々の筈なのに、いつもと違って見えた。僕は昨日の夢のような出来事を仕事作業中に思い出した。
雨の降る夜。湿った路地裏の臭いに血が混ざる。まるで小型爆弾が爆発したかのような威力だった。口内の上顎に銃口をつけて吾妻さんは引き金を引いた。上顎から脳にかけて吾妻さんだった人の顔が吹き飛んだ。
僕はそれを見て嘔吐した。
よく刑事ドラマで殺害された被害者を見た新米刑事が嘔吐するシーンがあるが、僕の嘔吐はそれとは性質が違っていた。グロテスクなモノを見て吐き気をもよおすことは僕にだってあるけれども昨日嘔吐した原因は別にある気がしている。
「お~い、そこのぉ、なんだっけ?」
工場長の声が聞こえる。
「お前だよ、お前」
僕は作業を止めて後ろを振り返る。くたびれた帽子を被った工場長と目があった。
「今度からここで働くことになったデルマン君だ」
「ヨロシク、オネガイシマス」
工場長の隣にいた髪の短い、少しだけ肌が浅黒い外国人だ。僕も彼に礼をする。
「ぁっ、よ、宜しくお願いします……」
僕もなんだか片言になってしまった。挨拶を終えた僕らを見てから、工場長は言った。
「お前が、デルマン君を教えてやれ」
「えっ?」
戸惑う僕に、工場長は言った。
「これはお前の為でもあるんだ。期待してるぞ」
そう言って工場長は僕の肩を叩いた。
──期待している……
僕は今まで言われたことがなかった言葉に胸を踊らせた。僕もとうとう後輩を教えるぐらい偉くなったのだ。
この日は、工場内をデルマン君に案内して1日が終わった。言葉がなかなか通じなかったのでジェスチャーを交えてトイレや機械と加工した部品を納める場所を説明した。
退勤すると、デルマン君は工場長に連れられて飲みに行くようだった。僕は誘われなかった。だから僕は1人で帰る。
吾妻さんの自殺した路地裏は黄色いテープで塞がれ、入ることができないようになっていた。
僕は昨日の出来事を思い出す。
するとまた吐き気がした。だから僕は現場から離れた。今までこんな吐き気を感じたこと等なかった。嫌な想いをしたことならたくさんあるのに、その時感じた不快感とはまたひと味もふた味も違っている。
例えば、中学生や高校生の時に、女子にキモいと言われたり、笑われたり、SNSで手取り14万のお前がクソなんだと言われたり、コンビニの駐車場にたむろしている男達に因縁をつけられたり、工場長に怒鳴られたり、小雪ちゃんを応援しているだけなのにアンチに文句を言われたり、あぁ、小雪ちゃんがまだそんなに売れていない時、彼女に会いに劇場に行った際、小雪ちゃんのマネージャーらしき男が嫌がる小雪ちゃんを無理矢理車へ乗せていた瞬間を僕は目撃したことがある。僕は不快感から来る怒りで声を出した。おい!嫌がってるじゃないか!僕はそう声を出したが車は走り去ってしまった。車内にいた小雪ちゃんは黒い窓ガラスのせいで外から彼女の様子は見えなかった。
ナンバープレートを暗記した僕は警察へ行ったが全く相手にされなかった。その時のやるせなさは今でも覚えている。
特筆すべき功績はない。しかし僕は困っている人を助けたいと思ったことならある。それが昨日、吾妻さんを助けようとして路地裏に入った理由だ。そして小雪ちゃんを助けたいと思って、劇場に行った際、同じナンバープレートの車を発見し、追いかけたこともあった。
そしてとあるビルに辿り着き、事務所と思われる1室の前まで来たのだが、僕は引き返した。勇気がでなかった。小雪ちゃんは本当は嫌がっていなかったんじゃないかとか、様々な考えが押し寄せ、扉を叩くことができなかった。
そんな自分に押し寄せる不快感と、この吐き気は全く違った性質を持っていた。考えてもわからなかった。だから僕はその思考を捨てる。
──帰って、小雪ちゃんの動画でも見ようかな……
そんなことを思いながら、いつもの公園の前を通ると小学生くらいの男の子達が木の枝を手にして振り回しているのが見えた。
僕はその光景がなんだか懐かしくて、足元に落ちていた木の枝を膝を曲げて掴み取った。童心に返るとはまさにこのことだ。木の枝は自然のものであるから当然滑らかな手触りではなかった。握り締めると掌をくすぐり、チクチクと優しく刺激してくる。昨日の雨のせいか申し訳程度に枝は湿っていた。
僕は小学生男子同様、それを振り回そうとすると例の吐き気をもよおす。それと同時に気付いてしまった。昨日の吐き気の原因がなんだったのかを。
頭が吹っ飛び、血と脳と皮膚と目玉と頭蓋骨をぶちまけた吾妻さんを見た僕は、今まで何者かであった人が一瞬にして、この木の枝とかわらない存在に成り果ててしまったからだ。そのことに気付いた僕はその場に踞り、昨日と同じようにして嘔吐した。
大地に転がる石も、太く逞しく聳え立つ樹木も、静かにせせらぐ川も、そこにただ存在するだけの意味のないものだ。
じゃあ僕は?
僕に意味があるのか?
喉の奥から込み上げる酸っぱくて不快な何かを無理矢理飲み込み、僕はしばらくその場に
『見たところお前は、何者にもなれねぇような中途半端な野郎だな……』
吾妻さんの言葉を思い出す。昨日、銃口を突き付けられ、ほんの少しだけ話をした相手なのに、僕は彼に会いたいと心の底から思っていた。ただの他人であると同時に昔からの知り合いでもあったような気がする。いや、僕と吾妻さんは兄弟になったのだ。
僕は、何者でもない。その事実が堪らなく不安であり、胸の内をかきむしりたくなる衝動にかられる。一体どのようにすれば何者かになれるのか僕は知りたかった。昨日の吾妻さんは何者かになったと豪語している。僕は吾妻さんに会って、質問したかった。だが吾妻さんは死んだ。それを僕が見届けた。吾妻さんはただの死骸となり、路傍の石ころや車に潰されたネズミの死骸と一緒、ただの存在となったのだ。今の僕と何が違うんだろうか。
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