湘南幻燈夜話 第十話「海市堂異聞」

湘南幻燈夜話 第十話「海市堂異聞」

 書簡が届いた。

 裏を返すと、男の手跡で〈海市堂主人かいしどうしゅじん〉とあるばかり、住所の記載はない。

(はて、だれだろうか)

 文三は首をかしげた。

 稚拙が個性とでもいいたげな筆遣いだが、差出人はまるで思いあたらない。中を見れば見当もつくかと、勘定台のはさみを取り上げて封を切った。

 書状は地紋のある和紙の三つ折りだ。謹啓ではじまり謹白で終わる文面はみじかく、つまり、売却したい書籍があるのでご足労ねがえないかというものだった。末尾に訪問を希望する日時と会合場所の記載があり、最後にひとこと、余人への譲渡は考慮しておらぬのでぜひにと書きそえてある。最後にまた海市堂主人とあり、下に血をしたたらせたような朱色の篆刻印が深々と押してあった。

 なんとも奇妙なことだと文三はいぶかしんだ。売りたい本とはなんだろう。わざわざ呼びつけるほどの稀覯書だというのだろうか。しかしなぜ自分に、と文三の首はふたたびかしぐ。

 文三が父から継いだ古書店は永楽屋という。古書店というよりは古本屋が呼び名としてふさわしい間口二間の店は裏が住まいになっていた。江ノ電和田塚わだづか駅から由比ヶ浜ゆいがはまの通りへ出る途中にあるが、もともとは貸本屋をしていた。昭和三十年代に祖父がはじめ、貸本ブームが去って本を処分するうちに持ち込みも買ったりして、なんとなくずるずると古本を売るようになっただけだ。

(まとめていくらの雑本がほとんどの店にいったいどういう……)

 とつおいつしているところにけたたましく電話のベルが鳴った。文三は飛び上った。黒電話は茶の間と店のさかいにある。古色蒼然としたダイヤル式だ。上がりかまちから身を乗りだして受話器をつがんだ。

「あ、もしもし」

 爆弾のような金属音の不意打ちがまだおさまらず、妙に上ずった声になってしまった。

「え、永楽屋です」

 しん、としている。

「もしもし……あの、永楽屋ですが……」

 返事はない。

 だが耳に伝わる気配はあり、電話が切れていないことはわかる。

(なんだ、いたずらかな)

 受話器を戻そうとしたとき、

「もし」

 やっと声が聞こえた。

「あ」

「永楽屋さんですな。こちら、手紙を差し上げたものだが」

「ああ、海市堂とかおっしゃる……」

「さよう。それで、ご都合はよろしいか」

 低い抑えた声音だった。

「都合は、ええとですねえ、まあ、その日とくになにかあるというわけではないですが、しかし、あのう……」

 唐突な招待をうけるまえにもうすこし聞いておきたい。いったいなにを売りたいのか、量は多いのか、かさばるものなのか、ことに選んで自分に連絡してきたわけは知りたかった。

「結構。当日、車をさしむける」

 それだけいうと、かちゃりと受話器を置く音がした。

「あっ、ちょっと!」

 文三はあわてたが、もう遅かった。重い受話器からはツーという発信音が伝わるばかり。

「まいったなあ」

 文三は嘆息した。

 電話の主の話しぶりは一種独特だった。えらく時代めいた物言いをするわりには威圧感はなく、声から年齢を判じるのはむずかしかった。

 文三は店の本棚からもう何年も棚の肥やしになっている漢和辞典を引き抜いて、指に唾をつけページをくった。

「えー、か、かい、かいし、海市と……ああ、やはりそうだ」

 海市とは蜃気楼のことだった。以前にそういう題の本を読んだ記憶がある。

 その小説は男女の愛憎を斬新な手法で描いた作品だったと思う。筋立てはもう曖昧だが、まだ若かった文三は作中のきわどい描写に興奮耽溺した。

 辞書はさらに詳しく、巨大な蜃(蛤)の吐いた気が作る幻の楼閣のこと、貝櫓ともいうと記載されていた。

「蜃気楼か」

 海市堂に対する好奇心がじわじわ湧きでる一方、一抹の不安はぬぐいきれず腰が引ける。

「やはり、気が向かないな」

 どうせ見ず知らずの他人だ。約束といっても一方的過ぎるし、反故にして行かずにおこうと内心決めているうちに日がきて、黒塗りの大型乗用車が店のまえに横づけされた。

「お迎えに上がりました」

 制服制帽に白手袋の運転手が降り立って頭を下げ、着古したとっくりのセーターにちゃんちゃんこ、膝の抜けたズボン姿の文三は目を白黒した。


 車に乗るとすぐ、時雨がきた。大あわてで着替えた文三はまっさらな白いカバーの座席に落ちつきなく腰を下ろし、通り雨に濡れる車窓を透かして晩秋の町並みに目を凝らした。いまどこにいるかを確かめずにはいられない。会合場所は扇ケ谷おうぎがやつだった。そこに自宅があるのだろうと判じるしかない。車は御成おなりを過ぎ、横須賀線の線路に沿って走る。方角はたしかに谷戸やとへの道筋だ。観光客のいない茶店の軒先で雨に打たれる大輪の菊花が眼の底に残った。

 しばらくすると時雨は止んだ。だがさっきまで雲間から細い筋を引いて覗いた青味もいまは緞帳のような雲にかくれ、午後一時というのに人影の絶えた町はひっそりと暗い。

(海市堂などと名のるからには、なにかしらあの本に関連でもあるのだろうか)

 四十三歳で独り身の文三の胸に、不安の芽がきざした。

(よもやと思うが、どこかで女の恨みをかったか……)

 過去にいきさつのあった女のだれそれが脳裏に浮かんだ。だがこれといって思いあたる節はない。

 文三は女にもてた。ひょろりとして肉を感じさせないうすい体つきと優等生のときそのままの生真面目な容貌が、無難で危なげない男として女を引きつける。女は無産の男のもの思わしげな憂い顔を手前勝手に解釈した。その後の期待外れの逆恨みなど、文三のあずかり知らぬことなのだ。

 文三はまったく口をきかない運転手の後頭部におずおずと視線を当てた。時おりバック・ミラーに写るのは、太い黒縁眼鏡をかけ鼻下にひげをたくわえた初老の男だ。

「あのう、運転手さん」

 なにか聞きだせるかと話しかけてみたが、返事はなかった。

 文三はもうあきらめた。こうなったら成り行きだ。腕を組んで、目を閉じた。


「お客さま、着きましたです」

 運転手の声でわれに返った。

 車は冬枯れの山間に停車している。また降りだした。南天の紅い実が雨に洗われる横で、桧皮葺きの屋根をのせた小門が折からの風をうけて音もなく開いた。

 帽子を目深にした運転手はうつむきかげんに、

「あちらから、お早く」

 そうつぶやいて小門をさし、一揖すると、そぼ降る雨の中、文三を残して走りさった。

 山道を遠ざかる鬼火のような尾灯を見つめ、文三はなにか考えるふうでしばらく雨に濡れていた。


 小門を入り、濡れてすべりやすい丸石をたどると、建物の裏口らしきところに行きついた。杉の板戸は左右に引かれている。

(これは…)

 とても個人の家とは思えぬ規模の建物なのは全体を見ずとも見当がついた。

 意を決し、裏玄関へ一歩踏み込んだ文三は、

「ヒェッ」

 思わず叫んだ。

 薄暗い上がり框に蓬髪の老人がたたずんでいた。老人の腰はほとんど二つ折れになるほど曲がっている。後ずさりする文三に、

「海市堂ですじゃ」

 電話の主と同じしゃがれ声でいった。

 長く伸ばした雪のような髪と眉とひげが薄闇に浮き上がり、人相はいまひとつ定かでない。着物は渋い色合いの袷らしく、上に黒木綿の綿入れを重ねている。目を凝らして、文三は海市堂と名のる人物を見定めようとした。だが老人は、

「こちらへ」

 押し殺した声でいうと、曲がった腰に手をあててよちよちとせまい廊下をゆく。

 あいにくの天気だがとか、ようこられたぐらいはいってもよかろうに、と呼びつけられた不満もあり、文三はいささか不機嫌になった。老人はひどくかがめた背中を見せて先へ進む。その後姿を眺めていた文三は、ついさっきも運転手に感じたと同じ知悉感を覚え、

(なんだろう、これは。どこか…なにか見覚えのあるような……)

 四歩で追いつき、思わず老人の肩に手をのばしかけたが、

(…いや、やめておこう。これも一興だ)

 思いとどまって、海市堂主人の後にしたがった。

 案内された八畳間は久しく使われていないらしく湿気た臭いが鼻をつく。片隅の違い棚のほかに目ぼしい調度はない。絹布の座布団が二枚、たがいに間を開けて向かいあわせに敷いてあるきりだ。内部に入ると建物の広大さが目に見えぬ空間の重圧感として頭上におおいかぶさるようだ。だが、内部はしんと静まりかえり、ひとのいる気配はなかった。

 すすめられるまま、文三は手前の座布団に腰を下ろし、老人と向きあった。電灯はついておらず、障子越しに差し込む雨の午後の薄明かりが室内をおぼろに明るませている。

 障子を背にした老人はいまや輪郭だけの陰絵に沈み、表情はさらに不明瞭だ。それでも向いあわせた顔をよくよく見れば、やはり見も知らぬ年寄りだった。

(あの運転手にしてもどこかで見た気がしたのだが…既視感というやつか)

 文三の思いも知らぬげに、海市堂主人はみな出払っていて茶も出せないがと口の中でぼそぼそつぶやき、

「さっそくだが」

 そう切り出すと、懐から冊子を取りだして文三のまえに据えた。

 きゅっと張りつめた気分で冊子を手にした文三は、表紙を見てがっくりした。なんのことはない。それは来年度の文芸年鑑だった。年が明ければ書店に出回る改訂版にいったいなんの価値があるのか。すこし早く入手したからどうというものではない。切手や紙幣ならともかく、たとえ誤植や乱丁があろうとたかは知れている。文三は一気に拍子抜けした。

「なんです、これは。新しい文芸年鑑の、しかも簡易版じゃないですか。これがなにか」

「三十一ページ」

 海市堂主人はあくまで寡黙だ。

 いわれるまま、はらはらと紙をくりながら、文三はひどく馬鹿げたことにかかわっている自分にうんざりしてきた。指示されたページに行きついて散漫な視線をさまよわせていたとき、

「え?」

 ふいに目に飛び込んだ五つの漢字が文三を驚倒させた。

 年鑑を顔に近づけ、一字一字なめるようにしてそこに印刷された文章を読んだ。障子越しの明かりにかざし、さらに注意深く調べた。目の迷いではない。たしかにそう書いてある。


【小山内文三(おさない ぶんぞう)】小説家。昭和二十三年二月二十九日生~

軽妙洒脱な文体を駆使し男女の愛憎や人生の機微を暢達に表した。この作家の特徴は四十代からの劇的な文体の変容といわれる。若年に拘泥した晦渋で形而上的表現が一転、市井の人びとの哀歓と心情を情趣に富んだ文体で活写し独自の興趣を確立した。寡作。


 自分とまったく同じ生年月日で同姓同名の男、その男の略歴に目を落としたきり、文三は微動もしない。やがて、太い息を吐いた。深い水底から浮かび出たような吐息だった。

「これは来年の版ですが、つまり、その……」

 ためらいつつ、文三はつぶやく。

「この男にはまだ、か、可能性が……」

「持っていきなされ。包んでしんぜよう」

 海市堂主人は文三の問いに答えず、だらりと力を失った文三の手から冊子をとった。

 それからよろりと立ち上がると音もなく部屋を出て行った。


 どのくらいの時がたったのか。物思いに沈んでいた文三はわれにかえった。腕時計に目をやった。三時をまわっている。海市堂主人が席をはずしてかれこれ二十分は過ぎていた。

(おそいな、なにをしてるんだろう)

 文三は耳をすませた。

 空っぽの箱を感じさせる建物内はひそと静まっている。

 腰を浮かせ、とうとう文三は立ち上がった。海と月を南画風に描いた襖をそっと引いた。

「あの、海市堂さん……どこですか」

 暗い廊下の果てに文三の声は吸いこまれた。

 急に、心細さが文三をとらえた。

 へっぴり腰で一歩、廊下に踏みだした。

「すいませーん、だれか、だれかいませんかあ」

 はじめは小さく、終わりは大きな声で呼びかけたが答えるものはない。

 心細さがつのった。廊下の奥にこもるほの暗い薄闇のその先まで老人を捜しにいく気にはなれなかった。足は自然に出口へ向かう。

 廊下の途中に、来たときは気づかなかった物置めいた板戸があった。板戸はひとの体の幅ほど開いている。文三は足を止めた。

「だれか……いますか…」

 ひとりごとをつぶやきながら覗くと、艶やかな綾絹の寝具と枕が部屋いっぱいに積み重なっている。

(なんだ、これは)

 と、ゴソっと音がして、枕がひとつ、ふいにすべり落ちると文三の足元まで転がった。

 文三は悲鳴を上げた。


 ほうほうの体で文三は屋外へまろびでた。

 走ると膝がガクガクした。小門の外まできてやっと足をゆるめた。紅葉の散り敷いた足元から雨後の土と苔のみずみずしい匂いが立ちのぼる。屋内にこもる湿気に侵食された文三の鼻腔は、濃い緑の香で生きかえった。

 ほうっとひと息ついて見まわすと、なまこ塀がえんえんとつづいている。塀の中の建物は屋根の一部が見え隠れするだけだ。こうして見ると、そうとう豪壮な屋敷だとあらためて分かった。

 文三は塀伝いにぐるりとめぐってみた。最初の角を曲がったところで、黒瓦を載せた寺社のような大門に行き当たった。ここが正門なのだろう。あの屋敷にふさわしい門構えだった。大門の柱には縦長の板を外したような痕跡がある。寺の屋根の下にみる扁額みたいなものがあったのだろうか。

(ここはただの豪邸じゃないな。あの布団と枕の数は半端じゃないし。旅館か、待合か)

 運転手に案内された小体な門は裏門、海市堂主人に迎えられたのが内玄関、彩華な寝具と枕の山、それはみなこの屋敷の隠れた役割の名残りかもしれないと考えた。

 鎌倉に住んだ文豪の、眠れる美女の館を思い起こしていると、背後で濡れた落葉を踏む音がした。柴犬を連れたハンチング帽の老人が坂を登ってくる。品のいい顔立ちと身なりをしていた。文三に気づいて会釈し、近寄って話しかけてきた。

「やっと上がりましたなあ」

「ほんとに。あのう、ここはどなたかのお住まいでしょうか」

「いや、個人の家ではありませんよ。ついこの間までは料亭でした。あなたは最近越してこられた?」

「いえ、土地のものですが、どうも昨今の様変わりにうとくて」

「ああ、そうですか。ここも隠れ家などと雑誌に取り上げられていっときは派手にやってましたがねえ」

「なるほど」

「馴染みのわけあり客を泊めて待合みたいなこともしたものだから、その筋からおとがめがあったらしいですな。それからは衰退の一途です」

 バブルのころ鎌倉に展開した料理屋の倒産撤退が近ごろの町の話題だという。

「料亭の名をご記憶ですか」

「屋号ですか。海の市の楼と書いて、カイシロウとかいいましたかな」

 文三は谷戸の坂を下ったところで散歩の老人と別れた。


「うう、さぶう」

 木枯らしの吹く夕暮れどき、がらがらと店のガラス戸が開いた。

「ぶんちゃん、飲み行かねえか」

「行こうよ、ぶんちゃん。こんな日はあったかーいおでんで、きゅっと一杯」

 幼なじみの正雄と一郎が近ごろめっきり付きあいのわるい文三を誘いにきた。

「だめ」

 着古したとっくりのセーターにちゃんちゃんこといういつもの格好で、文三は勘定台に広げた原稿用紙に鉛筆を走らせながらそっけなくいった。

「あらら、また始めたのかよ、そんなこと」

「うるさい。じゃますんな」

「小説はもうあきらめたんじゃなかったの」

「いいから、もう行けよ」

 それきり文三は原稿用紙におおいかぶさり、迎えにきてくれた友だちを忘れてしまったようだ。

 土間に据えた石油ストーブに手をかざしてしばらく様子を見ていた正雄と一郎は、やがて顔を見合せ、

「そんじゃ、おれたち大阪のおばちゃんとこにいるからさ、気がむいたらこいや」

 そういって出て行った。

 その足で、ふたりは裏駅のおでん屋〈大阪のおばちゃん〉の暖簾を払った。カウンター席だけの細長い店は今夜もなじみ客でいっぱいだ。すこしづづ席をゆずり、ふたりを奥に入れてくれた。

「いやあ、こうまでうまく引っかかるとはなあ」

 カウンターで焼酎のお湯割りを手に、運転手役の正雄がいった。

「おれも信じらんねえ」

 海市堂こと一郎はそういうと、

「とにかく、われらの勝利を祝って」

「よっしゃ」

 湯気の立つ分厚いコップを、がちんとぶつける。

 文三はよく本を読む子どもだったが、大学に入ると小説を書きはじめた。三年の年に純文学雑誌の新人賞候補になった。それきり就職は念頭から消える。賞賛された硬質な文体は若さが生みだす斬新さだったが、一心不乱に一枚四百字のマス目を難解な言葉で埋めつづけ、ふと気がつくと四十の大台だ。原稿用紙から顔を上げた文三は、おそるおそる身辺を見回した。勤め人の友人はみなそこそこの地位に落ちついて一家をなし、かたや古本屋の汚れたガラス戸にはさえない中年男の猫背がぼんやり写っている。文三のなかでブンガクの火が消えた。

 幼なじみが煤ぼけた蝋燭のように古本屋の隅でほこりをかぶっているのはどうにもせつない。

「なんとかなんねえかなあ」

「そうだなあ……」

 正雄と一郎は顔を合わせては腕組みをしてなげいた。

 文三はかつて、書いたものをふたりに読ませては感想をもとめたりもした。作品は高尚、衒学、真摯で沈痛、早い話がまるでおもしろくなかった。文三がおのれの文学的好尚にとらわれているかぎり道は行き止まりだ。正雄と一郎は高校で教育を終えたが、具眼の士は最高学府卒業の特産品ではない。

 志半ばで倒れた中年男をふたたび起きあがらせるには、摩訶不思議な出来事で好奇心を煽り、頭を切りかえて努力すれば未来はあるのだと励ますにかぎる。豚もおだてりゃ木に登るというじゃないか。かくして計画は練られ、綿密な準備がされた。

 ふたりが思いついたのは文芸年鑑の偽造だ。もうひと昔になるが、文三がその冊子を見せてくれたことがある。ここに載れるようなりたいと文三がいった言葉をふたりは忘れていない。経師屋の一郎は紙の扱いになれていて、まっさらな今年の年鑑をとりよせると、翌年の版に見せかける作業に着手した。正雄の家業は小さな印刷屋だ。商店街のチラシや市役所から頼まれる観光案内などを作っている。ふたりはワープロで作った文三の項目を年鑑の紙質にそろえて印刷し挟みこみ、きれいに表装しなおした。肝心な文三の事項はふたりして頭をよせて苦悶したあげく、他人の略歴をあっちから少しこっちからちょこっと拝借して、それらしい文を捏造した。特徴的なのは文三の誕生日だ。三人とも閏年生まれだが、あわれ文三は二月二十九日だった。誕生日が四年に一度じゃかわいそうだと、親は三月一日生まれで出生届をしたのもうなずける。

 とにかく、すったもんだしながら年鑑はできあがった。上々の出来と思えるが一抹の不安はある。明るいところで見られたらやはりまずい。思いついたのはいまは廃屋となっている山中の元料亭だった。開店準備のときに一郎は仲間たちと襖や障子を建てつけた。閉店後のかたづけも手伝い、小門と裏玄関がいつも開けっぱなしなのを知っていた。一郎が用意した極上の和紙に正雄が金釘流で書簡をしたため、料亭の名を借りて海市堂という人物を作りあげる。その名は篆刻が趣味の米屋の隠居の堂号印で、なんども自慢たらしく見せられたから覚えていた。借りてきた海市堂の朱印を押すと、書簡はすっかりそれらしい趣になった。

 かくして大芝居の幕は切っておとされた。いまから一週間まえのことだった。


「おれたちにぜーんぜん気づかないなんてさあ、信じらんねえ」

 あきれる正雄に一郎も苦笑して、

「しかし、おたがいよく化けたなあ」

「おれ、ずっと下むいてた。ズラと口ひげつけてても、びくびくだったぜ」

 運転手役の正男は肩をすくめた。

「おれなんか白髪のズラはともかく、眉毛とひげがかゆくってさあ」

「でも、声をちがえるってのは難しいなあ」

 正雄が喉元を押えて、あーうーと発声した。

「声より背丈よ。こりゃ変えられねえぜ。一週間がとこ、腰と背中が痛かったもんな」

一郎は小柄なほうだが、それでも背をかがめつづけた苦痛を思い出して顔をしかめた。

 しばし、ふたりはたがいの健闘をたたえた。

「なあ、作家になれっかなあ、文三のやつ。いっちゃん、どう思う?」

「どうって、あとはもう文三しだいよ。それとよ、ちょっとだけ、運かな」

「ほんじゃ、その運がぶんちゃんにバッチシ向くように、乾杯!」

「おう!」

 盛り上がったところに、菜箸をにぎった大阪のおばちゃんが声をかけた。

「ごめん、いい忘れとったわ。さっきな、ぶんちゃんから電話でことづけ頼まれてん」

「おっ、あいつくる気になったか」

「ちがうがな。あんたら、ぶんちゃんに早めの誕生祝いでもしたんか?」

「あん?」

「誕生日を憶えててくれておおきにって。戸籍上は三月一日だけど、ほんまは閏年の二月二十九日生まれなんやてな。誕生日が四年に一回じゃかわいそうやからって親が三月一日生まれで届けたけど、それを知ってるのは小学校から一緒のあんたらだけだっていうてたよ。そうなん?」

 一瞬、キョトンとなった二人だが、

「ああっ、あーーー!」

 叫んで顔を見あわせた。

「経歴だっ、チキショウ、あいつの生年月日は戸籍どおりにすりゃよかったんだよ!」

 一郎と正雄は乾杯のコップをガシャンと音を立ててカウンターに置いた。

「お礼に今夜はぶんちゃんの勘定で飲んでくれって。あ、それからな、運転手とカイ、えーと、なんゆうたかな、カイシ、ドウによろしくっていってはったわ。なんやの、カイシドウて?」

「あーー、もう、いけねえや」

 ふたりは同時に叫んだ。

 一郎と正雄の大爆笑は満杯の店の壁をゆさぶり、天井からはねかえった。

「ほれ、ええかげんにせんかいな。店が壊れるがな」

 おばちゃんに菜箸で叩かれても止むものではない。

「あかんわ、ほんま。せやけど仲ええなあ、あんたら三人」

 あきれ顔のおばちゃんがいい、顔見知りの客たちはみな相槌を打った。


         ― 了 ―


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

湘南幻燈夜話 第十話「海市堂異聞」 @kyufu

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る