水葬

孵化

第1話

 ある、六月末の頃だった。

 半月ほど続いた梅雨が明けた、一番目の晴れの日の事だ。

 照りだした太陽から身を隠すように、私は山の奥の方へと歩いていた。

 草や虫や折れた木の枝が散乱する荒れた獣道。踏まれる度に溶けた土がぐちょぐちょと音を立て、その断末魔が辺りを木霊する。私は今、自然を殺しているのだ。そう思うと嗜虐心が掻き立てられ、白い足に何度か土が跳ねた。そんな、日の届かぬ場所を目指す途中の事だった。

 木からぶら下がる、一人の男の姿が目に入った。首には縄がまかれていて、足は地についていない。風が吹いて木が揺れると、同じようにふらふらと男も揺れた。低い音を立てて木が唸り、その度に、男を支えている太い枝が悲鳴を上げる。

 私はそれに目を奪われた。他のものなど何一つも留まらない程に、美しいとさえ思ってしまった。

 首吊り、という言葉は知っていた。それが、自らの手で流転する時を終わらせる最後の手段であることも。そして、目の前にあるモノが、その結果生まれた人の成れの果てであることも理解していた。それでも、私はソレから目が離せなかった。

 人が宙に浮いているのだ。木に括り付けられて、自力では動かずに、自然に身を委ね眠っている。

 私にはそれが、自然の一部のように思えた。人が木と一体となって、枝葉と共に風に揺られている。なにかそういう、神秘的な物に見えてしまった。人が昔から自然に神を見出し信仰するのと同じように、それを見た私は、宙ぶらりんの男に禍々しい程の神性を見出してしまった。

 人が往来信仰してやまない自然と、同じものに見えたのだ。

 私はそれに憧れた。私も、自然になりたいと強く思った。

 希死念慮があったわけではない。ただただ、自然に強く憧れたのだ。誰かの信仰の対象になりたい。そんな高尚な願いがあったのかもしれない。


 それから10年後、私はあの時と同じ場所にやってきた。山の上の方の、一段だけ窪んだ盆地のような地形。雨が降れば水がたまり、秋にはそれに紅葉が浮かぶ。あの日には気付くことのなかった、自然の織りなす神秘の景色。小さな祠と共に神の住まう地だと書かれていても、あるいは信じるのだろう。そんな場所に、私はもう一度足を踏み入れた。

 そこにはやはり、10年前と同じあの男の姿があった。ただし、それは地に落ちて、所々に土を被り、あの日着ていた服には虫が食べたみたいな穴が無数に空いている。酷く寂寥とした姿だった。

 永遠なんてない。全て、いつかは消える時が来る。そんな簡単なことくらい、わかっていた。

 それなのに、永遠の死という必然から目を背け、あまつさえ永遠になろうなどというくだらない願いすら抱いてしまっていた。

 たかが10年という人類史と並ぶには傲慢が過ぎるほどに儚い時間でさえも、人は神でいることなどできない。あるいは、祈る者がそれに気づいたときに、永遠は崩壊するのだろう。そう思うと、私の中にあった何かが潰れた感覚がした。

 蝋燭の火が消えるように、私の中にあった自然と一体になるという興味が失われていく。燻る炎でさえ、煩わしく思う程に。あの日から色が消えていく。

 盲目的に自然を信仰し、あの人と同じようになれたらと思い続けてきた時間が終わりを迎えた。夢が覚めた。あるいは、冷めてしまったのだ。鼻腔を刺激する雨上がりの濃厚な土の匂いが生暖かい風に吹かれてやってくる。かつてこの場所で、同じ風に揺れていたモノが、地面から穴の空いた瞳を覗かせている。

 それが酷く悲しく思えて、私は彼を埋めようと思った。

 10年間、私以外の誰からも見つけられることなく、孤独にここにいたのだろうか。雫が一つ、白骨化した男の遺体に落ちる。そっと触れた首元には、どういうわけかまだ縄が残っていた。

 苦しかったのだろう。辛かったのだろう。

 彼には、私のような自然になりたいだとかいう願いなど無く、生きるか死ぬかの二択を天秤にかけた結果の自死だったのだろう。辺りが数段暗くなる。雲が、太陽を遮った。

 彼の辛さを知らず、彼の後を追おうとした私は愚かだ。いっそこの穴に私も埋まり、彼の死を冒涜した罰を受けるべきか。頭に浮かんだ結末は、すぐに否定された。私にはそんなことをする資格なんてない。彼と同じ場所に隠れる資格なんてないのだ。

 せいぜい、雨曝しにされるのがちょうどよいだろう。

 彼が埋まるほどの穴ができる頃には、既に夕方になっていた。それでも日が落ちることはなく、いまだ健在のままあたりを明るく照らしている。

 窪みの中央に空いた大穴に、彼の遺体を投げた。ここが彼の墓標だ。

 一人の人間の一生を、本当の意味で終わらせた。終わらせてしまった。その虚しさが肺の中で膨張する。穴からこちら側を覗く男は、その両眼がどこを指し示しているのかも分からない。私が死んだ時には、誰かが見つけてくれるだろうか。

 男にそっと土を被せる。手のひらから土が零れる度に、男がここに居たという記憶が消えていく。いつかは、彼が生きた記憶と同じ様に、死んだ記憶もまた消えるのだろうか。

 やがて夕立が降り出しても、私はしばらくそのままでいた。

 髪が濡れ、服が濡れ、土が濡れる。

 雨上がり。本来なら水でいっぱいになるはずの窪みには、男の亡骸と寂寞が、今にも溢れそうなほどに満ちていた。眼窟から溶けだしたような、酷く苦く、それでいてどこか仄甘い香りが立ち込めている。あの日と同じ、緩やかにも死を香るぺトリコール。

 私は、記憶も流れれば良かったのにとつぶやいて、いっぱいに張った水にゆっくりと顔を付けた。

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水葬 孵化 @huranis

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