黒百合さんから僕は永遠に逃げられない

乙希々

序章

第1話 闇に潜むものたち

 午前二時。

 人気もまばらとなった真夜中の繁華街。

 街灯の明かりも届かぬ雑居ビルに挟まれた路地裏の片隅で、夜の闇に溶け込む一人の少女の姿があった。


 年の頃は、十五、六だろうか──


 小柄の体躯。

 肩口で揃えたショートカットの髪。黒いワンピースのロングスカートは、時折ふわりと夜風になびいている。


 少女は瞳を鋭く、ただ一点を見つめていた。


 その先に、数台の無造作に放置された自転車、ゴミに溢れるポリバケツが散乱したコンクリートの一面──また、背を屈め『何か』を無心にむさぼりつく、蠢く『影』がある。

 周囲に錆びつく鉄に似た臭気が漂う中、少女は、その影に向かって今ゆっくりと足を前に踏み出した。


 パサリ。


 ──少女が踏んだ紙切れから、今微かに音が鳴り、影の動きがピタリと静止した。徐ろに影は振り向き、だらりと立ち上がるや否や、口に咥えていた塊を少女に向け投げつける──と同時、少女は長いスカートを翻し、アスファルトを蹴る。

 ビチャ──、少女がいた地面には、何かが潰れた不快な音が鳴る。少女は足元にへばりつく赤黒い塊を一瞥。すぐさま顔を上げ、黒い影と対峙した。ビルと路地の隙間から車のヘッドライトが横切り、未だ少女と向き合う影の姿が一瞬、眩い光に照らされる。


 細身の若い男。


 恐らく『あの少年』とさほど変らぬ年頃。今の若者たちに置き換えるのなら、いけめん、という種族に当てはまるのだろう、と少女は思った。だが今も尚、少女を見据える獣のようなギラギラとしたその双眸は、まるで『ヒト』とは異っていた。

 ──刹那、少女の頬に鋭利なものがかすめ、栗色の髪の毛数本と共に赤い鮮血が宙に広がり、かわす背後のコンクリートの壁には、今まさに一本の鉄パイプが突き刺さる。

 間を置かず少女は、ショートブーツの靴底をきしめかせ、無理やり向かい壁に退いたその瞬間、ヒュン、と風きり音と共に男の顔が少女の眼前に浮かぶ。


「へへっ」


 そのまま男は少女の顔を覗き込むと、真っ赤な歯を剥き出し、歪な笑みを浮かべた。長い舌を出し、少女の頬に滲む赤い血をペロリ、と舐める。

 少女の頬が微かに強張る。それも一瞬、僅かに開く男の股下をくぐり抜け、その背後へと周る。体制を整えるや否や、突如虚空に具現した長刀を構え、すぐさま抜刀──男に向かって跳躍する。

 持つ刃が男の肩を貫こうとする、まさにその時、少女は突き出した右手を後に流し、突先の軌道を修正。そのまま身をひねり、地面へと着地。片膝をつき男を見上げる。


「ぐぅうるるるぅ──っ!」


 そこには、胸を押さえもがき苦しむ男の姿があった。身につけるワイシャツの隙間からは、翠色の淡い光が漏れるよう浮び上がっている。

 ──突如、光が四方に散った。瞬時に少女は真後ろに跳ぶ。いた地面には、男から飛び散ったと思しき液体がこびり付き、煙を上げ、アスファルトを焦がした。


 ピキッ──


 直後、男の身体からガラスのひび割れのような音が軋み、上半身の衣服が裂け、その剥き出しとなった肌が膨張し、


「ぐっ!」


 苦痛に歪む男の顔が少女を見据えた。

 その見開かれた瞳からは、まるで涙のよう赤い血が滴っている。


「──、」


 対し、少女は。


「──時既に遅し」


 ポツリと呟く。

 ただ、その時彼に向けられた彼女の瞳は、どこか冷たくも儚げで──その鋭く黒がかった双眸は、徐々に翠玊色に染まっていく。

 少女は腰を低く落とし、細く鋭利な刃の切っ先を前方へ伸ばした左掌に掲げ、右手に握る柄を後方に引く。刀身は、かってヒトだったものの首元に定め構える。


「ぐぉぉおおおおお──っ!」


 男が宙を仰ぎ咆哮、と同時、少女に突進。この時すでに少女の全身を囲うかのよう無数の光の尾が舞い、構える刃からは轟炎が渦巻き、闇の中、蒼い火花を灯す。

 そして青白く点した髪を陽炎になびかせ、少女は囁く。


「──私の名は、


 黒百合(くろゆり)。


 貴方を排除します──」

 

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