ラララ列車は止まらない

天ノ川夢人

第1話

 二〇〇六年、冬のニュー・ヨーク。

 俺は新聞社の編集部の仲間二人と一緒に、『グラスゴー』と言うレストランのテイブル席に着き、注文した食事を待っている。店内にはパブ・ロックが次から次へと流れている。一緒に店に来たアンとスティーヴは春に結婚する予定でいる。俺は恋人を作る事に関しては全く消極的で、今までに恋した女性は全て他の男に持っていかれた。三十六歳の現在までずっと恋人が出来た例がない。

「私は新婚旅行では絶対ヨーロッパの主要都市を一巡りするの」とアンが楽しそうに落ち着いた甘い低い声で言う。俺は舌嘗りしながらアンの美しい唇に見惚れている。

「ショーン!おい!聞いてるのか?お前、人の恋人を見つめ過ぎだぞ!おい!聞いてるのか!」とスティーヴが大声で言う。

「煩い奴だなあ。何だよ?俺ならちゃんと聞いてるよ」

「お前は人の恋人を見つめ過ぎなんだよ。アンは俺の婚約者なんだぞ」

「俺がアンに見惚れるのはアンが美し過ぎるからだろう」

「お前のその褒め言葉には大した意味はなく、口説いてる訳でもないのはよく知ってるよ。しかしな、お前はちょっと度を超えて人の女を見つめ過ぎるところがあるぞ」

「別に喰って食べようって訳じゃないんだから良いだろ」

「いや、それは微妙に違うな。お前は寧ろ、好きな女がいるなら食ってみるべきだ。お前はもっと度胸を以て好きな女に体当たりし、自分の想いを伝えなきゃいけない」

「俺は信仰者だから、婚前交渉なんて全く望んでいないんだ」

「それが古臭いんだよ。今時そんな古臭い考え方で結婚なんて出来ると思うか?一寸待ってろ。カウンター席の方に俺の高校時代の友達がいるから挨拶してくるよ。ショーン、一寸ここで待ってろ。お前には仕込まなきゃいけない事が沢山あるんだ。一寸待ってろ!一寸待ってろよ!」

 スティーヴはそのように何度も念を押してから席を立つ。俺はその途端にアンを見つめている事がとても恥ずかしくなり、俯いてしまう。服についた糸屑を取り払うような仕種をし、どうにか時間稼ぎをする。

「ショーン、あなた、病気よ。二人になったら、もう私の良い所を話してくれないのね」とアンが俺に向かいの席から乗り出すようにして話しかける。俺は椅子の背に凭れかかり、緊張しないで済むように、アンとの一定の距離を保つ。アンと二人きりで話すのは良くない。アンはスティーヴの婚約者なのだ。

 奥のカウンター席に白いスーツを着た細身の大きな男がこちらに背を向けて座っている。その男が左側に置いていたグラスを一瞬にして自分の右手の中に吸い寄せる。俺は自分の眼を疑う。誰かに自分の見た事を言いたくて仕方ない。俺はアンの顔を見て話しかけようとする。その途端、通りに面した硝子窓が大きな爆発音と共に割れ、店内全体が悲鳴で満ちる。その直後にマシンガンを乱射する銃声が鳴り響き、四方八方で硝子の割れる音がけたたましく鳴り響く。先の白いスーツの男が座っていた席の後ろのテイブル席に座っていた青いジャンパーを着た男の上半身からオレンジ色の炎でめらめらと燃え上がる。炎に包まれた青いジャンパーを着た男は恐怖のあまり立ち上がり、燃えている自分の頭の火を消そうと大慌てで両手を動かし、床に倒れて炎の熱さにもがき苦しむ。真ん前でそれを見ているアンは酷く取り乱し、俺は床の上に姿勢を屈めながら、「アン!伏せろ!」と椅子に腰かけたまま動けずにいるアンを呼ぶ。アンは席から崩れ落ちて床に尻餅を憑き、頭を抱えて悲鳴を上げる。かと思うと、アンは徐に立ち上がり、周囲を見回しながら、「スティーヴ!スティーヴ!何処にいるの!」と叫び、スティーヴを探しにいく。俺は立ち上がり、「アン!危ない!」と叫ぶと、アンを床に倒し、アンの上に覆い被さる。マシンガンを手に持ち、頭から首までをすっぽりとニットの帽子で蔽い、黒いサングラッシーズをかけた黒装束の男達が聞き慣れぬ外国語で何かを叫んでいる。俺はテイブルの下から店内の様子を窺う。黒装束の男達がマシンガンを乱射する銃声が止むと、一瞬店内が静まり、その直ぐ後に店内の者らが騒ぎ始める。アンも俺の体を払い除けて立ち上がる。アンは騒然とした店内をよろよろと歩いていく。あの男がいない!先見た超能力を使う白いスーツの男がいないのだ!俺は立ち上がり、アンの後ろについて、スティーヴと白いスーツを着た男をアンと共に捜す。警察が入口からわっと入ってくる。その後から救急隊員が担架を持って店内に入ってくる。担架の上に血だらけのスティーヴが救助されている。アンと俺は救急隊員に運ばれていく担架に駆け寄る。担架で店内から運び出されるスティーヴの血だらけの手をアンが強く握り、救急車までついて行く。俺は店内の外の夜のマッハッタンの街が何事もなかったかのように息衝く様子に独り取り残されたような孤独感を感じる。あの白いスーツの男は一体何処に行ったんだ?警察官が俺に身分証明書を見せるように言う。俺は名刺を警察官に手渡す。警察官が俺の手に名刺を返すと、俺は地下鉄の駅の方にふらふらと歩いていく。俺は白いスーツの男を捜すため、地下鉄への階段を下りていく。地下鉄がプラットフォームに停車している。俺は前の方の離れた扉から白いスーツを着た先の男が地下鉄に乗るのを見つける。俺は急いで近くの扉から地下鉄に乗る。発進した地下鉄の中で俺は白いスーツの男のいる車両へと歩いていく。白いスーツの男がこちらをちらちらと笑顔で振り返りながら、前の車両へと遠ざかっていく。車内は混んでいる。

「ちょっと失礼」と言いながら、俺は少しずつ混雑した車内を前へ前へと進む。あの野郎、何をにやにやと笑っていやがるんだ。次の駅に着くまでに白いスーツの男との距離は縮まらなかった。その次の駅で白いスーツの男が下車する。混み合った地下鉄から何とか俺も下車する。一番奥の階段を上がっていく白いスーツの男の脚が見える。俺は白いスーツの男の方に駆け足で接近する。地上に出ると、レンガ造りの建物が建ち並ぶ道に出る。俺は白いスーツの男の行方を捜そうと辺りを見回す。白いスーツの男が笑顔をこちらに向け、薬局の曲がり角を左に曲がる。俺は駆け足で曲がり角に向かう。角を曲がると、白いスーツの男の姿がない。何処に行きやがった!男を見失った俺は息が上がり、ガードレイルに腰かけて煙草を胸ポケットから出す。俺は口に煙草を一本銜え、火を点ける。通りの反対側の十字路の角の建物から白いスーツの男がこちらを見ている。白いスーツの男はその先の角を右に曲がる。俺は煙草を路上に捨て、再び駆け足で白いスーツの男の後を追う。足の速い野郎だ!白いスーツの男が前方の十字路に立ち止まり、こちらに笑顔を見せる。白いスーツの男はその十字路を左に曲がる。オレンジ色の街灯が等間隔で立ち、白いスーツの男を追って角を曲がる度に白いスーツの男の姿が見えなくなる。そんな事を何度も繰り返し、遂には俺も力尽きて腰を屈める。俺は吐き気を覚えて荒い息を吐く。白いスーツの男が遠くの十字路の角で俺の様子を眺めている。白いスーツの男は再び角を曲がる。俺の心臓の鼓動は激しく打っている。俺は再び走る。煙草を吸いてえ。曲がり角に辿り着く度に白いスーツの男が遠くの十字路に立ち止まり、俺に笑顔を見せて曲がる。全く憎たらしい野郎だ!俺は自分の全てを賭けて白いスーツの男を追う。追って追って、俺は遂に白いスーツの男を袋小路に追い詰める。白いスーツの男は袋小路の突き当たりにあるゴミ収集箱の上に腰かけ、俺が近づくのを観て拍手している。俺は腰を屈め、胸ポケットから煙草を一本出し、煙草を口に銜えて火を点ける。俺は白いスーツの男にゆっくりと近づいていく。ゴミ収集箱の上に腰かけていた筈の白いスーツを着た男の姿は、光の加減で人に見えた、白い布を被せた壊れたマネキン人形だった。俺はすっかり力が抜けて疲れ果てると、膝から地に崩れ落ちる。俺は両手を地に着け、右手で口から煙草を手に取ると、煙を吐きながら咳き込む。俺はよろめきながら何とか立ち上がる。後ろに振り返ると、袋小路の入口辺りに白いスーツの男が立っている。男はまた笑顔を見せ、十字路を左に曲がっていく。俺は腰を屈め、左膝を地に着けながら目を瞑ると、手で瞼を擦る。幻覚を見ているんじゃないかと思ったのだ。俺は白いスーツの男を追うのを諦め、ゆっくりと目を開ける。白いスーツの男が再び袋小路の入口辺りに立っている。もう家に帰ろう。奴の事なら、これ以上追わなくとも、奴の方から近づいてくるだろう。あの男は恐らく霊だろう。俺はタクシーに乗り、運転手に行き先を告げると、しばらく車内で眠る。


 閉じたクローゼットの暗がりの中でアンソニー叔父さんが俺の肩に手を回し、「結局、お前はあの子をモノにしなかった訳か」と温かく優しい声で言う。

「あの子には別に好きな男がいたし、俺は俺でどうしても彼女を恋人にしなければいけない理由はなかったんだ」

 アンソニー叔父さんは右手の指先で俺の左の乳首を摘み、「お前はいつも何もしないで女を素通りさせてるんだぞ」と言う。俺はアンソニー叔父さんに乳首を摘ままれ、変な気分になる。俺は昔からこの人に対して特別な想いがある。この人はいつも黒いリーゼントの髪を俺の頬に密着させ、俺の肩を強く抱き締めては、睫毛の長い、憂いのある優しい青い目で語りかける。すらりと背の高い細身の体つきで、指の長い白い手や細く長い首筋に女性的なしなやかさを感じさせる。もしも、このアンソニー叔父さんの唇が俺の唇に触れるような事があったなら、俺にはそれなりの覚悟がある。俺はそのギリギリの緊張感に満ちた熱っぽい体の中で、自分を女に貶める決定的な出来事を期待している。

「お客さん!起きなよ!もう着いたよ!」とタクシー・ドライヴァーが眠っている俺を起こす。

「ああ、もう着いたか。はああ。深く眠ってたな」

 俺は料金を運転手に払い、タクシーを降りる。タクシーが走り出すと、俺は人通りの絶えたシャッターの閉まった薬局の前に取り残される。俺は『セヴン・イレヴン』の灯だけが前方に輝く暗い道を歩いていく。煙草を胸ポケットから出し、一本口に銜えると、ライターで煙草の先に火を点ける。前方に視線を戻すと、『セヴン・イレヴン』から白いスーツの男が出てくる。白いスーツの男がこちらに向かって、またにやりと笑みを顔に浮かべる。またアイツが・・・・。俺は目を瞑り、瞼を擦ると、ゆっくりと目を開ける。白いスーツの男が再び『セヴン・イレヴン』から出てきて、またにやりと顔に笑みを浮かべる。俺は早足に男の方に近づいていく。白いスーツを着た男がコンヴィニエンス・ストアーの前から走り出す。走り出した白いスーツの男は十字路のところで立ち止まり、こちらを振り返ると、またにやりと笑みを顔に浮かべ、十字路を左に曲がる。あの野郎!俺のアパートメントの方の道に入りやがった!俺は余裕を持ってコンヴィニエンス・ストアーに入り、ゆっくりと買い物をしてから店を出る。十字路のところに白いスーツの男が立っている。白いスーツの男はまたにやりと笑うと、俺のアパートメントのある通りに左折する。俺はタンクに入った水を喇叭飲みし、フレンチ・フライを食べながら、ゆっくりと十字路に向かって歩き、十字路を左折する。

 白いスーツの男の姿はない。俺は灯の消えた灰色の壁のアパートメントの入口に入り、赤みがかった灯が点る階段を上がる。二階の一番手前のドアーの鍵穴に鍵を入れ、ドアーを開ける。俺は部屋の中に入り、電気を点けずに窓際に近づき、窓から通りを見渡す。背後に人の気配を感じる。振り返った途端に頭に強烈な打撃を受ける。


「漸く目覚めたようですね」と低い男の声が言う。俺は目を開ける。闇の中から鉄格子越しに見える白いカーテンの向こうの灯の中に椅子に腰かけた人影が見える。精神病院の中か?そう言えば、夕の薬を飲み忘れていた。

「ここは数年前までは精神病院だったんです。今は寂れた廃墟ですがね。そこは昔の保護室です」

「ドクター、夕の薬を飲み忘れました」

「おやおや、私はドクターなどではありませんよ」

「ならば、ここから出してください」

「出たければ自分で出なさい」

 俺は鉄格子の扉に手で触れる。扉は触れただけで開いた。俺は保護室の鉄格子の外に出て、白いカーテンの方に歩いていくと、カーテンの前で黙って立ち止まる。

「君は私に何か用があるのかな?」

「ああ、いいえ」

「ならば自分の好きなようにしなさい」

 俺は溜息を吐き、左のドアーを開けて階段を上る。もぬけの殻となった旧病棟内の建物の中を出口を求めて歩き回る。旧勤務室の先のドアーを開けると、旧食堂を通って、またドアーを開ける。ドアーの向こうの旧OT室を通り、入って直ぐ右のドアーを開けると、今度は階段を下りていく。漸く階段を降り切ると、旧外来に出て、電気の点いていない自動扉を手で開ける。直ぐ右の有刺鉄線のある白い壁越しに庭を見ると、壁に沿って門のところまで歩いていく。鍵の開いた南京錠が鎖にぶら下がった半開きの門から漸く院外に出る。俺は今出た門を振り返り、あのカーテンの向こうにいた男は誰だったのかと疑問に思う。俺は額と掌と腋の下に冷汗を掻いている。頭が痛い。

「ショーン・ダニエルス。一九六九年五月六日、ニュー・ヨーク生まれ。ニュー・ヨーク大学芸術学部中退。職業コラムニスト。一九九二年に統合失調症が発病。現在治療中。以上。異常なし」

 俺はズボンからハンカチーフを出し、掌と額の冷汗を拭うと、またハンカチーフをズボンの右ポケットに仕舞う。一体何が起こったのか全く訳が判らない。ただこれ以上奇妙な出来事に深入りしたくない。

 オレンジ色の街灯の灯の下で、ガードレイルに腰かけた二十歳前後の学生らしき男二人が前を通り縋ろうとする俺の顔をにやにやとした顔で見ている。

「何処に行ってたの?」と手前に座っている男が俺に話しかける。俺の心は酷く動揺する。俺は質問を無視し、二人の男の前を通り過ぎる。同じアパートメントに住んでる大学生だろうか。彼らが俺をあそこに運んだのか。変に言いがかりをつけてトラブルを起こすのは良くない。ああ、煙草が吸いてえ。胸ポケットから煙草を出そうとしたら、煙草がない。俺は旧精神病院の方を振り返る。何だ、近所の病院址じゃないか。俺は早足に歩いてアパートメントに帰る。

 俺は赤みがかった電球の灯が点る階段を上がる。俺の部屋のドアーは開けっ放しで、部屋から暗い廊下に灯が漏れている。俺は部屋の中に入り、ドアーを閉めると、今度はしっかりと鍵をかける。確か居間のテーブルの上に煙草の買い置きがあった筈だ。俺は居間のテーブルの前に来て、テーブルの上を見る。煙草が一箱もない。窓から月明りの射し込む暗い寝室に入り、枕の下に隠しておいた煙草を捜す。あった!俺は煙草を一本出して口に銜え、ライターで煙草の先に火を点ける。カーテンの影からそっと外の様子を見下ろす。窓の下の道路に白いスーツの男が立っている。男は窓辺にいる俺を見上げ、にやりと笑う。そうだ!薬だ!薬を飲めば良いんだ。俺は寝室を出て台所に行くと、流しの上の扉を開け、向精神薬を探す。ああ、薬はある!明日は確か通院日だ。

「ええ!」

 夕の薬も、朝のも昼のも寝る前のも、全て七つずつ残ってるじゃないか!とにかく夕の薬を先ず飲もう。俺は精神安定剤を一錠口に入れ、冷蔵庫の扉を開ける。水がない。俺は居間の窓際に転がった水の入ったタンクを拾い、タンクから喇叭飲みで水を飲み、薬を体内に流し込む。なるほど。ここに中味のない買い物袋が転がってるところを見ると、確かに誰かが背後から俺の頭を打ったんだな。テーブルの上にあった筈の煙草の買い置きは強盗に持っていかれたんだろう。ああ!CDラックの中のCDが全部ない!ズボンの後ろポケットの財布もない。他になくなった物は・・・・。大した物は他にないからなあ。強盗の奴、がっかりして逃げてったんだろう。キャッシュ・カードとクレジット・カードの盗難届けを出さないとな。明日、警察と銀行に行って、早速用を済まそう。寝室のクローゼットも開いてる!俺のお気に入りの革ジャンがない。警察に通報しないと。俺はベッドに腰かけ、警察に電話する。

『はい、こちら**警察署です』と女性の警官が電話に出る。

「あっ、あの、強盗に入られました」

『お名前とご住所を』

「ショーン・ダニエルスです。住所は**ストリートの二十一です」

『今直ぐ行きますので、現場を余り弄らないようにしてください』

「はい、判りました」

 今度は編集部に電話だ。

『はい、こちら**新聞編集部です』

「ああ、編集長、明日病院に通院したら、多分入院になります」

『そうか。薬を飲み忘れたのか?』

「明日、通院日なのに、七日分も薬が残ってるんです」

『まあ、とにかく、お前は今日で連載が終了して契約が切れるんだ。今夜はアンとスティーヴとでお別れ会をしてたんだろ?』

「えっ、ああ。ああ!編集長!スティーヴが大変な事になりましたよ!」

『知ってる。先、アンから電話が入った。アンと一緒にいてやったんだろうな?』

「それが、犯人を追い駆けてたら、幻覚だったらしくて。とにかく色々あって、漸く家に帰ってきたんです」

『いい、いい。もういい。とにかく二年間御苦労様』

「色々と御世話になりました」

『大した事はしてやれなかったが、元気でな』

「はい。色々とありがとうございます。さようなら」

 電話が切れる。次はアンに電話だ。

「ダニエルスさん、警察です。入りますよ」

「ああ、御巡りさんだ。どうぞ、お入りください!」

「ダニエルスさんですか?身分証明書を見せてください」

「それが強盗に財布を持ってかれて、免許書も何もかも全部ないんです」

「なくなった物は?」

「ええと、煙草の買い置きと、お気に入りの黒の革ジャンと、それから買い物したばかりのコンビニの夕食です。ああ、それとキャッシュ・カードとクレジット・カードと免許証と障害者手帳と現金一二五ドルと小銭が少し入った財布です」

「お金は戻らないと思ってください。それとキャッシュ・カードとクレジット・カードの紛失に関しては明日銀行に届けを出してください。他に盗まれた物は?」

「もうないと思います。ああ!いやっ、CDラックの中のCDが全部盗まれました」

「それじゃあ、この用紙に盗難品を書き出して、ここに署名をしてください」

「はい。判りました」

「では、何時頃強盗に襲われたんですか?」

「それが強盗に襲われる前に『グラスゴー』と言うレストランで爆破とマシンガンの乱射事件があり、店にいた犯人を追いかけていたんです。それがどうも幻覚を追っていたようなんです。私はやっとタクシーに乗って地元に帰ってきて、コンビニに寄って買い物をしてから家に帰ってきたら、背後から何かで強く頭を打たれ、気絶したんです。目覚めたら近くの旧精神病院址の保護室にいて、そこから漸く今帰ってきたばかりなんです」

「そうですか。それじゃ、犯人が捕まり次第ご連絡します。電話番号を教えていただけますか?」

「ああ、はい」

 俺が警察官に電話番号を伝えると、警察は早々に部屋を出ていく。ああ!アンに電話しないと!

「アンかい?俺だよ。ショーン」

 電話が切れる。何だよ、心配して電話かけたのに・・・・。ああ、スティーヴはどうなったろう。

「ああ、編集長、ダニエルスです」

『おお、ショーン。まだ何か用かい?』

「スティーヴはどうなりましたか?」

『残念ながら、スティーヴは亡くなったよ』

「そうですか。今日の『グラスゴー』での事件は何だったんですかね?」

『TVを点けて、ニュースを観てみろ。またイスラムの無差別テロかって報道では言われてる』

「無差別テロ!」

『うん』

「それじゃあ、御世話になりました」

『明日の通院を忘れるなよ』

「ああ、はい。ありがとうございます。それじゃあ、さようなら」

 そうか、今日の『グラスゴー』での会食はお別れ会だったっけ。てっきり明日も出勤するつもりでいたよ。窓の外を見下ろすと、またあの白いスーツを着た男が俺のいる寝室の窓を見上げ、にやりとした笑みを顔に浮かべている。

 あんた、何者?

『名前はマイケル・アンダーソンだ』

 霊なのか?

『そうだ』

 何故、俺の前に現われた?俺に何の用がある?

『俺はあの世とこの世の境に立つ神の使者だ』

 天使なのか?

『そんな立派な者ではない』

 俺は二〇代の初め頃に電気ショック療法を受けた。それを機に幻聴が消えた。白いスーツの男の声はその頃の幻聴と全く同じ性質の声だ。

『俺はお前が追えば離れ、離れれば近づく。お前が俺の生命の安否を気遣う必要はない。俺は何者によっても滅ぼされる事はない。俺は何れ再び人間に生まれ変わるだろう』

 ああ、風呂に入りたい。

『風呂に入りたいのならば、俺を気にせず入れば良い』

 俺は窓から離れ、風呂に入る。バスタブに湯を溜めて浸かると、水面に白いスーツを着た男の顔が映る。また入院なのか。連続七日間も薬を飲んでいない。いいや、一昨日は飲んでるな。飲んだり、飲まなかったりで七日分残ったのか。よく体を洗って、長年の垢を落とそうか。強盗に殴られて気絶し、目覚めたら旧精神病院の保護室の中だったなんて本当に悪い冗談だ。誰があんなところに態々俺を運んだんだ。あのガードレイルに腰かけていた少年二人か。確かにそういう悪さをしそうな少年達だった。あの白いスーツの霊、マイケル・アンダーソンの声を聞き、幻聴が再発するのか。

 俺は風呂から出ると、歯磨きをし、寝る前の薬を飲んで寝巻きに着替える。もう午前零時過ぎだ。寝室の窓の外の路上を見下ろす。マイケル・アンダーソンが俺を見上げ、にやりと笑みを顔に浮かべている。

 お休み。

『お休み』とマイケル・アンダーソンが答える。

 やはり、幻聴とは霊感ある者が聴覚的に聴こえる霊の声だったのか。幻聴が聴こえ始め、精神科に関わると、我々統合失調症の当事者達は心霊説と幻覚説との狭間に立たされる。距離感を持った知性ある霊が現われた事で霊感を持つ事に誇りを取り戻した。


 翌朝、目覚めると、真っ暗な鉄格子のある部屋の中に横になっている。鉄格子の向こうの白いカーテンの奥の壁に時計がある。もう九時を少し過ぎている。今日は通院日だ。寝ている内にまた旧精神病院址の旧保護室に運ばれたようだ。こんな悪戯ばかりする奴は誰だ!俺は鉄格子の扉に手をかけ、扉を開ける。扉が開かない!俺は鉄格子の扉を思い切り足で蹴る。

「どうかしましたか?」と昨晩カーテンの越しに話した男の声が言う。

「今日は通院日なんだ。お前らとふざけてる時間はないんだ」

「私はここに当直で寝泊りをしている者に過ぎませんよ。そこにあなたを運んで来た者達は鍵をかけて帰っていきましたよ」

「合鍵がある筈だ」

「ああ、合鍵なら、ここの土地の持ち主が持ってますよ」

「その人を呼んできてもらえないか?」

「私はここから離れる訳にはいきません。私の任務なのでね」

「ここに俺を連れてきた奴はどんな奴だ?」

「さあ、知りませんねえ」

「ああ、済まないが、腹が空いてるんで、食べ物を分けてもらえないか?」

「何で私があなたに食べ物を分ける必要があるんですか?私は決して贅沢をせず、こんな質素な食生活を二十年も続けてきたんです。あなたはそんな私のささやかな食べ物まで奪うつもりなんですか?」

「食べ物も飲み物も薬もないのに、どうやって正常さを保つんだ?」

「そこは今のあなたのように精神状態が乱れた精神病患者が入れられてた隔離室だったんです。あなたは何も心配する必要はありません」

「旧精神病院址の保護室だろうと、患者に薬を与えなければ、何の目的も果たせない」

「何か人に怨まれるような事でもしたんですか?」

「ああ、済まないが、煙草を一本くれないか?」

「残念ながら、私は喫煙者ではありません。それに私にはあなたに煙草を分け与えねばならない義理もありません」

「あんた、先からカーテンに隠れて何をしてるんだ?」

「ここは私の勤務室です。私はただここに座り、自分に与えられた任務を今日一日遂行しようとしているだけです」

「あんた、俺のお仲間かな?」

「何の事ですか?」

「あんた、統合失調症だろ?」

 カーテンの向こうで椅子を動かす音がする。水道から水を流すような音がする。白いカーテンが勢いよく開かれる。紺色の作業服を着て、銀縁眼鏡をかけた、白髪を七三に分けた背の高い痩せ気味の男が水道に繋がったホースを手に持ち、ホースの先を指で抓んで鉄格子の中に水撒きを始める。

「おい!何をする!濡れるじゃないか!止めろ!」

「あなたは自分では何もせず、人の仕事の邪魔ばかりしている」

「とにかくこの中に水を蒔くのを止めろ!風邪を引くじゃないか!」

「ああ!文句ばかり!求めるばかり!私はそれしきの事では音を上げませんよ」と男は言い、水を撒き続ける。

「ここに俺を連れてきたのはどんな奴らだ?」

「高校生らしき少年二人です」

「やっぱりあいつらか」

 男は水撒きが済むと、また白いカーテンを引き、再び人影が椅子に腰かける。俺は大きなくしゃみをする。そうだ!スマートフォンがあった!俺はズボンのポケットに手を入れる。あった!あったよ。俺はまだ神に見放されていないようだ。

「もしもし!**ストリートの旧精神病院址の旧保護室に監禁されています!助けに来てください!」

『お名前を』

「ショーン・ダニエルスです」

『判りました。直ぐに向かいます』

 俺は電話を切る。助かった!俺はずぶ濡れの体を震わせながら、旧保護室の隅に腰を下ろし、目を閉じる。頭の中に気持ちの良いものが流れる。壁に凭れて警察が来るのを待つ。ドアーから警察が入ってくる。

「ショーン・ダニエルスさんですね?」と鉄格子越しに警察官が俺に声をかける。

「はい」

「ああ、昨日、強盗に入られた方ですね」と警官官は言い、黒いサングラッシーズを外し、「私ですよ。憶えてますか?」と微笑んで言う。

「ああ、あの時の御巡りさんですか」

「服が濡れてますね」

「ええ。そのカーテンの向こうに座ってる野郎が水撒きを始めて、びしょ濡れにされたんです。頭のおかしい野郎ですよ」

「ああ、彼はこの旧精神病院跡に住んでいる精神障害者なんですよ」

「やっぱり!」

 警察官は旧保護室の鍵穴に掌を当て、鍵を開ける。俺は急いで立ち上がり、鉄格子の外に出る。

 俺は何とか旧精神病院址の建物の外に出る。周囲を見回す。警察の車が俺を追い越し、走り去っていく。

 家に帰る途中、昨日ガードレイルに腰かけていた高校生らしき者達がまたいるのではないかと半分不安な気持ちで歩いている。アパートメントに着くまで少年達の姿は見当たらない。ああ!そうだ!飯をコンビニで買わないと!いやっ、財布を盗まれたんだった!俺は洋服箪笥の中のジーンズに二十ドル隠しているのを思い出す。その二十ドルで朝飯の買い物をしよう。 俺はアパートメントの薄暗い階段を上り、1番手前のドアーを開ける。寝室に入り、洋服箪笥の中のジーンズのポケットの中から二十ドル紙幣を出し、ズボンのポケットに仕舞い込む。

 俺は再び家を出て、ドアーに鍵をすると、薄暗い階段を下りてアパートメントの外に出る。今日は通院だってのに、まだ朝飯も食ってない。

 コンビニで食べ物と飲み物と煙草を買うと、真っ直ぐに家に帰る。アパートメントの薄暗い階段を上がり、家のドアーの鍵を開ける。自然光に薄っすらと照らし出された家の中に入る。俺は居間の白いソファーに腰かける。コンビニの買い物袋を膝の上に置き、朝飯を食べ始める。タンクに入ったミルクを喇叭飲みし、サンドウィッチを食べる。TVを点けようとしたら、TVがない。またやられたか!昨夜はまだあったのだ。俺は警察に電話で通報する。

『はい、こちら***警察署です』と女性の警官が電話に出る。

「あっ、あの、また強盗に入られました!」

『お名前とご住所を』

「ショーン・ダニエルスです。住所は**ストリートの二十一です」

『ああ、昨日、通報されてきた方ですね。今直ぐ行きますので、現場を余り弄らないように』

「判りました」

 そうだ、薬を飲み忘れないようにしないとな。俺は口の中のサンドウィッチを噛みながら、洗面所に行き、鏡扉を開けて朝の薬を出して向精神薬を飲む。再び居間に戻る。煙草を一本口に銜え、久々の煙草をゆっくりと口の中にニコチンを塗すように吹かす。煙を吐きながら、窓から外を見下ろす。白いスーツを着た分身がにやりと笑みを顔に浮かべ、窓辺に立つ俺を見上げている。あの分身、全く微笑ましい限りだ。

 さあ、飯も食ったし、病院に行くか。下手すると入院だ。待てよ。財布を盗まれたんだ!交通費がない!キャッシュ・カードとクレジット・カードと運転免許証と障害者手帳の再交付の手続きもしないといけない。先ずは銀行に行こう。

 俺は家のドアーの鍵を閉め、薄暗い階段を下りる。アパートメントの外に出る。銀行までは自転車で向かう事にする。

 銀行の前まで自転車に乗っていくと、俺は自転車を銀行の前に置いて、銀行に入る。キャッシュ・カードの再交付をしてもらおうとしたら、身分証明書が要ると言われた。仕方なく一端銀行を出て、警察で免許証の再交付をしてもらい、仮の免許証を持って、再び銀行に行く。銀行に引き返し、キャッシュ・カードを再交付してもらう。とりあえず一〇〇ドル引き出し、今度は地下鉄に乗って精神病院に向かう。

 病院に着くと、外来の仲間達が一人一人手前から俺の掌に掌を合わせる。俺は空いているソファーに腰かける。

「おはよう、連載は無事終えたわね」と小太りな体に金髪の長い髪と青い眼をした三十代ぐらいの年齢のスージーが俺に話しかける。

「おはよう、スージー。連載は無事終わったよ。これから後々の契約をしていかないと、また生活保護の身に陥る」

「私はずっと生活保護の身よ」

「そういう意味じゃないよ。決して君を非難している訳じゃない。君は君で十分頑張ってると思う。社会に出て波に乗ると、周囲への気遣いが失われるんだよ」

「あなたは私達のヒーローよ」

「ありがとう」

「あたしも早く詩人としてデビューしたいわ。ウェブ上で公開してる私の詩、もう全部読んでくれた?」

「二編読んだよ。忙しくて、全部はまだ読んでない」

「どうだった?」

「幻聴の事をああじゃないか、こうじゃないかって主張する詩を書くのは止めた方が良いよ」

 スージーが突然泣き始める。

「スージーの詩は全部幻聴に関する事なのよ」と前の席に座っていたサマンサが振り返って俺に言う。サマンサは白髪の長い髪を後ろで束ね、白い襟付きの厚手のシャツの上に茶色と灰色の毛糸のヴェストを着て、黒縁眼鏡をかけた、小太りな六十過ぎぐらいの白人女性である。

「こんな血も涙もないような男の言う事なんか気にするな。成功者になると、皆ああなるんだ」とロブがスージーの手を握りながら言う。ロブは野球帽を被り、白いナイロンのジャンパーに紺の作業着ズボンを着て、黒い革靴を履いた、長い茶色の髪に茶色い眼をした小太りな体付きの白人男性である。

「俺達は地道にウェブ小説サイトで執筆して、プロの作家を目指そう」とロブが泣きじゃくるスージーに言う。

「あっ!警察が家に来るんだった!」と俺は思わず叫んで溜息を吐く。マイケル・アンダーソンが吹き抜けの中庭越しにあるカフェのテーブル席に腰を下ろし、にやりと笑みを顔に浮かべて、こちらを見ている。マイケルはウェイトレスがテーブルの上に置いたコーヒー・カップを手に取り、サンドウィッチを右手で掴んで齧りついている。あいつ、幻なんだろうか。立ち上がった!こっちに歩いてくる。ようく影を見ておこう。マイケルは吹き抜けの中庭を囲むようにあるフロアーを左から回り込み、こちらに近付いてくる。動いているあいつの姿に次々と柱の影がかかっては、影がかかってたところに光が当たる。遠近感もある。

『これで良いか?』

 良いよ。よく判った。マイケルは回り込んできた精神科の外来の後ろで立ち止まる。

『俺の事は気にするな。助けが欲しい時はいつでも呼べ』

 俺は黙って頷く。

 背後の席に座っていたジョーが自信のなさそうな笑顔で俺を見て、肩を竦める。俺はジョーを睨みつけ、元通り前を向いて診察を待つ。診察室から看護婦が出てくる。あっ!ステファニーだ!ステファニーは右足に重心を置いて脚を広げて立ち、右手を腰に置いた笑顔で、「あら、何処の有名人さんかと思ったら、ショーン・ダニエルスじゃないの!新聞のコラム、昨日で最後だったわね。毎週、欠かさず読んでたのよ。毎週、ほんと楽しい話だったわ」と言う。身長一七〇センチメートルぐらいの背丈のすらりと細く長い脚をした、直毛の長い金髪の髪と、目鼻立ちのはっきりとした青い目の、ファッション・モデルのような女性である。

「それは良かった。直接読者の感想を聞いたのはこれが初めてだ」

 ステファニーは患者の精神障害者ともセックスをするって噂のある美人看護婦だ。俺などは新聞にコラムなど書く前は全く相手にもされなかった。

「次はどこでコラムを書くの?」とステファニーが俺に訊く。

「今のところ契約は何処ともしてない。近い内旅に出たいと思ってるんだ」

「あら、私も連れていってくれるのかしら?」

「あっ、いやっ、君が良いって言うなら」

「あら、そんなに困った顔しないでよ。冗談よ。忘れて!マイク・ジョンソンさん!診察室にお入りください!」

 冗談。そうか。「はは(笑)」冗談ね。そうだよな。俺なんかに着いてきてくれる訳ないよな。

「ショーン」と誰かが俺の直ぐ背後から声をかけてくる。俺は振り返り、「よう!ケヴィン!元気だったか?しばらく見なかったなあ」と久しぶりに遇ったケヴィンに挨拶をする。

「カナダでずっと暮らしてたんだ」

「最後に会ったのは確か三年前じゃなかったか?」

「正確には三年半前だ」

「カナダなんかに何の用で行ってたんだい?」

「ウェンディーを憶えてるだろ?」

「勿論。ウェンディーは君の奥さんだ」

「彼女の仕事の都合で一緒に行ったのさ。俺は絵さえ描ければ、何処に住もうと一向に構わないからな。行きは既婚者だった俺が、帰りには独身者になってたよ(笑)」

「そんなの笑えないよ。少しも面白くない。そうか、お前は離婚したのか。まったく、あんなに美人の奥さんだったのに。しかも健常者だぞ?お前の結婚は皆の憧れだったんだ」

「健常者、健常者とお前達はよく言うがな、そんなのは一人の女に過ぎないんだよ。男と女の問題は健常者と結婚しようと、障害者と結婚しようと、同じようにあるものなんだよ」

「絵は三年半で何枚描いたんだい?」

「油絵が八十二枚、鉛筆画が一二七枚、絵本の挿絵の水彩画を五十三枚かな。鉛筆画の一部は一冊の画集にして、他の絵も全部売れたよ」

「ケヴィン、お前は凄い!ところでケヴィン、お前がカナダに行ってた三年半で、一通も俺に手紙を寄越さなかったのはどういう訳だい?」

「いやあ、毎日忙しくてね。慣れない土地であれだけ絵を描いて売った事だって俺には驚きなんだ。手紙なんて母親に何通か送ったぐらいだよ」

「もうしばらくはこっちにいられるんだよな?」

「それよりこっちに帰ってきたら、画家仲間が全部いなくなってるんだよ。皆、何か遇ったのかなあ」

「お前の気紛れだって、周囲では随分騒いだんだぜ。同じ画家仲間なら、お前と同じように気紛れで行動してもおかしくはないだろう」

「ううん。新しい波が起こったのなら出遅れたくないなあ」

「その大きな鞄の中、一体何が入ってるんだい?」

「今回挿絵を描いた絵本が十冊入ってるんだ。親しい人にプレゼントしようと思って持ってきたんだ。お前にも一冊やっとくか」とケヴィンは言って、黒い鞄から絵本を一冊出して、俺に手渡す。

「観て良いかい?」

「どうぞ」

「『ライオンの紳士』か。ほう!」

 ケヴィンの絵本の水彩画の挿絵はとても不思議な色彩で描かれている。

「カナダで暮らした甲斐はあったようだね。好きだよ、この絵本の挿絵」

「そうかい。ありがとう」

「こちらこそ、ありがとう。良い贈り物を貰ったよ」

「いやあ、実は今、絵本のストーリーの方も書いてみないかって話が来てるんだ」

「チャンスは逃すなよ。文章は誰にでも書ける分、プロを目指したなら、それなりに奥が深い世界なんだ」

「そうだろうな」

「ところでケヴィン、お前は俺の事は訊かないのか?」

「何かあったのかい?」

「**新聞でずっとコラムを連載してたんだよ。契約分の連載はもう無事終了したけどね」

「おお!やったなあ!」

「問題は次の契約がまだ来てないんだ」

「反応はどうだった?」

「まあまあだったよ」

「今度読ませてくれよ」

「うん、じゃあ、次の通院の時に、クスラップブックを持ってくるよ」

「本にはならないのか?」

「そういう話は今のところ来てない」

「ショーン・ダニエルスさん!診察です!第二診察室にお入りください!」

「呼ばれてるぞ」

「あっ、じゃ、一寸行ってくる」と俺はケヴィンに言い、診察室に向かう。

 俺は診察室のドアーをノックする。

「どうぞ!」とドアーの向こうから男性の医師の声が返ってくる。

 俺はドアーを開け、「失礼します」と言って、診察室に入り、後ろ向きでドアーを閉める。

「どうぞ、お座りください」とドクター・ウィンウッドが俺に席を勧める。「どうですか、体調の方は?」

 俺は椅子に腰かけ、「朝昼夜寝る前と、七日分の薬を飲み忘れていました。新聞にコラムを連載していて、昨日無事終えたんですが」と答える。

「薬は飲み忘れないように注意してくださいよ」

「はい」

「他に何かありましたか?」

「それが何と言ったら良いのか、昨日、『グラスゴー』と言うレストランでお別れ会を編集の仲間達としていたら、爆破とマシンガンの乱射事件が起きて」

「おお!あの事件の現場に居合わせたんですか!それで?」

「或白いスーツを来た超能力者を爆弾テロの犯人だと思い、追い駆けていたんです」

「ほうほう」とドクターがPCに何かを打ち込む。

「何かまだ混乱してて」

「ゆっくりで良いです。ゆっくり思い出してください」

「途中で俺が追っているのは幻覚なんじゃないかと思って、諦めてタクシーで家に帰ったんです。そしたら、背後から強盗に頭を殴られて、気絶して、目覚めたら旧精神病院址の保護室の中にいたんです」

「ああ・・・・、それは災難続きでしたね」

「何とかそこを出て、家に帰り、警察に連絡して一通り手続きを済ませたんですけど、翌朝目覚めると、また旧精神病院址の保護室に運び込まれていたんです」

「何が起きたんですか、そんな酷い目に何度も遭って?」

「そもそもその旧精神病院址の保護室前の勤務室に精神病の男が管理人として働いているんですが、その男が犯人を見てるんですよ。その男、何か、保護室を管理している病院の看護士か何かみたいなつもりでいるようで、旧保護室に運び込まれた私を患者を隔離するみたいに考えてるんです。旧保護室に閉じ籠められた俺は腹が減り、何か食べ物を分けてくれないかって保護室の中から頼んだら、そんな義務はないって断るんです。それで合鍵を持ってるだろうから、保護室のドアーを開けてくれないかって頼んだら、その男が突然怒り出して、鍵のかかった保護室の中に水を撒き始めたんです。俺はそれで全身びしょ濡れになってしまいました。その後、スマートフォンで警察を呼んだら、警察が保護室のドアーを開けてくれて、無事外に出る事が出来たんです」

 ドクターがPCに何か打ち込む。

「それではまたいつもと同じお薬を処方しておきますから、くれぐれも飲み忘れのないように注意してください」

「ありがとうございました。失礼します」

 俺は診察室を出て、外来の待合室のソファーに向かう。周囲を見回してマイケル・アンダーソンを捜す。マイケルは吹き抜けの中庭越しにあるカフェの奥の窓際の席に座っている。陽光を右半身に受け、顔ににやりと笑みを浮かべて、待合室にいる俺を見ている。影もあれば、光の当たっている部分もちゃんと見える。発病当時の俺の幻覚は人物の周りにスナップ写真のように背景があり、明らかに幻覚と判断出来るものだった。いやっ、ドッペルゲンガーは違っていたな。あいつ、他の人には見えるんだろうか。マイケルがカフェの席を立ち、またこちらに向かってくる。ああ、あいつと擦れ違う人があいつを避けて、道を譲ったりしている。

『俺は姿を見せようと思えば、誰にでも見える存在なんだ。お前以外に姿を見せない時には他の者には見えない。世の中には全て見える人が稀にいるがね。前世の俺はお前に何度となく助けてもらったんだ。今の俺がお前にしているような在り方と関係でね』

 お前は神か?

『そんな事ぐらい自分で判断すれば良い。神だと思うなら、確かめてみれば良いさ』

 俺はお前の事を全く見た憶えがない。前世では何の仕事をしていたんだい?

『詩人だったよ』

「筆名は?」

 マイケルは黙っている。幻聴なのだろうか。

『統合失調症の無名の詩人さ』

 筆名は何と?お前の詩は誰が持ってる?

『子孫が出来なかったから、家系も残らず、詩は恐らく処分されたよ』

 何処に住んでいたんだ?

『今、お前が見てる家だよ』

 広い庭園の奥に赤い屋根の白い屋敷が見える。ちょうど大きな木の木陰にマイケルが軽装で腰を下ろし、膝の上に詩の書かれた手帳を広げ、右手に万年筆を握っている。

 俺の体を触りに来てくれないか。

『霊は人に触らないんだ。人間に触れると体に電流が走るんだ』

 マイケルが俺の座っている外来の待合室のソファーまで来て、俺の右隣に腰かける。ソファーは僅かに震動した。マイケルが俺の方に体を向ける。触れてみても良いかい?

『止めた方が良い。触れると強烈な電流を受けるんだ』

 ううん。マイケルはソファーから立ち上がり、顔に笑みを浮かべて、外来の待合室から離れていく。マイケルはカフェの方に回り込み、柱の影に入ると、姿が見えなくなる。俺はソファーから立ち上がり、マイケルが柱の影から出てくるのを待つ。消えたのか?俺は待合室から出て、マイケルが柱の影にいるかどうかを確認しに行く。カフェの方に左から回り込み、柱の裏に行くと、マイケルの姿はない。俺は周囲を見回す。何処に行ったんだ?カフェの隣の売店の前でマイケルがこちらに背を向けて立っている。何か買い物をしている。俺は安心して再び待合室に引き返す。

 俺は処方箋をもらい、待合室を出ると、カフェの方へと左から廊下を回り込み、階段を下りて会計を済ます。一階で俺は薬を受け取り、病院を出る。

 この日、俺は障害者手帳とクレジット・カードの再発行の手続きを済ますと、アパートメントに帰る。アパートメントの薄暗い階段を上り、一番手前のドアーの鍵を開け、家の中に入る。用心のため、ドアーの鍵を閉め、薄っすらと陽に照らされた居間に入る。電話で宅配ピザを注文すると、書斎兼寝室に入って執筆をしようと、書き物机の上のPCに向かう。ああ!PCは持って行かれてない!俺はPCが盗まれなかった事に大喜びし、窓の外を見下ろす。分身が笑みを顔に浮かべて見上げている。あいつ、家の中には入らないんだなあ。

 俺は書き物机の前の椅子に腰かけ、PCを起動させる。小説の原稿のファイルを開く。俺は短編小説を死ぬまでに一〇〇編書く事を人生目標にしている。今のところ三十一編完成させた。残り六十九編である。

 統合失調症患者に霊感なんてものはないと繰り返し日記に書いて幻聴に言い続けていたのは一体誰だっけ。この俺じゃないか。ああ、あいつが俺の体に触れ、あいつの体に俺の手が触れられたのは体感幻覚の再発なのだろうか。俺は重い溜息を吐く。仕事も漸くノッて来て、これからと言う時だったのに・・・・。今頃、無差別テロで婚約者を失くしたアンはスティーヴの死に打ちひしがれているだろう。

 宅配ピザが届き、俺は届いたばかりの宅配ピザを大好きなフランツ・カフカの『城』を読みながら、ソファーに寝転がって食べる。俺は自分に起きている異変を徹底して検討する。恐らくあのガードレイルに座っていた高校生二人が強盗であり、旧精神病院址の保護室に運び込んだ者に違いない。

 ピザの最後の一切れを口に入れ、天井を見上げると、頭上に逆さになった顔が俺を見下ろしている。俺はびっくりして飛び起きる。

「あっ、何だ、御巡りさんか!」

「ノックしたんですが、返事がなくて、鍵が空いていたので、勝手に中に入らせてもらいました」

「今日、TVも盗まれました」

「犯人は捕まりましたよ。盗難品も全部犯人がまだ持っていました。一寸、署に来ていただき、確認していただけませんかね?」

「ああ、はい。それは良かった(笑)。ほんとに良かった・・・・」

 俺は溢れそうな涙を右手で拭う。

「今、外に出られますかな?」

「ええ。大丈夫です」

 俺はパトロール・カーの後部座席に乗り込み、警察署に向かう。

 警察署に着くと、盗まれた物を一つ一つ確認し、自分の物だけを選び取り、箱の中に入れていく。そこにある大半の盗難品は俺のではない。続いて犯人を確認しに別の部屋に入ると、向こうからは見えない硝子越しにあの時の少年二人が見える。

 俺は警察官と一緒にパトロール・カーに盗難品を運び入れると、再びパトロール・カーで帰宅し、家の中に警察の人と一緒に荷物を運び込む。窓の外を見下ろすと、雨降る中、マイケルがこちらを見上げている。飛沫のような雨が降る中、マイケルはにやりと口許に笑みを浮かべ、そのまま午後の白い陽の光の中に姿を消す。

 電気ショック療法で消えた幻聴の聴こえ方を思い出す。遠い過去に落ちた地獄の出来事のように思い出される。あれは正に地獄の日々だった。心がくたくたに疲れていた。電気ショック療法以後、元型幻聴説や複雑な無意識の構造論を根底から否定するようになった。

 マイケルのお蔭で、幻聴とは霊感により聴覚的に聴こえてくる霊の声だと判った。マイケルのような霊は精神病に関係のある霊ではない。マイケルは人間の霊感による聴覚領域で絶え間なく無遠慮にお喋りをしたり、人間の体に憑依したり、人間の意識を追い回したり、人間の意識を追い詰めて恐怖や不安を引き起こしたり、人間の意識が他に逸れないように常に引きつける事もない。メッセイジや他者としての情報を人間に与えられるような霊は更に善良なる霊だろう。その更なる上の神仏の領域ともなれば、人間に対して真理の教えや予言さえ齎す事が出来るのだろう。霊というとホラー映画に出てくるような悪霊を思う人も多い筈だ。私も若い頃からそういう傾向の霊の世界に非常に興味を示し、且つ恐れてもいた。精神科に通う患者達の中には奇妙な霊の御告げを神様の御告げとして信じる者達が非常に多い。統合失調症の狂的な面は大凡低次の霊による災いが原因したものだろう。精神科の患者の界隈には一見穏やかそうな顔をした人が非常に怒りっぽく、神経質で、偏執的で、精神状態が乱れ易く、常に何らかの精神的な混乱を抱えて生活している人達が大勢いる。発病前の変人気質が発病後には狂的な性質に発展するのか、話題が二三広がれば、必ず妄想が口を吐いて出る。

 意味の判らない言葉を飛ばし読みせずに熟読するような読書が何十年と習慣化し、尚且つ良心の信仰に生きているような人達の中には稀に高い思考力や判断力が維持されている。そういう頭の良い精神障害者の中には日常の情報源としても稀に高い信頼を得られる事がある。自分から病名を打ち明けなければ、個性的で少し変わった人だと受け止められるぐらいが本当の精神障害者の現実なのである。


 俺は漸く娼婦を頼りに長き悶々たる童貞の生活と別れる決意をする。心まで凍えるような深夜の寒空の下、俺は古着屋で買った水色のスーツを着込み、線路向こうの貧民街へと勇ましく徒歩で向かう。 俺はオレンジ色の街灯が点々と灯る薄暗いストリートの女達を物色するため、何度も同じストリートを行ったり来たりする。何度ストリートを行ったり来たりしても、どうにも適当な女が見当たらない。モノの方も寒さのせいですっかり縮こまっている。やっぱり、初体験は好きな子とすべきなのか。俺はほとんどもう家に帰るつもりになっている。廃棄された車が山積みになった空き地の影で立ち小便をする。俺は叢に向ってブルブルと寒さに体を震わながら、放尿する。暗がりで背後から影のようにチンピラが近づき、金品を巻き上げられる事を想像する。モノは知らずと夢精した精子でヌルヌルとベトつき、モノを摘む手まで精液に塗れている。俺は自分の長い長い放尿に驚き、体温で温まった小便が叢から白い湯気を漂わせるのを見下ろしている。

 俺はすっきりと無事用を足してストリートに戻ると、そのまま急ぎ足で貧民街を去る。

 繁華街の手前の賃貸住宅が両側に立ち並ぶ脇道に入ると、家までの近道を辿る。俺の住むアパートメントの近くの薬局の灯が眩しい程に光り輝いている。俺はその馴染みの薬局のガラス越しの店内に一寸可愛い新入りらしき女性店員の姿を発見する。俺は用もないのに薬局に立ち寄り、商品棚の影からこっそりと新入りの女性店員の姿を窺う。女優に例えるなら、ウィノナ・ライダーから派手な要素を取り払ったような小柄で細身の女の子だ。俺はその子に一目惚れする。俺は商品棚の隙間から彼女を眺め、ゆっくりと自分の行動の焦点を絞っていく。老婆がレジスターの前で彼女と言葉を交わしている。今、客がレジスターの前で彼女と立ち話をしていたかと思うと、今度は不意に彼女がバックルームから商品の入ったダンボール箱を抱えて店内に運び入れる。俺の認知力は著しく低い。

 俺は彼女をデイトに誘う決心をする。俺は彼女がレジスターからバックルームに向かう時に、歯ブラシと歯磨き粉の話を会話に持ち込む計画をする。彼女がレジスターから離れ、店内を横切ってバックルームに向かう。俺はその通路の先に立ち、こちらに来る彼女の顔を見ている。何て可愛らしい人なんだ!

「あのう、済みません」

「はい、何でしょう?」

「子供の頃にバナナやストロベリーの歯磨き粉で歯磨をしませんでしたか?」

「ああ」と彼女が楽しそうに微笑み、「子供用の歯磨き粉よね」と確認する。

「大人用の歯磨き粉は全部ただのミント味なのかな?」

 彼女の顔に一瞬暗い影が差す。もう彼女は微笑んではくれないのか。そうだよな。子供っぽい気味の悪い男だと感じたのだろう。たったの二言で嫌われてしまったか。

「大人の歯磨き粉は大概ミント味です。当店にはバナナやストロベリー味の大人用歯磨き粉は置いていません」と彼女が不快げに答える。

「ストロベリー・ジャムで歯を磨いたら、虫歯だらけになるしね」

「そうですね。もう宜しいですか?」と彼女が俺の冗談を気持ち悪がり、急いで立ち去ろうと断りを入れる。

「ああ、はい」と俺は明るい笑顔で返事をする。何て悲しい結末なのだろう!想像力を逞しくして、自分に気があるのだろうとぐらい思ってくれても良いのに。いいや、四十過ぎの童貞をまともに相手にしてくれるような女性はいないか。「シック!」と遠ざかる彼女が大嫌いな捨て台詞を吐く。それが幻聴なのかどうかを確認する事は出来ない。本当に悲しくなる。彼女が陳列する商品の入った箱を持って、再び店内に現われる。彼女と楽しい会話をするにはどんな話題が良いのか。俺の容姿を誉める女性は少なくない。好みの女性との相性が悪いのか。男が性的な関心で女性に接近したなら、態度や話し方は不自然になるものだ。十代の頃に好きな子に告白して振られた時にはその不自然さをも否定的に捉えた。

「あのう、失礼」

「何か?」と彼女が目に怒りを顕わにして応対する。

「今夜、仕事終わったら、少し私とお話出来ませんか?」

「今夜は用があるので時間がありません」と彼女が眉間に皺を寄せて面倒臭そうに断わる。

「あのう、君、僕の事嫌いかな?」

「そういう訳じゃないですけど、少し今日は苛立ってるのでごめんなさい」

「ああ、そうだったんだ。誰にでもイライラしている時はあるよね」

 彼女は眉間に皺を寄せ、尖った目つきで、「じゃあ、今日はもうこれで良いかしら?」と怒りを抑えたような冷ややかな口調で言う。

「ああ、はい」と俺は悲しみを飲み込んで返事をする。

 俺は店を出て、夕食を食べに薬局の近くのイタリアン・レストランに入る。俺は奥の窓際の席に座る。席からは薬局内の様子も判る。ブロンドのカーリー・ヘアの若いウェイトレスが注文を取りに来る。

「御注文は如何でしょうか?」とウェイトレスが明るい顔で訊く。

「ああ、アンチョヴィ・ピザとコーラをください」

「畏まりました」

 彼女は俺に気がありそうだ。肩までの短い髪に、そばかす顔に、あの太い脚!残念ながら、彼女は俺のタイプではない。スマートフォンに取り込んだチャールズ・ミンガスの『直立猿人』のクールさが落ち込んだ気持ちを乗り越えさせる。ロジャー・ウォーターズ・ピンク・フロイドのアルバム『アニマルス』に変える。私は本来、何かと感傷に耽る時間を必要とした。カラッと晴れ渡らない涙色の心が一番落ち着くのだ。幻聴が常に意識を追い回し、考え事に浸る心のゆとりもなかった頃には、感傷に耽る心の自由もなかった。思い切って心の翳りをなくそうか。そう思っただけで不安が生じてくる。

 精神科に関わると何かと病や障害だと見做す癖がつく。我々は翌日には正反対の説に逆転するような気づきを世紀の大発見のように日々周囲の人々に言い回る。そういう騒ぎを年中繰り返している。

「アンチョヴィ・ピザとコーラで宜しいですね?」と先のウェイトレスが注文した料理を運んできて言う。目を開けると、ウェイトレスが微笑んで俺を見下ろしている。

「ああ、はい、ありがとう」と俺もウェイトレスに笑顔を返す。

「ごゆっくりお召し上がりください」とウェイトレスは言って、私のいるテーブルから去る。

 別に女なら誰でも良い訳ではない。自分の好みに合った女性を恋人にしたい。

 店に六人程の女子高生風の団体客が賑やかに会話をしながら入ってくる。その内の二人が俺好みの可愛い顔をしている。若かりし頃の妻との出会いとして、この光景を繰り返し思い出すのか。茶色い髪の方の子の話し方は荒々しいな。ブロンドの髪の方の子は見た目にも大人しい。不意に茶色い髪の女の子の股間に触れる想像をする。膣に指を入れ、優しく前後に動かす。ああ、こっちの方が立ってきた。アンチョヴィ・ピザを食べる。女子高生達の方を再び見ると、茶色い髪の女の子が笑顔で俺を見ている。乳首を揉み扱くように摘んでやる。茶色い髪の方の子が一瞬朦朧した眼になる。俺はピザの皿に視線を降ろし、ペニスをあの子の穴の中に嵌める。

「何でノラ・ジョーンズがそんなに良いの?」と茶色い髪の方の子が向かいの女の子に荒々しい口調で言う。感じてる割にはそれとないふりが上手いな。茶色い髪の方の子がチラッと不安げな顔をこちらに向ける。勃起したペニスを感覚だけで動かす。茶色い髪の子が黙って俯き、唇を嚙む。勃起したペニスが締めつけられる感じがする。茶色い髪の方の子は会話から意識を逸らし、ぼんやりと宙を見る。また感覚だけで勃起したペニスを動かす。茶色い髪の方の子がこちらを一瞥する。本当にこの考えは合っているのか。モテる子は誰からもこうして遊ばれるだろう。これをきっかけに自分から見知らぬ男に接近する事はあるのか。締めつけが強いな。もう夢精したかな。茶色い髪の方の子が席を立つ。レストルームか。レイプ以外にキッスやセックスを実現させる術がない。訴えられたら、刑務所にぶち込まれる。アンチョビの苦味が堪らなく美味い。下着の中が少し濡れている。恐らく夢精したのだろう。大人しそうなブロンドの髪の方の子が先程のウェイトレスに注文している。ラザニアにジンジャー・エールか。胸には全く膨らみがない。スレンダー美人だな。ブロンドの髪の女を連れた黒いリーゼントの髪の青年が店内に入ってくる。ロックン・ローラー風のなかなか良い男だ。女の方のブロンドの髪と同様、あの黒い髪は染めているのだろう。体の引き締まった美青年だ。女より頭一つ背が高い。身長は一八〇センチ・メートル以上あるだろう。神経質そうな瞬きをする男だ。ああいう一見気弱そうな男が一端切れると手がつけらないのだ。こっちを見て睨みやがる!俺をゲイだとでも思ってるのか!見つめていたのは確かに俺の方だ。ピザの皿に視線を落とす。茶色い髪の方の子がレストルームから出てくる。先程のウェイトレスが彼女の後から歩いてくる。彼女が席に着くと、ウェイトレスが注文を取る。カルボナーラにコーラか。

 ああ、早くあの子でチンコを扱きたい。俺は夕食を済ませ、レストランを出る。アパートメントの薄暗い階段を上り、一番手前のドアーの鍵を開ける。寝室に向かい、ベッドに体を投げ出す。ズボンと下着を脱ぎ、あの茶色い髪の方の子でオナニーをする。あの子はレストランで食事中か。外出先でされている時は、オナニーも出来ずに堪らなく性欲が募るのだろうか。

 もっと意欲的に色んな事に挑戦しないといけない。風呂にでも入るか。

 バスルームに入り、タオルを用意する。バスタブの中で熱いシャワーを浴びる。スポンジに石鹸水をつけて体を洗う。勃起したモノに締めつけられるような刺激が伝わる。誰か俺でしてるな。自慰行為はこの合図の後、自然と思い浮かぶオナペットでしている。パスしたいようなおばさんにはされるがままにして避けている。イタリアン・レストランのウェイトレスが目に浮かぶ。モノが口で銜えられているような感じがする。男が立つまでの過程をしっかりと想像しない女が多い。なるほど。時々、ゲイがしてる可能性があるな。便を催すような感じの時だ。全身の感覚を熱いシャワーの湯で刺激する。明日は久しぶりにデイ・ケアに顔を出し、新入りを探るか。乳首に刺激が来る。キッスされた。まだ勃起してないのにピストン運動を想像してるな。こっちも想像の手だけで相手の性器を刺激する。早く自然に立てないと。セックスから長く離れ、ずっと自慰行為をしてると、本番ではなかなかイカなくなるとケヴィンが言っていた。早く結婚して、オナニーからセックスに移りたい。幾ら良いオナニーを経験しても、セックスのリアルな肉感にはとても及ばない。

 風呂から出て、素っ裸で暖房の効いた居間に入る。冷蔵庫からよく冷えた缶コーラを出し、ソファーに腰かけて飲む。『イールス』の『エレクトリック・ショック・ブルース』のCDを流す。ソファーの上のメモの山に目を通す。幻聴がどうのこうのとばかりの狂人日記には価値がない。メモがそんなものばかりではとても作家にはなれないだろう。かと言って、全く狂人日記を書かねば、考えに纏まりがなく、心が彷徨う。詩的なメモはほとんどない。発病前のように小説のアイデアが出てくるような事はほとんどない。小説のアイデアなど、二〇代の頃はたった三つしか出てこなかった。三〇代は全く収獲がなかった。メモは商品にもならない思いつきや妄想ばかりだ。IFで始まる物語も生まれない。コラムの仕事の収入で古い小説を自費出版しようか。今や自分で金を払って出版するような身分ではないか。俺の小説は中味のスカスカな軽い作品が多い。永遠に自分の顔となる始まりとしては初々しいのか。どの作品も新人賞には落ちている。もう一回『アウトサイダー』や『ライ麦畑でつかまえて』を読み込んでみるか。同じぐらいの仕上がりかどうかを比較してから自費出版を考えよう。

 ソファーに置かれたスケッチブックを手に取る。型破りとおさらいを交互に繰り返す事が俺の画業の運動法則だ。想像上の風景画とファッショナブルな女性の絵を沢山描いてきたな。俺もそろそろ自分の決まった型に嵌っていくのか。粘れば、また新たな画風が出る。諦めない事だ。よし!今夜は点画で行くか!


 天井裏の物置に子供の頃読んだ漫画を取りに行く。子供の頃の天井裏での楽しみが思い出される。ここを隠れ家にして、缶詰などを沢山一階の食料貯蔵庫から運んできたり、毛布を運び込んだり、ここで寝起きする事を楽しんでいた。向かいの家の窓の中でダイアンが着替えをしている。俺はチンコを扱きながら、ダイアンの着替えを覗き見ている。ああ、夢から目覚めていく。夢の中で一発放ちたい。ダメか。

 俺は性欲を募らせて目覚める。ソファーで一発抜くか。寝てる間に誰かが俺でしてるから性夢を見るのか。ダイアンは昔からのオナペットだ。幼馴染みのダイアンのセクシー・ショットなら沢山記憶している。俺がオナニーの途中から反応してくる感じが判るかな。まだ深夜二時か。イッたら、ベッドで寝直そう。勃起したチンコが猛烈に刺激されてくる。ダイアンはとっくに結婚している。お前は結婚しても俺の仕方が忘れられないんだな。子供の頃の早い扱き方ではピストン運動の空回りだ。じっくりとゆとりある大人のセックスを楽しむが良い。

 俺はすっきりとした頭でベッドに向かう。これから仕事はどうなるのか。また障害者年金と福祉施設の工賃との生活に戻るのか。コラムのキャリアを活かした仕事の話が来れば良い。ぼんやりと小説の自費出版を考える。新人賞に入るまで辛抱した方が良いのか。過去作品に手を加え続けていれば、小説の新しいアイデアはまた出てくる。コラムや絵画など、他の分野でのキャリアを積んで知名度が増せば、新人賞に通る可能性も高くなる。もう四十過ぎだ。急がないとデビューすら逃し兼ねない。焦るな焦るな。四十なんてまだまだ人生半ばに入ったぐらいだ。何歳まで生きるんだろう。俺の才能では多作家にはなれない。

 頭が冴えてきた。睡眠薬を飲むか。

 睡眠薬を飲む。明日から何をして働こうか。小説を仕上げられると良い。仕上がった小説をコラムで契約していた新聞社に持っていくんだ。歯磨きを済まし、無駄毛の手入れをする。良し!これで良い!寝室に入り、電気を消して、ベッドに横たわる。


 湖の岸辺に横たわり、赤い夕焼け空を見上げている。両脚を縛られ、起き上がろうにも起き上がれない。縛られた両足の縄がなかなか解けない。何とか体に捻りを加えて上半身を起こす。腹が出ていて息苦しい。赤い夕焼け空には閉塞感を覚える。鼻水が気になり、忙しなく鼻を啜る。息苦しい!

 そう叫んで目覚める。窓の外は薄暗い。時計を見ると、早朝の四時である。今日はデイ・ケアに行くんだったな。目覚めは良い。シリアルで軽く朝食を済ますか、ダイナーに行くか。薬局の子の顔が目に浮かぶ。あの子、俺の事を想うんだな。ああ、俺でしてる。朝からあの子で一発するか。肛門に指入れたりする子だな。煩わしいからクリトリスをきつく摘んでやろう。口で銜えてるみたいだな。俺も舌で穴の辺りを嘗めて、指で責めるか。胸を揉んで、後ろから激しく突いてやる。手扱きは一発ずつ正確なピストン運動の速さでしないと空回りのスピードになる。俺はオナニーにたっぷりと三〇分は時間をかける。女の方は俺との一回に何回イク事やら。イク感じをこっちからもイメージしてやる。こっちが限界まで募る前にさっさとイカせたつもりで終わらせる女がいる。余計な気遣いだ。こっちは夢精すらせずにモノが萎えるのだ。

 洗面と歯磨きを済ませ、髭を剃る。朝食はハンバーガー・ショップに行くか。ヴァニラ・シェイクを飲みたい。赤いジーンズに黒い襟付きシャツを素肌に着て、茶色い牛革のジャンパーを着る。部屋の鍵を閉め、アパートメントの薄暗い階段を降りていく。やっぱり、朝食はダイナーでビーフ・ステークを食べよう。帰りにハンバーガー・ショップでヴァニラ・シェイクを飲めば良い。商店の並ぶ大通りに出ると、日本の学生服を着た女子校生達が短いスカートから脚を出して歩いている。日本の女の子の学生服を着こなすにはもっと脚がむっちりと短くなくてはいけない。あんなにすっきりとした長い脚ではミニスカートを穿いた妖艶なポルノ女優だ。しかし、そそるな。コンヴィニエンス・ストアーの前に立ち止まり、『キャメル』を一本口に銜え、火を点ける。煙草を口に銜えたまま目を瞑り、両手を胸の前で組むと、『あああ!神様!セックスがしたいです!アーメン!』と堪らなく苦しい思いでイエス様に祈る。『何で私には恋人が出来ないんですか!アンデルセンもそうでしたが、神様は時々人間に恋人や妻を与える事を忘れますよね?アーメン』横断歩道を渡り、ダイナーに入る。

「おお!ショーン・ダニエルス!おはよう!」と近くのコミック・ショップの店員のニコラス・メイズが俺に声をかける。大柄な体をしたニコラスがむっちりとした手にコミック・ブックを持っている。ニコラスはギンズバーグのような黒縁の眼鏡を手で少し上に上げる。

「おはよう、ニコラス」と俺は言って、カウンター・テーブルのニコラスの右隣の席に腰を下ろす。

「ハアイ、ショーン・ダニエルス」とカウンターの中からチャイニーズの店員のオリビア・リーが笑顔で俺に声をかける。オリビアは一重瞼の涼しげな眼をした小柄でスリムな体つきをしている。

「エイドリアーン!」と俺は胸に一杯空気を溜めて、映画『ロッキー』のシルヴェスター・スタローンの真似をする。オリビアが楽しそうな笑顔を見せる。

「オリビア、小説は今、何を読んでる?」

「カワバタの『雪国』よ」

「ああ、あれは物凄く日本的な小説だよ。美しい小説だが、何を意味しているのかが判らない」

「そうね。日本的よね。ミシマの師だって知ったから読んでるの。日本文学には連綿と継承される瞑想的な静けさが感じられるの。そこが好きで日本文学を読んでるの。ハルキ・ムラカミの小説にも同じような静けさがあるわ」

「カワバタはミシマの事を師友と呼んでいたらしいね。ミシマの文学にはカワバタから影響された面はあるのかな?」

「あたしはあの二人の文学には似た者同士の共通点しか見出せないわ」

「俺は『アウトサイダーズ』と『ライ麦畑でつかまえて』辺りをもう一回読み返そうと思ってる」

「好きなの?」

「初期の小説があの辺と比較して不十分でなければ、自主出版しようかと考えてるんだ。ビーフ・ステークとコーラをくれ」

「ステークとコーラね。自費出版は悪くないわ。知ってる?ヘッセも自費出版でデビューしたのよ」

「勿論知ってるとも!」

 オリビアには日本人の恋人がいる。周囲の女性全てに恋人がいる。何で俺だけ恋人が出来ないのか。俺は人と楽しむために十分な時間を共有出来ない。やらなければいけない事が山積みで、なかなか恋愛が実現しない。かと言って、誰かの恋人だった女性とは恋愛したくない。他の男の嘗め捲くった唾臭い体を嘗めたいとは思わないのだ。四十二歳という年齢的にも若い処女との恋愛や結婚は難しい。お金があれば、外国暮らしでもしてみたい。

「コラム、最終回読んだわよ」とオリビアが言う。「次は何処でコラムを書くの?」

「今のところ、新しい契約はしてない。何とか生活保護に戻らずに食っていく仕事を探したいんだけどね」

「それで小説の自費出版なのか」

「ヘッセは自分の文才に自信が持てなくて、自費出版後に変名で新人賞に投稿して受賞したよね?あの辺りの事考えると、新人賞に入選するまで辛抱強く投稿し続けた方が良いのかなって思ってるんだ」

「ううん。私も実は自費出版を考えてるの。次の作品のアイデアが出てこなくなったら、今ある小説作品を記念出版しておきたいの」

「君はまだ若いだろ?」

「このまま結婚したら、ただの主婦よ。子供を育て上げるまで自分の小説の自費出版費用なんてとても確保出来なくなるわ」

「ううん。現実気な話だね」

 オリビアが新たに店に入ってきた客の方に向かう。

「はい。ステーキとコーラね」とオリビアが注文の品を差し出す。オリビアは直ぐに客の去ったテーブルを掃除しに行く。アンからメールが届いている。

『あなたにスティーヴの遺品をお裾分けしようと思って、あなたの家に送りました。スティーヴはいつもあなたの事を気にかけていました』

『ありがとう。また何かの時にメールするよ』とアンにメールを返信する。

 ダイナーで朝食を終え、ハンバーガー・ショップにヴァニラ・シェイクを飲みに入る。金髪の髪の店員の目を見つめる。店員はにっこりと笑顔を見せて注文を取る。

 ヴァニラ・シェイクをトレイに載せてテーブルまで運ぶ。面倒な事を全部避けていたら、全く料理の出来ない大人になってしまった。今日はデイ・ケアだ。シェイクを飲んだら、そのままデイ・ケアに行こう。電話がなる。

「はい、ショーン・ダニエルスです」

『『チャート・イン』と言うロック雑誌の編集者のニック・ウォーレンと申します。手っ取り早く用件を言いますと、あなたの新聞連載のコラムを読んで、あなたに内の雑誌の音楽コラムの連載をお願い出来ないかと思いまして』

「音楽のジャンルは何ですか?」

『あなたの思いつくまま何でも良いんです。音楽コラムの本を出版する際の事を考えると、予めテーマを持って書かれた方が良いかと思います』

「喜んでお引き受け致します。メールで出版社のアドレスを送ってください」

『明日の午後三時にクイーズの『ワッカーマン』と言うカフェで待ち合わせしませんか?』

「ああ、はい。明日の午後三時、『ワッカーマン』ですね。判りました」

『それでは失礼します』と電話が切れる。

 やった!デイ・ケアのメンバーに自慢してやろう。あいつらには良い刺激になるだろう。ヴァニラ・シェイクは美味い!ヴァニラ・シェイクを飲み干し、ハンバーガー・ショップを出る。そのまま地下鉄の駅に歩いていく。コンヴィニエンス・ストアに寄り、『ポテト・チップス』を買う。地下鉄の階段を降りる。プラットフォームに立ち、電車を待つ。電車が轟音を立てて駅に入ってくる。電車が停止する。電車の扉が開く。ラッシュ・アワーは疾うに過ぎ、車内は空いている。俺は電車に乗る。扉の左手前の座席に腰を下ろす。俺は『ポテト・チップス』の封を開け、遠足気分で御菓子を食べる。俺はスマートフォンからエンヤの『ア・デイ・ウィズアウト・レイン』を直に音を出して聴く。

 死なんて他界を意味するだけだ。こんな苦しい人生は二度と生きたくない。神仏に達する前に悪霊に狙われた霊感の悲劇を統合失調症と称するのだ。悪霊の声から意識を逸らせば良いのではない。悪霊が去らねば、この苦しみは終わらない。電気ショック療法で幻聴が消えたのは除霊が成功したのだ。統合失調症患者は彼ら悪霊の思い出も大切にしている。悪霊が地獄に落ちるならば、それも良い。悪霊が善に目覚め、神の救いを得るならば、それも良いと思った。俺には悪霊に対する永遠の慈悲がある。悪霊は俺の愛を理解しなかった。常に苦しみの最中にある俺に神の如き愛を求めた。統合失調症の苦しみを今生の悪業の報いだけで解釈するのは難しい。この苦しみが前世の悪業の報いであるならば、悪業の記憶を蘇らせずに苦しませる神には大きな不満が残る。神様は何時だって間違ってはいない。間違っていなければ何をしても良い訳でもない。神様は常に神の子が苦しんでいるのを御存知なのだ。俺は天国や地獄の実在を信じている。自殺の罪を犯すぐらいなら、今夜は早目に寝て、新しい明日を精一杯生きよう。エンヤの作詞を手がけるローマ・ライアンの詩は本当に素晴らしい。

 病院に向かう駅で下車する。長い地下の通路を進む。ホームレスがダンボールの箱の家に寝転がり、新聞を読んだり、レイディオを聴いている。階段を上り、地上に出る。

「ショーン!待ってよ!」と女性の声が背後から呼び止める。俺は振り返る。

「ハーイ、ララ」と二〇代くらいの黒人女性の友人に挨拶する。ララは同じデイ・ケアに通う漫画家志望者だ。黒い髪を細かく編み上げ、頭の周りから上に編み上っていくような髪型で、細身の体にショッキング・ピンクの裾の短いマタニティー風のワンピース・ドレスを着て、白い花柄プリントのストッキングに青い子供靴のようなシューズを履いている。

「しっかり漫画描いてるかい?」

「自信作が出来上がったの。デイ・ケアに着いたら見せるわ。新聞連載のコラムが終わったわね。面白かったわよ」

「ああ、ありがとう。明日、新しい音楽コラムの連載契約をしに、クイーンズの『ワッカーマン』ってカフェで待ち合わせしてるんだ」

「愈々運が向いてきたのね」

「うん」

「次は小説の出版ね」

「小説がなかなか新人賞に通らなくてね。その指輪、本物の金?」

「ああ、これ?恋人からプレゼントされたの」

「その人と結婚するの?」

「奥さんがいる人なの」

「不倫なんて止めた方が良い。その人の誠意のなさが判らなきゃダメだ」

「恋はそんなに単純には済まされないのよ。相手を必要としてるのはお互い様なんだから。恋に落ちた時にたまたま彼の方には妻や子供がいたってだけよ」

「そんなの遊ばれてるだけだよ」

「彼が妻と別れて、私と結婚すれば良いの?そんな事私は望まないわ。私は彼が好き。でも、彼の幸せな家庭を壊してまで彼を家族から奪い取る事はしたくないの」

「余計な事に口を挟んでしまったな。ゴメン。本当にゴメン!」と合掌して謝る。

「良いのよ、ショーン!あなたは私の幸せを第一に考えてくれる大切な友達よ」

「俺には恋愛経験がないから、恋の事なんて何も判っていないのかもしれない」

「恋愛経験はなくとも、ハートはしっかりと成熟してるわ。あなたはいつも心のあったかい大人だったもの」

 本当に色っぽい子だ。俺は子供の頃から黒人の女の子に恋をしてきた。ララは俺の理想の女性だ。おしゃれでセクシーなのに、家庭的な面も感じられる。ララはアイス・クリーム・ショップで週四日パート・タイムで働いている。

「先に行ってて」とララは言い、カフェに入る。

 ララはいつもこのカフェでマドレーヌを買い、デイ・ケアのメンバー達に配っている。商店街の外れには精神病院がある。ここらの商店街は精神科の病院の患者達が快適に利用出来るような町造りがなされている。病院の系列の大学があり、学生が多いため、バーや映画館もある。学生達や町の住人達は精神障害者に対する理解が深く、我々に対してとても親切で優しい。障害者のグループホームも多い。俺も三年前に今のアパートメントで一人暮らしを始めるまでは障害者年金を受給してグループホームに住み、そこで生活訓練を受けながら、福祉施設に通い、作業工賃を稼いでいた。この町の障害者の間では、ララや俺はこの町から独立した障害者として非常に鼻が高く、卒業生のような身分でこの町を訪れている。

 精神科外来の玄関先で通院患者達がこちらを向いて立っている。外来の玄関前を通り過ぎ、デイ・ケアの建物の方に歩いていく。デイ・ケアの建物の前のバスケット・コートの片隅に鶏の鶏冠のような赤い短いモヒカン刈りの髪に革ジャンを素肌に着て、赤いジーンズと黒い安全靴を履いたミックが腰かけている。ミックは自分の前を通り過ぎる俺をはっきりと顔を動かして見送る。ミックは俺がデイ・ケアの入り口の前に立ち止まり、煙草に火をつけている姿を見ている。俺はミックの方に振り返ると、「お前、ヤバイぞ」とミックの顔を指差して言う。ミックは無表情な顔で俺を見て指差すと、「お前もヤバイぞ」と言い返す。俺は煙草を吸い終え、四階建てのデイ・ケアの建物に入っていく。玄関先に胡坐を搔いて腰を下ろしたジョーがおどおどした目で肩を竦めてみせる。

「ムードだけ合わせて友達面するなよな」と俺はジョーを見下ろして厳しく注意する。「何か知性を取り交わす過程を経てから、漸く挨拶をする仲になるんだ。判るか?」

 ジョーは無言で微笑み、また肩を竦める。俺はジョーの顔から微笑みが消えるまで睨みつける。ジョーも顔色を変えて睨み返す。俺はジョーに微笑み、デイ・ケアの教室の方に去っていく。少し知的障害のある子に手厳し過ぎるかな。簡単に友達が作れると信じる事は悪くない。知的障害を抱え、あそまで友好的な態度を表わせるようになるまでには大変な苦労があったろう。俺と友達になるにはもう少し苦労がいるんだ。お前は自分を興味深い人間だと勘違いしている。

 スージーがテーブルの席に腰かけ、何か手帳に書いている。

「ハイ、スージー!また幻聴についてああでもない、こうでもないと、世紀の大発見のように狂人日記を書き留めているのかい?」

「あなたはまだまだね」とスージーが厳しい目つきで俺を睨んで言う。

 俺の何がまだまだなんだ?お前に人より優れた面などないぞ!馬鹿で能無しの癖して、人を馬鹿にしたり、あんまり好い気になると引っ叩くぞ!勢い心の中で言いたい放題言ってしまった・・・・。スージーが俺の心の中の言葉に反応する様子はない。相手の心の中が筒抜けなのは統合失調症患者以外なのか。統合失調症患者は自分の心の中ばかりが周囲の人達に筒抜けであるのを悩んでいる。

「前世の分離霊は現われたか?」と俺は穏やかな口調でスージーに確認する。

「前世の分離霊?あなた、生まれ変わりなんて信じてるの?」とスージーが見下したような目で言う。

「俺は輪廻転生を理解出来る稀な西洋人なんだ」

「あなたは知らないだろうけれど、クリスチャンの人生にはイエス様が現われる時期があるの」

「へええ」

 イエス様が現われるたって、俺の前世はイエス・キリストだからな(笑)!こんな事を人前で口に出したら、本当の狂人だと思われるだろう。スージーには心の中の声は聞こえないのか。心の中では自由に主張した方が良い。長年、神を相手にするように心の中での発言を慎んできた。俺はスージーの向かいの席に腰かける。ロブがスージーの隣でスージーに近寄る俺を警戒している。

「スージーはお前の恋人だよ」とロブの目を見て言う。ロブが俺に微笑む。ロブは俺の心を読むように黙って頷く。俺は何も言ってないぞ!またロブが黙って俺を見て頷く。全く勘違い野郎ばかりだ!

「ハイ!ショーン!」と男の声が背後から聞こえ、振り向くとケヴィンが、「元気にしてるか?」と訊いて、俺の右肩に左掌で触れる。

「ハイ!ケヴィン!俺なら元気だよ。今度、音楽雑誌で音楽のコラムを連載する事になったんだ」

「オー!お前にも愈々本当に運が巡ってきたな」

「ポスト・パンク以後の話を上手く紙面で語りたいね。ブルースなんかには一言も触れたくない」

「俺はここ二十年以上、ブルース以外の音楽は全く聴いてない」

「自分が作曲する音楽もブルースなのかい?」

「いやっ、それは違うな。自分で作曲した音楽ならば、恐らくニュー・エイジになるだろう。俺は絵を描く時にも全く音楽を流さない。お前程音楽が自分にとって欠かせないものではないんだ」

「ケヴィンが生活上欠かせない物って何?」

「チョコレイトだよ」

「食べ物や飲み物の話じゃないよ」

「風かな」

「へええ、変わった事ばかり言う男だな」

「エアー・コンディショナーより扇風機の方が重要なんだ」

「肌に風を受けるのが気持ち良いのか」

「気持ちが落ち着くんだよ」

「君は絵を描いてれば幸せなんだろ?」

「絵を描けば幸せになれる時に絵を描いてる。俺は幸せを血眼になって貪るタイプだよ」

「それは本来当然の事かもしれないな」

「欲望を否定的に捉える人間ではないよ。人は欲望がなければ生きてはいけない」

「君は自分が天国に入ると信じてるかい?」

「勿論だよ。俺程のナイス・ガイは早々見当たらないぜ」

「まあ、確かにそうだ。お前がいない生活は寂しいよ」

「お前はいつも一緒にいてくれる。当たり前のように会いたい時にいてくれる人だよ」

「お前は三年半もの間、全く俺に会いたいとは思わなかったのか?」

「会いたいと思い始めたら、もう帰ってきてたよ。三年半もの間、よく絵を描く事に没頭出来たものだと自分でも信じられないくらいだよ」

 ケヴィンが俺の右隣の席に腰かける。ケヴィンが鞄からスケッチブックとクレヨンを出し、「ここに来て、俺はまた絵を描き、お前は小説を書くんだな」と笑顔で言う。

「君は精神障害者として生きてるのかい?」

「あんまり深く考え過ぎだよ。そんな事考えてたら、それこそ堪らなくなるよ。お前も結婚したら、どうだ?」

「結婚したくとも相手がいないよ」

「そんな事ないだろう。恋愛対象に対する評価が厳し過ぎるんじゃないか?」

「自分が女性にモテるとは思わない。自己嫌悪に陥る事も多い」

「確かに俺達には魅力がないよな」

「なっ!そう思うだろ?この気持ちが単なる病的なコンプレックスだとしたら、俺達の心の病は相当に重症だよ」

「辛いし、疲れてるし、苦しいよな」

「これじゃあ、頭がおかしくなるよ。大人の世界に投げ込まれた子供みたいな気持ちだよ」

「あなたって真面目ねえとか、純粋ねえって、よくウチの奥さんに言われるんだ」

「早く何処か遠くに逃げたいよ」

「俺は一度逃げてから、丁度今帰ってきたところだよ」

「お前は要領が良いな。誰にも相談せずに解決したんだから」

「俺には自分専門の相談役として奥さんがいるんだ。だから、お前にも結婚しろって言ってるんだよ」

「恋人探しはしてるよ。女性と個人的に親しくなるのが難しいんだ」

「お前は容姿だって悪くはないぞ」

「年齢相応の経験や中身や金がない。女だって可能な限り若い男を好むだろう」

「ファザコンみたいな若い女と結婚すれば良いんだよ」

「見た目にオッサンなだけだよ。社会経験は二〇代の一般社会人より乏しい」

「健常者と障害者を区別するような事ばかり言ってるな。レッツ・ゴー・クレイジーの精神で良いじゃないか」

「プリンスか。なかなか良いステイジを披露するらしいな」

「プリンスの楽曲だとか、そういう事を言ってるんじゃないんだよ」

「自分の事を障害者と弁えるのは間違った事ではないと思う」

「そんな弁えに何の得があるんだ?コラムの収入で小説を自費出版して、早く小説家として生きるべきだよ」

「俺達にコンプレックスを植えつけたのは社会だよ」

「社会の何が俺達にコンプレックスを植えつけたんだよ?」

「俺達を病院に隔離したよ。唯生きるだけの事に向精神薬の服薬を義務づけたよ。俺達は何処にいても精神科病棟の保護室と隣り合わせで生きてるんだよ」

「ううむ」とケヴィンが口籠る。

「人間はもっと自分の理想の人格を養い、賢く真面目に生きるべきだよ」

「それはお前が立派な人格を有している証拠なんじゃないか?」

「そうじゃない。それは想い上がりだよ。俺達は精神状態が乱れた時には社会的な責任なんて何も負えないんだ」

「俺はお前と同じ考えに基いて意見してるんだぞ」

「確かに統合失調症はパラノイアが多い」

「厄介な病気だよ。心が最悪に狭い」

「俺達が文学や芸術創作に専念するのは必然的な結果だよ」

「また狂人のように我武者羅に走りたくなってきた」

「走れば良いさ。走りたい時は走れば良いんだ」

 ケヴィンは素早く立ち上がり、走り去る。俺はケヴィンの動きを見て、戯曲や演劇の舞台の登場人物が退場する場面を想う。

「ハーイ、ショーン・ダニエルス!久しぶりだな」と男の声が俺に話しかける。

「ハイ、フィリップ!相変わらずお洒落だね」

 フィリップは黄色いサマー・セーターに茶のストライプのスラックスと赤いスニーカーズを身につけている。フィリップとはフィリップ・モーリスを愛煙するために付けられた渾名だ。

「新聞のコラムは最終回まで楽しんで読ませてもらったよ」

「そうかい。今度は音楽雑誌に音楽コラムを連載するんだ」

「小説の自費出版はしないのかい?」

「出来れば、新人賞を取ってデビューしたいね」

「目標が高いね。歴史に名を残すのは眼と鼻だってのに、新人賞の獲得に拘るなんてね」

「君こそ小説を自費出版したら、どうだい?」

「出版したくともお金がないよ」

「親にお金を借りたら、どうだい?」

「それがなかなか親の許可が取れないんだ。新車を買うために貯めてるお金しかないらしいんだ」

「今回、仕事に夢中になって、また薬を飲むのを忘れちゃってね」

「飲まずにいたのか?」

「すっかり忘れてたんだよ」

「入院するのか?」

「医者は飲み忘れのないようにって注意しただけだ」

「どのくらい飲まなかったんだ?」

「七日だよ」

「危ないなあ」

「多分、また暫く後遺症に悩まされるよ」

「今、どんな小説書いてるんだい?」

「人間界に魔界の穴が開いて、異次元が交錯する謎の殺人事件の話だよ。君は今、どんな小説を書いてるの?」

「怪しいエロスの世界だよ。最後は脳が蕩けるような眠りの中で死んでいくんだ」

「はは(笑)」

「社会経験がなくとも書ける小説って、俺達が書いてるような小説だろうな」

「そうだね。あんまり統合失調症を悪く言うなよな。俺だって自己嫌悪の日々の中で何とか必死で生きてるんだからさ」

「ああ、ゴメン」

「じゃあ、創作に集中しようかね」

 デイ・ケアで大勢の人達と一緒に創作活動を行うのはとても楽しい。それぞれの将来のサクセス・ストーリーの原点がこの場に集中しているのだ。それは誇らしく、とても満ち足りた安心感を抱かせる。


 アパートメントに帰宅し、俺はぼんやりと薬局の女の子の事を想う。俺には好きな女性を恋人にするための粘り強さが足りない。そんな風だから、四十を過ぎたこの年まで童貞のままでいる事になったのだ。恐らく、若い頃に恋人を作るような奴らは何が何でも恋人を得ようとする粘り強さがあったのだろう。誰もが童貞に始まり、自分の勇気で恋人を作り、セックスを経験する。俺は彼女の姿見たさにまた薬局に向かう。

 俺は薬局の向かいにある建物の二階の喫茶店に入ると、窓際の席に座り、ずっと遠目から薬局で働いている彼女の姿を眺める。誰かにオナペットにされ、仕事中に性器が疼くような時には仕事場のレストルームで自慰行為をするのか。仕事場で長い時間自慰行為に耽っていたなら、強盗に入られて、レジスターの中のお金を盗まれてしまうだろう。エクスタシーを感じながら、仕事をするのか。

 毎日、同じ時刻に集中的なモノの疼きを感じる事がある。浮かんでくる顔が不美人や年輩者だからと、オナペットの選り好みはしない。毎日、射精なしには安眠も叶わない。自慰行為の宇宙にあっては憎しみや嫌悪感すら愛に変わる。人々の自慰行為により人間界の宇宙が根底から愛に満ちるのだ。

 俺は仕事後の彼女の後を尾行するため、肌が切れそうな程冷たい風をまともに顔面に受けながら、何処までも何処までも夜の街を歩く。彼女の足はやがて貧民街に入り込む。彼女は古ぼけた整骨院の建物の前に来ると、そのまま整骨院の中に入っていく。曇りガラスのせいで整骨院の店内の様子は全く判らない。

 日が暮れて深夜近くになった頃、整骨院の店主が店のシャッターを下ろしに路上に姿を現わす。店主は店の両脇のシャッターを閉じ、最後に入口のシャッターを下ろすと、シャッターの向こうに姿を消す。俺は喫茶店を出て、整骨院の閉じたシャッターの前に近づく。俺はガタガタと寒さに体を震わせながら、冷たいシャッターに耳を当て、店内の話し声に耳を澄ます。

 オレンジの街灯が夜の人通りの絶えた路上をぼんやりと照らし出している。俺はそんな寂しい路上を独りうろつきながら、根気よく彼女が整骨院の中から姿を現わすのを待つ。寒さの余り歯がカチカチと音を立てる。口から体温が漏れるのを防ぐため、強く歯を嚙み合わせる。口の震えが止まらず、上下の歯がカチカチと音を立て続ける。緊張が続き、不安な気持ちになる。電気ショック療法を受ける前はここらで幻聴が徹底して意識を追い詰め、トラウマ的な恐怖の中に陥れた。デイトの度にこの不安な精神状態に陥るなら、とてもじゃないが恋人とのコミュニケイションは上手くいかない。レズビアンらしきカップルが俺の脇を通り過ぎ、俺の方を振り返り、コソコソと嫌らしい笑みを顔に浮かべて囁く。もう少し先に行けば、昨日行った売春街がある。

 整骨院の閉じたシャッターの中から、「それじゃあ、また明日来るわね」と言う女性の声がする。彼女の声だ。俺はシャッターの前で待ち伏せする。彼女がシャッターを開けて店内から外に出てくる。その後から四、五歳の少女が出てくる。彼女は私の顔を瞥見し、シャッターを閉じる。

「私に何か御用?」と彼女が笑顔で俺に話しかける。「昨日、薬局に来たお客さんよね?」

「はい、そうです。その子は、もしかして、あなたのお子さんですか?」

「この子?この子はあたしが十四の時に出来た子なの。可愛いでしょ?」

「ええ。とても可愛らしいお嬢さんです。あなたは結婚されているんですね」

「この子の父親の事?結婚なんてしてくれなかったわ。あたしが妊娠したと判ったら、次の日には姿消して逃げてったわよ。この子の父親はね、あたしが偶然友達から貰ったチケットで観に行ったクラブのライヴでナンパしてきたドイツ人のギターリストなの」

「そうだったんですか・・・・」

 で、そのバンド、何てロックバンドだったんですか?いやいや、そんな事を質問してどうするんだ!

「じゃあ、あなたはまだ結婚された事はない訳ですね?」

「良い人にはその後何人か出会ったんだけど、瘤付きの女と結婚するような男なんて早々いないのよ」

「あのう、俺と結婚前提でお付き合いして戴けませんか?」

「あなた、あたしの何を知っているつもりなの?別に結婚前提でなくとも、しっかりと私を品定めして欲しいわ」

「と言うと、俺と付き合ってくださるんですか?」

「そう言ったじゃない」

「ええ!この俺とですか!ええ!ああ、今夜は眠れなくなりそうだ」

「で、デイトは何処に連れていってくださるの?」

「それはこっちで考えておきます。先ずは電話番号とメール・アドレスを教えてくたさい」

「良いわ」

「あのう、御名前は何て仰るんですか?」

「サンドラ・バウムハウスよ」

「俺はショーン・ダニエルスと言います」

 俺は彼女の名前と電話番号とメール・アドレスをスマートフォンに入力する。

「俺の名前と電話番号とメール・アドレスを入力するのでスマートフォンを貸してください」

「優しいのね。はい!」

「それでは明日、あなたの仕事終わりに薬局に迎いに行きます。何時で仕事終わるんですか?」

「これから家に来ない?」とサンドラが笑顔で俺に訊く。「ビアーぐらいなら家にもあるわ。一寸した料理で良ければ、手料理も振舞うわよ」

「ああ、それじゃあ、行きます」

「そんなに緊張しなくて良いのよ。私の事はサンディーって気軽に呼んで」

「ああ、はい。俺、此間まで○○新聞に『ああだこうだ話』って言うコラムを連載してました」

「ええ!それ、あたし、読んでたわ!あれ、此間最終回だったわよね?」

「ええ、とても好評でした。今度は音楽雑誌に音楽のコラムを連載する予定です」

「歩きながらお話しましょ」

「あのう、手を繋ぎたいんですが、良いですか?」

「どうぞ」とサンディーが恥ずかしそうに俯いて言う。サンディーの俯いた顔が微かに微笑んでいる。俺はそっとサンディーの華奢な手を握る。幸せだ!こんな素晴らしい経験はした事がない!俺がどれ程恋人と並んで歩道を歩きたかった事か!

「サンディー、俺は生まれて初めて女性と手を繋いで歩いてるんだよ。これは本当に素晴らしい経験だよ」

「なら、何度でも手を繋いで歩きましょう」

「本当かい!嬉しいな(泣)!」と強烈な喜びが込み上げ、涙声になる。俺はハンカチーフを右手に掴み、涙を拭う。

「じゃあ、あたしが涙を拭いてあげるわ」とサンディーは言うと、自分のハンカチーフを出して、優しく俺の涙を拭う。

「俺、必ずあなたの理想の男になってみせます!」

「ああ、あなたって、何て可愛い人なの!あなたみたいに純粋な人がこの世にいるのね。あなたって、大きな子犬みたいに可愛い人よ。あたしの口にその唇でキッスをして頂戴」

「判りました」

「歯がぶつからないようにそうっと唇を近づけるのよ」

「判りました」

 彼女がそっと目を閉じる。俺はそっと唇を彼女の唇に重ねる。素晴らしい!いつまでこうしている事を許してくれるのか。彼女はそっと俺の眼前で眼を開く。全くこの俺を拒絶していない。

「素敵なキッスをする人ね。朝までずっとこうしていたいわ」

「それではあなたが風を引いてしまいますよ。早くこの寒空の下からあなたを温かい部屋に避難させないといけない」

「そうね。それじゃあ、腕を組むわよ」

「あっ、はい」

 俺の左腕に当たってるのは彼女の胸ではないだろうか。拙い!立ってきた!彼女に気づかれたら、きっと軽蔑されるだろう。彼女が俯いて俺の下半身を見る。どうか神様、俺のこの無様な醜態を彼女が許してくれますように!

「大きくなってるわね。ゴメンね。もう一寸我慢してね。もう直ぐ家に着くからね」

 これは何次元の会話だ!『ゴメンね。もう一寸我慢してね』って何だ!俺はまた幻聴が聴こえ始めてるのか!

「肉体関係になるのは結婚するまで待って戴けませんか?」

「あなたが結婚するまで我慢が出来るなら、そうするわ」

「必ず我慢してみせますとも。あなたが俺にとって特別な女性である事の証明として、必ず結婚まで自分の欲望を抑えてみせます」

「一寸、失礼」と彼女は言い、右手の指で目元を拭う。俺はもう彼女を悲しませたのか。彼女は目元を拭うと、素敵な笑顔で俺の左腕に飛びつく。この人は何て可愛い人なんだろう!

 サンディーの家はモールの近くの緑色の壁のアパートメントである。彼女は一階の奥のドアーの鍵を開ける。少女はドアーを開け、家の中に奇声を上げて走り入る。

「真っ暗な家の中に興奮する子なの」とサンディーは言って、首を傾げて微笑む。「三歳の頃から自分の部屋で独りで眠れる子だったの」

「幽霊を信じてないのかな?」

「何より見たいモノが幽霊なの」とサンディーが言って、小気味好く微笑む。

「へええ、珍しいな!」

「妖精だとか、怪物だとかが大好きなの」

「不思議な存在とどう心を通わせ、楽しく過ごすかだね」

「あの子自体変わってるから、精神科に関わるような事にはならないと思うわ。不思議な心のウェイヴよね」

 サンディーが部屋の電気を点け、リヴィング・ルームのソファーを指差し、「その辺に座ってて」と言う。サンディーは冷蔵庫を開ける。俺はソファーに腰を下ろし、「俺、実は精神科の厄介になってるんだ」と打ち明ける。

「ドラッグ?」とサンディーが手仕事をしながら訊く。

「いやあ、純統合失調症だよ」

「あたし、『ビューティフル・マインド』や『路上のソリスト』や『スパイダー』を観たわ」

「統合失調症の人に興味があるの?」

「狂人の事を神様の使いのように思っていた事があるの」

「ああ、俺にもそういう時期があったよ」

「統合失調症の人達って、とても魅力的な人達なのよ。作家や画家の世界では自明の事よね。あたしだって別に唯の統合失調症の人達が好きな訳ではないの」

「どうして統合失調症の人達が際限なく風変わりな性格になっていくのか。そこのところをよく考えてから医療体制を改革して欲しいよ」

「あらあら、あなたは純粋で個性的よ」とサンディーが顔を顰めて言う。

「でも、例に漏れず変人気質もあるんだ」

「人間って、誰もが変わった一面を持っているわ。劣等感は克服すべき問題よ」

「そうだね。俺は一寸社会に甘える癖がついてるな。あなたは障害者、彼は健常者って認識を強く持たせる環境で育ってね。俺達、精神障害者は向精神薬を飲む事も義務付けられてるんだ」

「向精神薬を飲む事に不都合があるなら、精神科医に打ち明ければ良いじゃない」

「それがね、偏頭痛がありながらも頑なに頭痛薬を飲む事を拒むような特徴があるんだ。彼、頭痛持ちよ。あの人、頭痛持ちなんだって、って噂は聞こえてこないけれど、精神科に通院すると、少し世の中の事情が違うんだよ。どれだけ自分が苦しくても、精神科の薬と縁が切れるなら、何より早くそうしたいんだ。要は精神医療や福祉関係者と縁を切りたいんだよ。発病して初回診察後に精神科に入院した途端に自分の人生や健常者との立場が大きく様変わりするんだ」

「あなたは病人。あなたは精神障害者ってなるものね。それは辛い事よね。でも、精神病の人だけが心に影を持つ訳ではないわ」

「確かに三大障害として知的障害や身体障害もあるからね」

「あなた、重傷よ。苦しみは障害に関わらず、誰にでもあるものよ」

「俺、自分の苦しみに溺れてるのかな」

「そんなに苦しみとばかり向き合っちゃダメよ」

「今までそんな優しい事を言ってくれる人は一人もいなかった」

「コラムには病んだ発想は全くなかったわ」

「健常者の仲間入りがしたくて隠してたんだよ」

「健常者って何?」

「心身に病気や障害のない人の事だよ」

「嫌な言葉ね。健常者って言葉は取り得のない自信の失せたような人間達が自分の役割りに目覚めるための言葉よ。人としてとても卑しい意識なのよ」

「俺だって、そう思うよ。その自称健常者達が障害者の生活環境を取り巻いて、絶望や自信喪失に追い遣るんだ。やれ、日常の何がよく出来ていない、努力も経験も資格もないような仕事を頭だけで自分にも出来ると勘違いしている、もっと自分の実力を地道に高める努力をした方が良いって言うんだ」

「あなた、お腹空いてる?」

「夕食はもう済ませたよ」

「あなたは立派な社会的成功者よ。あなたはあなたの発想を頭ごなしに否定してきた人達を打ち負かしたのよ。ねえ、あたしの特性ホット・ドッグを食べない?」

「ああ、食べてみたいな」

「一寸待っててね。CDでも聴いてて」

「うん。それでは君のCDラックを拝見」

「あたし、ミーハーよ!」

 やはり、多くのアメリカの白人の例に漏れず、黒人や有色人種や外国人のアルバムは一枚もない。それでいて黒人音楽に多大なる影響を受けたようなブルースのアーティストが中心を占めている。

「あたしは本当にミーハーだから、あなたが驚くような珍しいアルバムはないわよ」とサンディーがボールの粉を掻き混ぜながら言う。

「ジョン・レノンがあるね。『ジョンの魂』を聴こう!」

「その辺は高校生ぐらいの時に買った古いCDよ」

「君、ギターを持ってるんだね。何か弾いてみせてよ」

「あたし、自分の作った歌があるのよ」

「へええ。僕もあるよ。高校生の頃に作った曲だけどね」

「じゃあ、あなたの歌から聴かせて」

「いいとも」

 俺は絨毯の上で胡坐を搔き、ギターを膝に抱えて調弦する。爽やかなアクースティックのイントロダクションを弾き、コーラスの効いた合成音のような声を出して歌い始める。


『未だ見ぬ君の面影』

いつかきっと君に会えると信じてる。

君はいつか不意に僕の前に現われ、

一瞬にして僕を魅了するだろう。

ずっと恋人のいる生活に憧れ、

世界の何処かにいる君の事を想ってる。


不意に他の女性の姿に君の心が映ると、

僕はその女性に恋をし、

幻の君の笑顔を再び見たいと心待ちにする。

あの笑顔は二度と見えないのだと判ると、

全然脈のない女性に恋していた事に気づく。

そんな事の繰り返し。


いつかきっと君に会えると信じてる。

君はいつか不意に僕の前に現われ、

一瞬にして僕を魅了するだろう。

ずっと恋人のいる生活に憧れ、

世界の何処かにいる君の事を想ってる。


時々身近に好きな人が出来ると、

君を想ってきた事がとても馬鹿げた事に思えるんだ。

そういう女の子には大概恋人がいて、

失恋した僕は再び寂しい気持ちに陥る。


いつかきっと君に会えると信じてる。

君はいつか不意に僕の前に現われ、

一瞬にして僕を魅了するだろう。

ずっと恋人のいる生活に憧れ、

世界の何処かにいる君の事を想ってる。


 歌い終えて、顔を上げると、サンディーが腕を組んで俺の前に立っている。ギターを弾き終えると、サンディーは大きな拍手を俺に贈る。

「素晴らしいわ。とっても良い歌ね」とサンディーが誉める。

「君に贈る僕の気持ちだよ」

 サンディーは目元を右手の指で拭い、「長くお腹を空かしてたのね。あたしの作ったホットドッグを食べて」と言う。

 何だかとても楽しい気持ちで一杯になり、笑いが止まらなくなる。

サンディーも攣られて笑い出す。

 サンディーとダイニング・テーブルの席で向かい合ってホット・ドッグを食べる。

「ねえ、私の可愛い人、今夜は家に泊まっていくわね?私の事を思う存分愛すると誓うわね?」

「勿論だよ。セックスの経験はないけれど、男の役割りを必ず果たしてみせるよ」

「あなた、素敵よ!さあ!こっちに来て!私のベッドに行きましょう!」

「一寸待ってくれ!君が作ってくれたホット・ドックをまだ食べ終えてないんだ」

「そんな物これから毎日作ってあげるわ。さあ、来て!」とサンディーが向かいの席から手を伸ばし、俺の腕を掴んで立たせる。

 自分の人生が幸せに向かって大きく展開している。今の俺にはサンディーが自分の妻になる未来が容易に想い描ける。サンディーは俺をベッドに座らせ、俺の上着を脱がし、シャツのボタンを外していく。俺がシャツを脱いでいると、サンディーが俺のズボンのベルトを外す。サンディーは俺のズボンを脱がし、下着の上からモノにキッスをすると、俺の下着を脱がす。俺が緊張して見ている前でサンディーが服を脱ぎ、素っ裸になる。俺はサンディーの胸と陰毛に見蕩れる。

「さあ!ベッドに横になって!」とサンディーが俺をベッドに横たわらせる。

 このテキパキと進行する流れがセックスの実現への過程なのか。俺の意識のアンテナはいつもと変わらず、霊達を意識し、不安で一杯だ。それがどういう訳か霊達の声が全く聴こえない。サンディーは俺のモノを手や口で立たせようとしている。俺は横になったまま自分のモノを銜えるサンディーの頭を見ている。やはり、俺のモノは薬の副作用で勃起していない。いざセックスをする時はそういう説明を一々女性にするものだと思っていた。頭の中から異臭が漂い始める。闘病生活が長い事続いていたから仕方のない事だ。サンディーも腐った水のような悪臭を放っている。性行為に興奮すると体臭を放つのだろうか。吐き気がし、サンディーに嘔吐物がかからないように顔を背ける。嘔吐はしなかった。

 サンディーは苦心してモノを立てると、自分で俺のモノを股の間に入れ、俺のモノを軸に体を上下に弾ませる。サンディーは艶かしく性の喜びの声を上げる。漸く俺のモノがセックスに用いられた。理想の女性との初体験に拘ってきて良かった。良心とは性を禁じるものなんだな。人間は何時まで経ってもやんちゃ坊主なのか。


 セックスを終えると、初体験におけるアニマの問題など何の事だったのかと思う。異性に触れるとアニマとアニムスが相手の体に入れ替わると思い込んでいた。それだけに恋愛に踏み込むハードルの高さに自信喪失していた。俺は普通の人が考えもしないような事をあれこれ考えてきたのか。サンディーは俺の食べかけのホット・ドッグを捨て、俺のためにホット・ケーキを作る。俺はサンディーが作ってくれたホット・ケーキを食べる。気持ちが楽になっている。

「じゃあ、俺は一旦家に帰る」

「泊まっていけば良いのに」

「セックスをして自信がついたんだ。少し独りになって、その満足を噛み締めたいんだ」

「薬局の仕事は夜の八時に終わるの」

「じゃあ、君が仕事を終えたら、このアパートメントに会いに来るよ」

「前以て電話してね」

「うん。判った。それじゃあ!」

「キッスしてくれないの?」

「ああ・・・・」

 俺はサンディーの唇にそっと口づけする。

「それじぁ!」と俺は言って、アパートメントの外に出る。

 サンディーのアパートメントの外に出て、オレンジ色の街灯が点在する人気のない住宅街を歩いていく。四十二歳にして漸く恋人が出来た。ずっと健常者との恋愛に憧れてきた。障害者の女性からは幾度となく恋心を打ち明けられた。俺はその全ての告白を拒んできた。福祉施設やデイ・ケアに通う障害者の女性にはまともな美人が一人もいなかった。どの女性の顔も苦しみや不安や恐怖に歪み、偏執的で、愛が乏しく、極端に太っていたり、痩せ細っていた。

 アパートメントに帰り、幸せを持ち帰ったような満足感で胸が一杯になる。ソファーに腰かけ、肩の力を抜くと、全身に爽快な疲労感が満ちている。このままソファーで居眠りをするのも良い。俺の人生にも漸く幸運が巡ってきたのだ。音楽雑誌のコラムニストの仕事なら、自費出版費用も直ぐに貯まるだろう。新人賞を獲得して小説家デビューするか、自費出版で小説家デビューするか。ここはもう一踏ん張りして、新人賞に入選するまで頑張ろう。

 俺は熱い湯船に浸かり、目を閉じると、サンディーの顔を思い浮かべ、自分達の子供達がいる未来の結婚家庭を想像する。

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ラララ列車は止まらない 天ノ川夢人 @poettherain

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