誰そ彼に春雷

くーくー

第1話少年と少女

 激しい春の嵐が過ぎ去った後、急勾配の坂道に残された事故の痕跡は凄惨としか言いようのないものであった。

 明るい月と星明かりに照らされる道路には豪雨で飛ばされ散った桜の花びらが真っ赤な血の色に染まってべったりと張り付いており、衝撃でひしゃげたガードレールにはどす黒い血痕と脳漿がマーブル模様を描くようにして飛び散っている。

 急な雷雨でバランスを失った自転車が転倒し、二人乗りをしていた少年少女が投げ出され一人は搬送先の病院で死亡が確認され、もう一人は脳死状態となった。

 新人刑事の貫井ありさはその有様を見て言葉を失った。

 交番勤務時代にも酷い事故現場は何度も見たことがある。

 しかし、ここまでの現場は初めてだった。

 危険な二人乗り、急勾配のカーブ、そして雷雨が重なったとはいえ自動車の介入しない自転車の自損事故でここまでの大事故になるとは。

 現場検証をする交通捜査課の警察官の邪魔にならないようにその様子を見守りながら、冷静に冷静にと胸の内で唱えつつ何か引っかかるところはないかと耳をそばだて、周囲を見回す。

 貫井がこの現場に来たのは、事件性があるということで呼び出されたわけではなくただの偶然だった。

 刑事課に配属となって初の本格的な捜査でペアを組む門田警部補と周辺の見回りをしていたところ、無線でこの事故のことを知り思わず駆けつけてしまったのだ。

「おーい、貫井ちん、急に走り出して一体どうしたんだよ」

 背後から息せき切って坂を駆けあがって来た門田警部補の荒い息交じりの声がする。

「ちょっと、門田さん。今、現場検証中なんですよ。邪魔っす」

「いやー、すまんすまん、ごほほっ」

 運動不足のせいかまだぜいぜいと息を漏らして咳込みながら、軽く一回りは年下であろう制服姿の警察官に叱られて丸い体をより丸くしてぺこぺこ頭を下げる門田。

 皺の目立つくたびれたスーツの肘には坂の下のコンビニの袋がぶら下がっている。

 慌てて追いかけていた体でありながら、どうせいつものようにおやつ代わりの軽食でも買って来たのだろう。

 その情けない上司兼相棒の姿を横目で見ながら、貫井は胸の内でほぉっとため息を吐いた。

 五十の坂が手に届くころにやっと警部補に昇進したというのに、自分のようなひよっこ刑事の世話係をやらされる。

 同期だという刑事課長にもおそらく何の期待もされていないのだろう。そしてそんな窓際族とでもいうような門田と組まされた自分も……貫井の胸にはもやもやとした黒い雲が広がってゆく。

 子供のころ、「絶対に嫌だ」と泣きわめきながら祖父に引きずられて連れていかれた道場で貫井は剣道と出会った。

 特に楽しいと思ったことはなかったが、その後も稽古に通い続けて高校卒業まで続けたのはただの惰性だけではない。

 泣きながら道場の床でジタバタと暴れる自分をそっと抱きしめて、「そんなに泣かないでね。やってみたら意外と楽しいんだよ、ほら、これあげるから」口の中にポイっといちごミルクキャンディを入れてくれた年上の女の子の優しさと舌の上の甘さが忘れられずまた会いたいと思ったからだ。その女の子、清田彗には夢があった。

「私ね警察官になりたいの。強くて優しい警察官になって、皆を助けるの。そして剣道も続けて、いつか日本一になりたい!」

 彗の父もまた警察官であり、剣道の全日本王者でもあったのだ。

「彗ちゃんすごいねーもうなりたいものが決まっているんだ」

 貫井にもぼんやりとした夢はあったが、毎日ケーキが食べたいからケーキ屋さんになりたい。漫画を好きなだけ読みたいから、本屋さんになりたい。だといったあれこれとふわふわと浮かんではパチンと弾けるシャボン玉のような他愛無い子供の願望でしかなかった。

 どこか大人びたお姉さんっぽい少女ではあったとはいえ、自分とたった二つしか年が変わらず、まだ六年生になったばかりの彗が、そこまでしっかりとした人生設計を描いているとは信じられない思いであった。

 その後も彗は剣道を続け、高二の時にはインターハイで準優勝するほどの腕前になった。警察官の夢、未来の全日本女王の夢に着実に近づいているように誰の目にも見えていたのだ。

 しかし、その夢が叶うことはなかった。警察官試験を翌々日に控えた秋のはじめ、道場から帰宅中の彗は暴走した自動車に撥ねられてしまったのだ。

 幸い命はとりとめたが、右足を激しく損傷し、警察官の夢も、剣道の道も、全て諦めるほかはなかった。

 事故の一歩を聞いた貫井は病院に駆け付けたが、右足首の先を義足にすることとなった彗は誰にも会いたくないと面会を拒んだ。

 それ以来、貫井は一度も彗と顔を合わせたことが無い。けれど、その足跡を追いかけるようにして剣道を続け警察官試験も受けた。

 あの事故の前、「がんばってね、もうすぐ彗ちゃんの夢が叶うよ」と手を振って見送った貫井に、振り向いて両腕で大きな丸を作ったあの彗のひまわりのような笑顔が忘れられなかった。

 例え望まれていなくても、託されたわけでなくとも、彗の途切れてしまった夢、その先にある道を歩んでみたいと思ってしまったのだ。

 続けていたとはいえ、剣道の実力は足元にも及ばず地区大会で破れインターハイの出場すらできず、高校卒業と共に辞めてしまったのだが。

 剣道の実力は微妙ではあったのだが試験には何とか合格し、警察学校を修了した後地元から電車で二時間ほど離れた警察署の地域課に配属され、駅前の交番勤務となった。

 遺失物として届けられた迷子猫の世話や拾った十円玉を届けに来る途中で転んだ子供を慰め擦りむいた膝を消毒してあげたり、学校をさぼってゲームセンターに出入りしている少年たちの非行防止のためにパトロールにいそしんだり、コツコツと地道な仕事を続けて四年半、巡査部長への昇級試験の資格を得た。採用試験を受けると決意した後一生分の勉強を済ませたと思っていたのに社会人になってもまだ試験は付きまとうのだ。

 貫井自身はまだいいと先延ばしにするつもりだったが、「お給料も上がるし、早く済ませといた方がいいよ」そんな先輩のアドバイスもあり、初年度から受けることにした。

 しかし、子供のころから宿題で一番作文が苦手だった貫井は二次試験の論文で落ち続け、アドバイスしてくれた先輩もその間に交番から移動してしまった。

 三度目の正直どころか六度の失敗の後何とか論文と面接を突破し、早い人は警部補にまでなっているような年齢、ギリギリ二十代で巡査部長へと昇進すると、交番勤務の巡査時代に点数をめちゃくちゃ稼いで地域のトップになるようにバリバリ張り切っていたわけでもなく、補導した非行少年が熱い説教に大感激して見違えるような優等生になり国立大学に進学だとか、第六感が働いて大事件を未然に防いだというような輝かしい功績を残した優秀者というわけでもないというのに、もう制服は良いや……といった不純な気持ち交じりで何となく希望した刑事課に何故か配属してもらえた。

 彗にはその折々に母親を通じて手紙で連絡しているが、一度も返事は来たことが無い。今どこにいるのかも教えてもらえてはいない。

 あの事故の後、その場から走り去った轢き逃げ犯は日付が変わってすぐに身柄を確保された。そして容疑者の口から発せられた理由は、実に理不尽極まりないものであった。

 その日の午前中煽り運転で検挙された男は、車の中から通報した娘が高校生であったことから腹いせにたまたま見かけた同じ年頃の女子高生を狙って当て逃げしたというのだ。 

 テレビのニュースでそのことを知った貫井の拳は怒りで震えた。その瞬間から、交通事故、いや故意による交通殺人未遂とも言えるような事件に対する並々ならぬ思い入れが芽生えた。

 絶たれてしまった彗の夢を自分が受け継ぎたいという気持ちも。そして、それが貫井の夢にもなった。

 その決意はやはり手紙で知らせはしたが、それに対しての彗の考えは分からぬままだ。ひょっとしたら、自分の夢を盗まれたと思われているのかもしれない。

 人が諦めざるを得なかった夢に乗っかってろくでもない人間だと。

 彗本人にも、誰に頼まれたわけでもない。身勝手な使命感かもしれない。けれど、貫井にはほかに道は見えなかったのだ。自分の命と引き換えにしてでも世の中を正したいなどという高尚で真っすぐなものではなく、格好いいヒロイズムとは程遠く身近な手の届く範囲でいいから平和を守りたい、彗のように夢を断たれる人を一人でも減らしたいといった細く頼りない道だとしても。

「あー、この自転車、タイヤがつるつるにすり減っていますね。これであの嵐の中を二人乗りじゃあ滑りもするよ、運が悪かったな」

 門田を叱りつけていた警察官が、ひしゃげたマウンテンバイクのタイヤを確認し、眉を顰める。

 高校生の男女の無謀な運転による過失、この現場に残された痕跡は全てそれを示している。

 しかし、貫井の胸には先ほどまでとはまた違ったもやが激しく渦を巻いていた。

(いくら何でもあの嵐の中、こんな急カーブの坂道をハブステップに足を乗せただけの不安定な二人乗りで越えようとなどするだろうか。無謀にもほどがある……急いでいたといっても坂の上には総合病院があるだけ、高校生の男女が危険を冒してまで焦って向かうような用があるとも思えない)

 引っかかる、でも何か事件だと思うような証拠があるわけでもない。考え込む貫井のスーツの肘を、いつの間にか横にいた門田がクンクンと引っ張った。

「貫井ちん、難しい顔をしてどしたのー。お腹すいちゃったのかい?」

 その呑気な表情を見て、貫井は空を仰ぎ今度は胸の内ではなく大きくはぁっと息を吐きだしため息を吐いた。

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