第4章

「海」

「もうそう呼ばなくていいから」

「海」

「浩介くんが飛び降りた。なんとか一命を取り留めたけど、かなりの重症なの」

「あー、よかった。まだ死ななくて」

「やめて。流石にやりすぎなのわかるよね?」

「やめませんよ」

「やめなさい!先生、少年くんのこと本気で嫌いになるよ」

「いいですよ。先生なんか最初から好きじゃないんで」

「……え?」

「僕が好きなのは海だから」

 よく人気アイドルの熱愛報道でトレンドが埋め尽くされる。 信じてたのに ふざけんな ムカつく 引いた 気持ち悪い いろんな矢が躊躇なく飛び交う。まあ当然のことだけどね。好きとはそういうものだから。次第に歯止めが効かなくなり、思い通りにならないとすぐに傷つようと頭を働かせる。「私にはあなたが必要だ」ではなく「あなたには私が必要でしょ」と言うように。

 それにしても、そのアイドルたちも大変だよね。お金を愛で返している身として、その行動は借金になるのだから。

 私はまだわからない。彼が言った好きが何色なのか。聞きたいが、聞いたら私の知っているものが全部消えてしまいそうで怖い。私を傷つけたいのか。それとも、少年くんが求めていない私を傷つけたいのか。

 どちらをとっても彼は一時的に満たされるだけで、すぐに私を想い後悔をするはずだけど。そのことを教えられればよかった。私、やっぱり先生向いてないね。


「おはよう、神。今日の海は荒れてるな」

(にゃー)

「神は不思議な体験をしたことがある?」

(にゃーにゃー)

「最近の僕はどこかおかしいみたいなんだ」

 夢の中のようなふわふわしたこの時間は一体なんなのか。好き嫌いがコロコロ変わるくらいおかしな状態で、置き去りになった僕だけが今ここにいる。なんか、そんな気がする。

「この海はこんなにも汚かったっけ?」

(にゃー)

「あ、そういえば、部屋に置いてあるはずのビー玉が今日はなくてね。神はなにか知ってる?」

(がるぅー)

「そうだよね、きっと日頃の行いが悪いから罰が当たったんだよね」


 彼は変わった。精神状態が極端に不安定で悪い。少年くんはあの日、なにを見て、なにを聞いて、なにを感じたの?

「先生!おはようございます!」

「おはよ!今日も元気ね」

「あの放課後のことで…………あー、海斗悪りぃ!先行ってて!」

「どうする?手紙ちゃんと持ってきた?」

「ちゃんと持ってきました。放課後、教室ででもいいですか?」

「いいけどさ、後悔しない?彼女ちゃんと別れた後の自分想像できる?」

「はい、大丈夫です」

 彼女と別れたいけど別れ方がわからない。一週間前、浩介くんからそう相談を受けた。高校生の恋なんて質より量だと思っていたのに。浩介くんは別れが深刻なものだと思っていた。

「ねえ、これだめだからね?私クビになるからね?居残りさせる最低ハラスメント教師っていうレッテル貼られたくないからね?」

「大丈夫ですって、もうみんな帰りましたから」

 もし、誰かに見つかったら、きっと変な風に捉えられて厄介なことになるから。

「バレたらどーするの?」

「バレないように海斗にも嘘ついたんです。大丈夫なので、はやくやりましょ?」

「これからも海斗くんと仲良くしてくれる?」

「もちろんしますよ……っていうか、海斗と遊びたくて別れたいんです。やっと学校に来てくれたんで」

「そういうことかー。あ、ここ漢字間違ってるよ」

「あの、これ修正テープじゃだめですかね?」

「だめでーす。別れるときは慎重で丁寧が一番のポイントなんです」

 完璧そうで意外とがさつなところ、少年くんの初めに抱いたイメージと似ている。

「海っていいですよね」

「え、浩介くんも好きなの?海斗くんも海好きだよね」

「それは、そうですね……まあ好きか嫌いかで言ったら好きですけど、海斗ほどではないです。前にビー玉で海覗くと綺麗に見えるって教えたら、すごいハマっちゃったみたいで」

「そーなんだ」

「でも、ここの海は綺麗じゃないところが逆に落ち着けていいんですけどね」

 

 クラゲの形をした雲がプカプカと空に浮かんでいる。そんな日に、僕はこうちゃんの様子を見ようと夕陽に刺されながら三十分も歩いて目的地へと向かった。電車やバスに乗ると高確率で声をかけられるから。それに、もし誰かに見つかったら、きっと変な風に捉えられて厄介なことになるから。

「お見舞いに来たよ」

 この病院は人の出入りが少ないはずだが、今日は病室の扉を開けると先客がいた。

「なんで海斗くんがここにいるの?」

「なんだ、まだ別れてなかったんだ」

「別れてないよ。浩介からは別れたいって言われたけど、私はまだ好きだから」

「そっか、こうちゃんも大変だね」

「……え?なにが?どういうこと?」

「愛が苦しみに変わった瞬間が一番怖いから」

「なにいってんの?」

「君のせいじゃない?こんな事になったのは」

「なにそれ、最低っ!」

 この女は厄介だった。いじめから救ってくれたこうちゃんに纏わりついて、優しさに甘えて。それから、こうちゃんに求める要求がだんだんとエスカレートしていた。そんなくっつき虫に優先順位一位の僕は嫉妬されて嫌われている。

「っていうか、元はといえばあんたのせいでしょ?校長室でなんか揉めてたって聞いたし。あんたが火つけたの庇って浩介が逮捕されたんじゃないの?」

「もし、そうだったら?」

「は?」

「もし、そうだったら、君は僕を〇〇すの?」

「なにそれ、あんたマジでいかれてるって!」

「どうしたの!廊下まで聞こえる声でこんな騒いだら浩介が起き……」

 そういえば、この人も厄介だったな。

「こうちゃんのおばさん。ご無沙汰してます」

「なんでここにあなたがいるのよ」

「お見舞いをしに来たんですよ」

「今すぐ帰ってちょうだい。あなたの顔を見ると頭が痛くなるの」

「そういえばおばさん、まだこうちゃんに虐待してるんですか?」

 戦闘態勢に入る前というのはどれほど強い人間であっても、攻撃をされたら一定のダメージは食らってしまう。だから、僕はここにいる全員に聞こえるようにわざと声を張ってそう言った。案の定おばさんの口元の細かいシワは小刻みに震え、小さくなった黒目があちこちに動き回った。

 そして、陽が雲に隠れ薄暗くなった病室の中で、こうちゃんの胸の動きはピタリと止まった。

「……虐待?え?なにそれ?」

「そっか、君は相談されたことないのか」

「やめなさい」

「おばさんはずっとこうちゃんのこと監視してるんだよ」

「やめなさいって」

「食事もろくに与えないで、学費もこうちゃんがアルバイトしたお金で出して」

「やめなさいって言ってるでしょ!」

「こういう時だけ母親ぶって周りから心配されて嬉しいですか?死んでよって今までに何回言いましたか?内心こうちゃんが死んでくれたらって思ってますよね。やっぱりお金がほしいんですか?パチンコ、競馬、次はなにをやるんですか?株ですか?」

 僕の急降下な質問に流石の派手なオーバーリップも動かなかった。

「僕は暗いところが好きなんです。母が異常なほど明るいので。前にこうちゃんは暗いところが苦手なんだと僕に言ったことがあります。最近まで目を瞑るのも震えが止まらないほど怖かったと。だから、僕は信じられなかったんです。なんで、こうちゃんは街灯もまばらな夜道を歩いて、誰もいない学校の屋上へ行けたのか。僕は今でも不思議でしょうがない」

「……なにが言いたいのよ」

「昨夜、あなたがこうちゃんを突き落としたんじゃないんですか?」

「ふざけないで!あなたいい加減にしなさいよ!」

「って言っても、これはただの憶測で残念ながら証拠はないので、今日は大人しく帰りますね」

「は?……ちょっと、ちょっと待ちなさいよ!」

 新品の蛍光灯もくすんだ壁のおかげで不気味さを増し、異常な量の車椅子を片付ける清掃員を照らす。そんな病院のエレベーターが正常に作動するわけもなく、腰を痛めたおじいちゃんとともに僕は階段を降りた。

「まあ暗いところが苦手っていうのは嘘だけどさ。ほんと小さい頃から君は変わってないよね。あんな状況でも寝たふりができるなんて」

 瞑色が広がる午後五時半頃、今日も僕はたくさんの矢を背負って家に帰った。


 あの日、飛び降りた日、俺は一本の電話をかけていた。

「今から会えないか?」

 学校の向こう空に浮かぶ曇を探しながら、まだ薄暗い海に呼び出した。俺が吐いた息を吸うように萎んだ大待宵草が揺れる。

「海斗が来たら、上手く誤魔化してよね」

「わかってる」

 きっとここで俺が嘘をついても意味はない。だから、正直に話そうと覚悟を決めていた。

「どうした?」

「俺はもうすぐ〇〇されるかもしれない。だから、海は一人で逃げてほしい」

「無理だよ」

「無理じゃない。海斗のためにも、そうしてほしい」

「……まあ、頑張るけどさ。っていうか、浩介も頑張ってね。無理はしちゃだめだけど……」

「そうだな」

「もう会わないように、会いたいって思わないように」

「うん」

 俺たちは決して会ってはいけない関係だった。お互い優しく接してはいけない。会っている理由を何個も探さないといけない。今も、スナイパーに狙われていてもおかしくないから。全てを委ねられる関係だからこそ、いつか共犯者になってしまう。

 この町が疲れ切った午後六時半、俺たちは反抗するように笑った。

「それにしても、俺たちには敵が多すぎるな」

「そうだね、河越夜戦みたいだね」

 冷たい風が体温を奪う。海の顔が金青に光り輝く。

「でもさ」

「ん?」

「もし、また会いたくなったら」

「うん」

「最期はやり合って終わろうよ」

「……なんでだよ」

「友達だから」

 俺の特技は泣くことだけだった。けれど、いつしかどれほど叱られたとしても、俺は笑うようになった。

 なあ、海はどう思う?今、俺が泣いているのは感動しているからなのだろうか。


「少年くん、今日は来てないか」

 会えないとこんなにも胸が痛むのは、私だけなのかな。好きと言葉で伝えるほど好きになっていた。最初から意識はしていたんだけどね。まさか本気になっちゃうとは思わなかった。今はもう彼がなにをしても、なにを思っても、この思いは変わらない。顔で好きになったわけじゃないのにね。

 愛に溢れる女の子になってほしいという両親の思いで、私は「愛」と名付けられた。

愛に溺れるようになったのはいつからだろう。

 学生時代「好きだ」と言われても、「好き」を交換したいほど心は動かなかった。

 浅春、そんな私は恋をした。澄んだ空の下で一目惚れをした。耳を澄ました時間が、先生を探した時間が、どうしようもなく好きだった。透き通った声をまた聞きたくて、重ねたあの手の感触をまた感じたくて。先生の隣りにいると息がしやすくて。だから、まだ先生のこと好きでいてもいいですか?その返事を貰えることはなかったけれど。

 手を伸ばしても私のものにはならない。そう思い知らされるたびに、私は悔しくて先生を傷つけた。体中につけた愛のしるしに涙を垂らすと染みるでしょ?少女Aがしていることはいけないことなんだと、先生は丁寧に教えてくれた。しゃがんで目線を合わせて。そんな先生の揺らいだ黒い瞳は、また私の「好き」を加速させた。

 先生が消えたのは卒業式の前日。散らかった先生の部屋で「あたし、先生のこと〇〇したいほど好きなの」って言ったこと、今でも覚えてる。愛はもういらないと言っていたのに、そんな私を体重をかけて抱きしめてくれたよね。初めてのことで驚いたけど、すごく嬉しかったよ。

「少女A、先生に向いてるそのナイフはなんだ」

「あたしの愛だよ。受け止めて、先生」

 ねぇ、最後に私の名前を呼んでくれたのはどうして?私に行かないでって言ってくれたのはどうして?

 もしかして、私のこと好きになってくれたからかな。

「若い頃は好きと嫌いがコロコロ変わって大変だったよね」

(がるぅー)

「少年くんが足りないよ」

 間違いは人を成長させるなんて言うけどさ。私がいつまで経っても成長できてないのは、牛乳が嫌いだからかな。

 先生になってやっとわかったよ。どうして最後まで私の名前を嫌ったのか。

 

 久しぶりにオムライスと顔を合わせる。ご飯に残りのケチャップ全部入れちゃったからって、いつもと一緒とはいかなかったみたいだけど。

「海斗はお友達のこともっと苦しめたい?」

 卵を捲ってケチャップライスにスプーンを入れていたところで、僕は母さんの不意に出た言葉に驚いた。

「え?苦しめるってどういうこと?」

「……んっーと、わかった。ううん、大丈夫。変なこと言ってごめんね。よし、オムライス冷めちゃうから食べよ?」

「もしかして、こうちゃんのこと?」

「そうだよ」

「あれ?母さんに話したことあったっけ?」

「うん。でも、もういっかー。終わったことだし?ほら、オムライスもどき食べよ食べよー」

 テレビに映る東京の喧騒。収まらない無差別殺傷事件のニュース。

「そーいえば!ママ宝くじ当たったんだよねー」

 チャンネル切り替えるように、母さんは大きく手を叩いて口角を上げた。

「え、すごいね。おめでとー、ちなみに?」

「1万!すごくない?まあ3万使ってのだけどねー、えへへ」

「そんな簡単に当たらないんだから、それはすごいよ」

 友達を自殺未遂させるまで追い込んだとしても、僕の日常はなにも変わらなかった。窓の隙間から流れる風はカーテンにぶつかって姿を表す。土がついた茶色い足跡は雨に流されて姿を消す。世界が透明になってしまうような気がするのは、きっと海のせいだ。


「原先生はさ、友達って必要だと思う?」

「別にどうでもいい」

「えー?先生それでも教師?」

「いなくたって生きてはいけるから」

「まあそうだけどさー」

「でも、ここの海が少しだけ好きではなくなった」

「え?」

「友達をなくして変わったこと」


 僕はこうちゃんが退院をするまで学校には行かなかった。元々問題児扱いをされていた僕にとって、数日か休んだだけでなにも言われなかった。

 そして、僕は今日も海へ向かった。まあ、今日の目的はなんとなくだけどね。

「海は今日もお休みか」

「海斗!」

 僕がもう必要のないハサミで浜辺に文字を書いていると、帰り道の方から聞き馴染みのある声が聞こえた。

 そして、その声の正体は枯れた雑草を躊躇なく踏んで僕の方へ歩いてきた。

「海斗、やっと見つけた」

「もう退院できたんだ」

「抜け出してきたんだよ。海斗に会いたくて」

「僕は会いたくなかったけど」

「あのさ、海――」

「置き手紙見なかった?病室に残したはずなんだけど」

「見たよ。隅に置かれていたものなら」

「僕は早く消えろって書いた」

「……俺、やっぱり無理だったよ」

 そう苦しそうに笑うこうちゃんの目は潤んでいた。もうそこには喜と楽が存在しないかのような、そんな目で僕に訴えかける。「俺を助けてほしい」と。

 救いのはずの太陽が観覧車の頂上へ着いたが、白く鋭い光が真上から体中を刺して僕を惑わせる。そんな迷惑者が下に降りるまでに、僕は骨が浮き出たその腕を掴んで遠くまで逃げて生きたいと思ってしまう。

「俺には無理だ」

 けれど、そんな叶いもしない願いをかき消すように波の音は激しくなった。

「なら、どうしたい?」

「どうしたいんだろうな。もうわからない」

「僕は何回も言ったよ、消えろって……早く、早く消えろって!」

「あぁ、来世にはもう期待できないな」

「え?」

 お腹に鋭い激痛が走り、鮮やかな赤い液体が溢れ出る。それから、手足に上手く力を入れられなくなった僕は勢いよく横に倒れた。これが初めから決まっていた運命だとしたら、神様は一番の悪魔だな。

 そして、意識が朦朧とする中でこうちゃんの声がうっすらと聞こえた。

「俺は変わらない海が好きだった」

 君はほんと馬鹿だよね。どんなに大きな矢が向かってきても真正面から受け止めて、いつもここに傷をつけて帰ってきた。もっとずる賢く生きていいんだよ。自分のために生きていいんだよ。時間が経てばさ、みんな変わってくれるって。そんなに上手くいかないことは君が一番わかってるのに。でも、僕はそんな君と友達になりたいと思ってしまったから。そんな変わらない君が大好きだったから。

 実はさ、台風で海が荒れた日に内緒で君に会いに行ったんだよ。最後に君を守るために。

「え?」

「……だと思ったんだよ」

「どうしてここに?」

「その首にある手を今すぐ外せよ!」

「いやっ!……これはね、違うの。あのね、えっと……」

 君の母親が手を離してから時間が経っても、君の首についた赤い跡が消えなかった。きっと数分間にわたって苦しみを与え続けられていたのだろう。母親を先頭に、父親、妹、祖父らしき人が並んでいる。見守ると言うより、順番待ちと言ったほうがしっくりくる。

「家族総出ですか?みんなで意気投合して、団結して?」

「違う!俺たちはただ浩介を楽にしてあげようと!」

「そ、そうよ!苦しみから開放してあげようとしてたのに、またあなたが邪魔を!」

小学校六年生の頃さ、僕が何回も強引に誘って一緒に遊んだよね。だから、君は受験に失敗した。君はあの時「よかった」と笑ったけれど、その日からかな。

 僕も君の家族に嫌われたんだ。

「僕は人を〇〇したことがあります」

「え?」

「三人目の父親を〇〇したんです。僕に暴力を振るったので、家にあった包丁で心臓目掛けて刺し〇〇しました。もちろん、処理も自分でやりました」

「あなたなにを言ってるの?」

「人は心の傷が増えるたびに自分で直そうと努力するんです。どうしたらこんな自分を認めてくれるのか。愛してくれるのか。罵声を浴びせられても、暴力を振るわれてもです。でもね、その過程でいつもより少し大きな矢でグサっと刺されると、その心は割れて修復できないほどボロボロになる。そして、人を〇〇すのも躊躇わないほど壊れてしまうんです」

「……あなた、本当に人を〇〇したの?」

「僕の場合は母が賢かったので良かったんですけどね」

「答えなさいよ!人を〇〇したって犯罪者じゃない!」

「それをあなたが言いますかね。この先、こうちゃんの意志に反したことをしたら、僕はきっとあなたたちを〇〇す。忠告はしましたから」

 念のために持ってきたナイフの出番はこなかったようだ。気持ちよさそうに眠る君を見ると、僕がしたことは間違いだったかもしれないと不安になる。馬鹿みたいに笑う君より、静かに微笑む君のほうが「幸せ」を感じるから。

 この世界は広いはずなのに、常になにかに縛られている僕たちの未来は限られていた。才能に満ちている君が世界に見つからないままなのはもったいないのにね。

 サンタクロースの存在をテレビで知った僕と、家族の残飯処理係だと自覚してない君で、虹が不格好で姿を表したあの日手紙を書きあったよね。そして、大人になれたら渡そうって。あの手紙、今度必ず渡してね。

 刻まれた思い出が脳内で一ページずつ捲られていく。

「海斗?海斗わかる?」

 君はほんとに馬鹿で、天才だよ。

「よかったぁぁ……ほんっとよかったぁぁ!」

 目を覚ますと、母が僕の手を握りながら大声で泣き喚いていた。出産を迎える人はこんな気持ちなのだろうか。

 そして、視界いっぱいに広がる天井には模様があった。

「先生!海斗が目を覚ましました!」

 そっか、僕は生きたんだ。乾いた口を酸素マスクが塞ぎ、詰め込まれた感情は涙となって体から溢れ出した。君に送るはずだった想いは、朝を迎えてもまだ僕の体に残っていた。


「海」

「少年くん刺されたね」

「こうちゃんは?」

「浩介くんは死んだ。少年くんを刺したあと、自ら海に飛び込んだみたい」

 母という存在は偉大で、一生をかけてでも恩返しすべき人だと大人は言う。僕が用意した証拠を君がただの紙切れのように破いて捨てたのは、過去に優しく愛してくれた母が君にとって今も輝き続けているからだろうか。

 いつか僕たちがまた共に笑えるようになれたらと、何度も願い戦った。これが僕たちの栄光だと僕は信じたい。

「はい、これは浩介くんの遺書……ちゃんと読みなさい」

 

 海斗へ

 この手紙を読んでるってことは、海斗は助かって俺は死んでるんだよな?

 よかったよ。俺が刺したくせになに言ってんだって話なんだけど、ほんとによかった。

 そして、ごめん。ごめんな。痛かったよな、ごめん。

 海斗が俺に対してよく思ってないって知ったとき、怖かったんだ。

 海斗が俺に対してひどいことをしたときも怖かった。

 海斗のことを嫌いになれない自分が怖かった。なんでだろうな。自分でもわからない。

 だから刺したんだよ。海斗は確かに最低だったから。俺が罰を与えてやったんだぞ。

 まあ最終的に俺が一番悪いからな。感謝される前にいなくなるよ。

 海斗は俺にとって唯一の友達なんだ。

 これからは真っ直ぐ生きろ。嫌な記憶は消して楽しく生きろよ。

 浩介より 

                           

「浩介くんが書いた遺書は少年くん宛のものだけだったって」

「はい」

「お父さんでもお母さんでもないんだよ?」

「はい」

「浩介くん言ってた。少年くんといるときだけは苦しくないって」

「そうですか」

 短い学校生活の中で、海と浩介が話していたのを見たのは一度だけ。僕のいないところで浩介は海にどんなことを話したのか。どんな顔を見せていたのか。どんな関係性だったのか。浩介はどんな言葉を使って僕を表していたのか。

「あの、海はまだ僕のこと好きですか?」

「ねぇ知ってる?出会う人の中で2割は、自分のことを無条件で好きになってくれるんだって」

「初めて聞きました」

「なにをしたってね、たとえ犯罪者であっても」

 海は浜辺に流れ着いた壊れかけのキャンプ椅子に腰を掛け、悲しげにそう言った。そして、上目遣いを使って僕を心を覗こうとしている。

「あなたは一体誰なの?」

「あれー?僕のこと忘れちゃいました?」

 瞬きの回数が多い。手は青白く小刻みに震えている。明らかに海の様子はおかしかったが、僕はあえて触れなかった。

 多分、自ら飛び込んで無傷で帰ってこれる自信がなかったから。

「海くんだよね」

 けれど、夏が去っていくこの日に僕が傷つかないなんてあり得なかった。

「やっぱり気付いてたんですね」

「海くん、私ね……少年くんのこと、海斗くんのこと本気で好きになっちゃったんだよね」

「はい」

「あなたの体にもう海斗くんがいなくても、あなたを嫌いになることはできない。たった一度でも好きって認めたら、もう無理なんだね」

「海斗を傷つけたあなたのことを、僕は好きになれませんけどね」

 あの日、海斗がどれほど傷つき、どれほどの涙を流したか。わかろうと必死に考えてもわからない。当時書かれたノートの文字を見ても詳細まではわからなかった。僕と母の努力を一瞬にして無駄にしたあなたと浩介をこれからも許すことはできない。

「その薬指についたダイヤ」

「大丈夫、少年くんには見せてないよ」

「そのお腹の中にいる赤ん坊」

「大丈夫、少年くんには気づかれてないよ」

 好きという感情がどれほど恐ろしく依存性の高いものか、直接少年くんには教えられなかった。それだけが後悔かな。

 よく言うよね。「初恋は叶わないからいい」って。私との思い出もいい感じにアレンジして、忘れられない宝物にしてほしいな。

「あんたはもう必要ない」

「あたしの最後が君でよかった」

 この海は大きくて深い。これから私は我が子よりも少年くんを選ぶ。服を上手く使えばプカプカと浮かぶこともできたけど、もういいの。酸素がないこの世界では、私は人間だから呼吸ができない。

 あの時、少年くんが感じた苦しみを今の私は感じられてるのかな。

「僕は変わらない海が好きだった、か……なあ、この海が綺麗になる日はきっとこの先も訪れないよな」

(にゃー)

「神、行くぞ」

 あなたを残すという選択をしなかった僕に感謝してほしい。裏切られても海斗があなたのことを想い続けたのは、あなたが海斗にそれ以上の愛と変化を与えてくれたからだと思う。


 海は僕のこと好き?

 夏になっても観光客がなかなか集まらないところ、僕は好きだよ。

 今日は行けなくてごめんね。きっと、これからも行けなそうにないけど。

 けど、心配しないで。海のことを嫌いになったわけじゃないよ。

 僕の気持ちは変わらないから。


 少年くんの言う好きは何色だったかな?

 少年くんの目に海はどういうふうに映っていたかな?

 聞きたいこと、聞いたら負けだと思っていつも聞けなかったよ。

 いつの日か、私は先生ではなく、海という一人の人間として関わりたくなった。

 どこか似ている私たちは2ヶ月間、確実に運命の赤い糸で繋がっていたと、今も信じているよ。


 本望浩介が枯渇海斗に宛てた遺書には少しだけ違和感があった。潮の香りをふんわりと纏った便箋には、デッサン用の鉛筆で書かれた文字が均等に並んでいる。だが、どこか読みづらい文章がA型の私には気持ち悪いと感じた。本望浩介は賞を取るほど字が綺麗だというのになぜだろう。何度か繰り返し読んでいくと、ほんの少しだけ斗という字だけがぼかされていることがわかった。


 三番目の父の暴力によって枯渇海斗は生まれた。そのうち母の意向で治療が始まり、ぼくは必要とされなくなった。

 あの日、海斗が君を殺したいと強く思った瞬間、僕はまた必要とされた。海斗の暴走を止めるために。君を守るために。

 ここの海が汚いのはさ、俯いた人が前を向く前に諦めてしまうからなんだ。僕は海が好きだったよ。

 一生懸命に君が僕を止めてくれたあの日から、今日まで。


「あ、最後に一つだけ」

「なんだよ」

「二00四年七月十九日午後七時頃、千葉県のある海岸で近くの住人から「高校生が流れ着いた」と通報があった。県警の調査によると、その後搬送先で高校生の死亡が確認された。高校生が通う高校の担任と思われる教師も現在行方不明となっているため、水面下で捜索中だという。事故なのか、事件なのか真相は未だ不明。海の日の出来事ともあって世間を騒然とさせた。けれど、不可解なことが一つだけ。遺体は海底に沈むことはなく、綺麗な状態で流れ着いたという」

 彼女がこの村に転校してきた理由は僕だろうか。最近やっと海が落ち着いてきたというのに。

「当時を振り返る特集ページがあったので暗記しちゃいました」

「帰るんじゃないのかよ」

「先生が犯人なんでしょ?」

 机の周りをくるくると回りながら、彼女は核心を突けて嬉しそうな顔をする。

「もし、そうだったら?」

「んー、そうだなー。もし先生が犯人だったら、私のことも〇〇してほしいなっ。先生のその手で私を傷つけてほしい。でも、顔は綺麗なままで残してね。体は土に埋めて、顔は学校の門の上に置いといて。昔の事件みたいに」

「よく喋るな」

「だって、先生と話せるうちに話しておかないと」

「犯人はもういない」

「……え?」

「多分、犯人はもういないよ」


 この夏、どうしようもないほど好きになったあなたは「海」になりました。



 


 

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