4.逃げ一択


「ここが異世界か。本当に異世界に来たんだな」


 第一印象は「思ったより地球っぽいな」だ。転移した場所はだだっ広い荒野で、赤茶色の岩場という感じだった。草木は僅かにしか生えていない荒れた土地。テレビで観たどこかの国の荒野そっくりだった。


 異世界だと判断した理由は曖昧だ。

 一言でいうなら『空気が違う』。文字通りの意味だ。呼吸をするだけで活力が湧いてくるような、独特の空気だと感じたからだ。


 周辺に生き物の気配は感じられない。転移してすぐ魔物と遭遇するということはなさそうだった。


 少し遠くに目をやる。正面、左側、背後の三方は山だ。岩肌が見えていて標高は高そうだ。右側だけは遠くに緑が見え、自然があることがわかる。何より数百メートル先には二階建ての家が見えているのだ。屋根が赤く、嫌でも目立つ。まずは訪ねてみろと言わんばかりだ。


「さしずめチュートリアルって感じだな。まずはあの家へ行くか」


 ゲームをスタートしたばかりのとき、操作に慣れるための簡単なイベントのことをチュートリアルという。何となく最初に行くべき場所のような直感があった。


 思ったより俺は落ち着いている。異世界に来てテンパってもいない。女神様の部屋で急かされたせいか、冷静に判断できそうだ。異世界ハーレム無双の日は近いぞ。


「あのさあ、この状況なら家の方に向かうのは当たり前だろ?」


「うおおお!」


 思わず尻もちをつく。心臓が飛び出るかと思った。周辺には誰もいないはずなのに、いきなり耳元で声がしたのだ。


「何びっくりしてんだ? 自分で選んだんだろうが」


 言われてすぐに気付いた。そうだ、俺は女神の加護を不本意ながら手に入れたんだった。これがトーキングフェアリーか。

 全然冷静じゃなかったわ。


 尻もちをついたままの体勢で周囲を見回す。

 左側の頭上辺りに金色の羽が生えた小さな人間が飛んでいた。髪は金色で短く、整った顔立ちをしている。お金持ちが着ていそうな白いシャツと黒のハーフパンツという出で立ち。ハーフパンツはこれまたサスペンダーで肩から吊るされていた。


 手のひらサイズの少年だ。


「うおおお!」


 早速ひとつめの夢が破れた。まあ、女性でなくともかわいらしい少年だからある意味ありといえばありなんだけど、やっぱりちょっと女の子の妖精を期待していた分落胆していることは否めない。

 しかもなんということでしょう。マンガのキャラクターたちは前世でコミュ障だったくせに、異世界に来た途端しっかりと話し始めるというのに。俺は言葉が出てこないぞ。


「初めまして、だな。俺はセナ。見ての通り妖精だ」


「は、は、初めまして」


 なんか寿司屋のCMみたいな答え方になる。


「おい、お前名前は? 何て呼べばいい?」


「あ、い、い、伊勢渕ハクヤ」


「イセブチハクヤな。で、なんて呼べばいいんだ? これから一緒にいるのに、イセブチハクヤはちょっと長いだろ」


「あ、えと、なんでも」


 うわああ! 違う! 普通の受け答えすらできないのか俺は。


 こんなのは俺じゃない。いや違う逆だ。こんなのはいつもの俺過ぎる。異世界に来たらもっとこう、いい感じに話せるはずだったのに。


 だが、たっぷり二十分以上かけてセナという妖精は俺について聞いてくれた。



 いい奴だ。


 どこから来たのか、前いた世界はどんな世界だったか。その世界で俺は何をしていたのか。少しずつ緊張もほぐれてきて、自然に会話できるようになった。俺からもいくつか質問をする。


 セナは元々この世界に住む妖精だということ。

 この世界の妖精はひとりではある程度以上動けず、移動するには誰かと共に行動するしかないこと。

 妖精はこの世界の生物や物質に干渉できないこと。つまりあらゆるものに触れない。

 一緒に行動する人からはある程度以上離れられないこと。確認したがたぶん俺から電車一車両分くらいしか離れることができないようだった。

 特殊な能力を持つ妖精もまれにはいるが、セナは持っていないということ。ていうことはマジで会話するだけ?

 どちらかが死ぬまで妖精は同じ人と行動しなければならないこと。例外はないらしい。

 妖精の声は行動を共にしている人にしか聞こえないこと。妖精自身には周りの声も聞こえるらしい。


 いくつかの事実が明らかになったところで、セナが切り出した。


「じゃあハクヤ。そろそろ出発するか。冒険したかったんだろ」


 ハクヤと呼ぶことに決めたセナは、小さな手で赤い屋根の家を指差した。


「そうだな。じゃあ行こうか」



 会話以外にできることはないというセナを少し残念に思ったが、話し相手がいるというのは存外楽しいものだった。これまで話し相手がいなかったらしいセナも同様なようで、歩きながらも会話が続いた。


 自分の部屋から転移してきたため靴がないのは難点だったが、踏み固められている道なら歩くのにそれほど支障はない。どこかで靴を調達したいけど。





 赤い屋根の家までもう少し、というとき、セナが大きな声を上げた。


「あっちだ! なんか飛んでくるぜええええ!!」


 指の差す方向を見ると、森の方から1匹のトンボのような生き物が猛スピードでこちらに近付いてくる。遠目でもトンボと分かる巨大サイズだ。恐らく1メートルくらいあるだろう。動きの先を読ませないジグザグ飛行をしながら迫ってくる。


「魔物か!」

「わわわ、速い。どうしたらいい?」

「転移した人って特殊な能力を持ってて強いって話だろ。戦えよ!」


 その能力がお前と話すことなんだよ、という前にトンボが目前まで迫ってきていた。


 一メートルのトンボは想像以上にでかく感じる。左右に広げた牙は鋸状になっており、胴体を挟まれたらそのままちょん切られそうだ。


 目をつぶってしゃがみ込む。大きな羽音を響かせて頭上を通り過ぎる。


 無理だ。戦えるわけがない。武器も持ってないし、能力もない。何なら靴すら履いてない。


 ここは逃げ一択だ。


 俺は全力で走り始めた。いつもより速く走れているのがわかる。これが身体強化か。


 だが、劇的な、というほどではない。人間としてはトップクラスに速い、という程度だ。マンガみたいに残像が見えるような動きではない。感覚だけど世界記録に迫るかどうかくらいなんじゃないか。


「また来る! 逃げてないで戦いな」


 トンボが旋回して再び背後から向かってくる。振り向いてはいないが羽音がどんどん大きくなるのがわかった。

 遮蔽物の少ないこの場所では、捕まるのも時間の問題だ。

 あの家に早く逃げ込まないと。


 しかしまだ五十メートル以上は距離がある。


 周囲を見る。右前方に人間の背丈ほどの割れている岩がある。


 咄嗟に方向を切り替え、岩の方へ走る。巨大トンボが再び俺の脇を通過した。


 危ない。


 割れている岩の隙間に身体をねじ込んだ。ここならトンボの牙や脚も届かない。


 俺は目を閉じてやり過ごす。


 しばらく岩の周りに聞こえた巨大トンボの羽音も、やがて諦めたように小さくなっていった。


「危なかったーー」


 岩から出て、歩きながら大きく深呼吸をする。


「なあ、何で戦わなかった? 俺、ハクヤが戦っているところが見たかったんだけど」


 セナは不機嫌そうだ。そんなに戦闘シーンが見たいのか。


「だって俺手ぶらだし、特殊能力もないんだぜ? 無理だろ」

「嘘だろ!? ハクヤって特殊能力ないのか?」

「正確にはセナと話せるのが俺の特殊能力なの! 他にはちょっと身体が強化されてるとか、この世界の言葉がわかるくらいだから」

「そんなのこの世界に来た人は皆持ってるだろうが。マジかよ、戦いが見られると思って楽しみにしてたのに、って戻ってきやがった!」


 セナの視線を追うと、巨大トンボが岩の方から飛んでくる。諦めたのではなく油断させるためだったらしい。


「もう家へ向かうしかねえ!」

「また逃げるのかよ」


 セナの蔑むような声を無視して全速力で赤い屋根の家へ走る。直線的に走ったら捕まりやすいと判断して、左右に動きながらだ。


 そのおかげか、かなり近い位置にいるのに未だに俺を捕まえられない巨大トンボ。


 ざまあみろ!


 そう思った瞬間、肩に痛みが走る。


 肩をジャージごと抉られた。


 トンボはあんな見た目で強靭な顎を持っている。頭上を回転し、もう一度襲う態勢を整えている。


 痛え! でも今止まったら今度こそ殺される。


 俺は速度を緩めず走る。


 羽音が近付いてくる。


 ドアまであと数メートル。


 すぐ近くでおぞましい音が鳴る。


 俺は体当たりをするようにドアにぶつかり、室内に逃げ込んだ。


 ドアは壊れたが、羽が左右に広がっているため巨大トンボは入れない。


 助かった。

 

 倒れたままの姿勢でため息をつく。


「いらっしゃいませ」


 抑揚のない声が俺を出迎えた。




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TIPS

 巨大トンボは古代のメガネウラのイメージで、胴体は赤茶色をしています。それにスズメバチのような左右に開く口がついているような魔物です。


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