第8話 無難という名の地獄道

(舐められちゃいけない! 威張っちゃいけない!)


 僕は今日も穂波さんに習った呪文を、教室で口に出さずに唱えていた。いつもどおり休み時間の僕の周囲には、藤田とその取り巻き達が集まっている。みんな好き勝手に僕を無視して雑談していたかと思えば、不意に脛を蹴ってきたりする。まぁ、その方がまだましなのだ。僕に話しかけてきたとしても、やれ”ゴキブリ康太”だの”馬鹿木”だの”あほ木”だのと言われるだけなのだから。


 この呪文を心の中で唱え始めて今日で三日、僕の周囲には何の変化もなかった。だが、僕の内側はそうではない。

 なんと表現していいものか分からないのだが、当たり前だったこの日常に、僕自身の行動に、疑問が湧き始めていたのだ。


(なんで我慢してるんだろう?)


 今まで僕は、周囲に迷惑をかけない事を第一に考えていた。僕が何か行動を起こす事で周囲に騒がれる事、周囲から浮く事、周囲に迷惑が掛かる事、それを避けようとのみしてきた。

 恐らくそれは、怖かったのだろう、僕が目立ってしまう事が。

 このまま耐えてさえいれば、僕が周囲に迷惑をかける事もなく、何事もなく全てが丸く収まるのだ……。


(……ああ、そうか……、”全て”ではなかったんだ!?)


 確かに周囲はそれで丸く収まるのかもしれない。現にクラスメート達は僕の事を見て見ぬふりで、今の状況を日常として受け入れている。

 しかし、その一方で僕自身はどうだ? 僕は丸く収まってなんかいない!!


(ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな! ふざけるな!)


 ”ふざけるな!!”という言葉が僕の中に渦巻き始め、あっという間に満杯になってしまっていた。


(もう周囲の事など知った事か! 今はそれどころではないんだ! 今は自分の事で精一杯なんだ僕は!)


「ちょっとトイレ」


「鈴木君ウンコだってさっ!!!」


 僕が席を離れると、後ろから下品なドデカい声が響いて、クラスのそこかしこから笑い声が聞こえてくる。


(ふざけるな!)


 僕はトイレには行かず、一階の職員室に向かった。


「あの……先生」


 担任の先生が職員室の机で、なにやら書類を眺めているのを発見した僕は声をかけた。僕が職員室に来たのは、入学して以来これが初めてだった。


「ん? どうした鈴木?」


 先生は、書類を裏返して机の端に移動させてから、僕の方を向いた。


「えっと、あの、藤田君が意地悪をしてきて困ってるんですが、どうにかしてもらえませんか?」


「意地悪って言ってもなぁ、自分達でなんとかならないのか? 藤田とは友達なんだろう?」


 僕は正直、先生に呆れていた。藤田は確かに僕の友達を自称しているが、僕は一度だってそう思った事はないし、そう周囲に言った事だってない。強引に肩を組まれた時だって、必ず目を逸らしていた。

 周囲から見ても、僕が藤田を避けている事は一目瞭然だと思っていたのに……。


「これ、見てください先生」


 僕は制服のズボンの裾をめくってみせた。そこには、藤田とその取り巻き達が付けた痣が幾つも残っていた。


「鈴木おまえ…………とりあえず、おまえは保健室に行って来い!」


 ようやく事態を把握したのだろう。先生はそれだけ言うと、慌てて職員室を出て行ってしまった。



         *      *      *



 それからは簡単だった。あれからすぐに先生は藤田達に注意して、”これ以上何かあったら親を呼ぶ”と告げたのだそうな。僕に対してはは”藤田達に注意はしといたから、何かあったら知らせろ”としか言わなかったし、先生も大事になるのを恐れている風なのは明らかだが、対応してくれただけマシなのかもしれない。

 TVのニュースやなんかで、学校側がいじめを隠蔽したという話もあるのだから、たぶん僕と同じことをして上手くいかなかった人だって多い筈だ。ハッキリ言って、これでも僕はラッキーだった。

 しかし裏を返せば、たったこれだけの行動で抜け出せるものを、僕は”ニュースの学校のように無視されたらどうしよう”と考え、ずっと尻込みし続けていたのだ。


 その休み時間が終わってからというもの、その日、藤田達が僕に絡んでくる事はなかった。時おり”チクりやがって”みたいな話声は聞こえてきたが、それだけだった。


(ああ、こんなに落ち着いて下校できるなんて……)


 僕は通学路で夕日を見上げていた。いつもは学校から逃げるように早足で返っていたのに、今日は沈む太陽を見上げる余裕すらある。

 明日から藤田達が、どんな態度で僕に接するのかは分からない。もっといじめが陰険になる可能性もない訳じゃなかったが、僕は昨日までの僕とは違う。

 少なくとも、”周囲に助けを求める”という行動はできたのだ。一つでも行動ができたのなら、次だって行動できる。これから何か起こったとしても、また自分のできる範囲で対応をすればいいだけだ。


「ただいま!」


 いつになく元気な声で家のドアを開けた僕を待っていたのは、ドタドタと玄関に向かって突進してくる母さんだった。血相を変えた顔で、母さんは僕を睨んでいる。


「康太どういう事! 塾から電話があったわよ! あんた、2週連続でサボったそうじゃない! 塾での成績も悪いっていうし、どういうつもりなの!!」


 てっきり、学校からいじめの連絡が来たのかと思っていた僕は、不意を突かれてしまった。


「黙ってちゃ分からないでしょ! 塾をサボってどこに行ってたのよ康太!!」


(舐められちゃいけない! 威張っちゃいけない!)


 僕は深呼吸をしながら、穂波さんにならった呪文を心の中で唱え、急いで落ち着こうとした。いや、なるべく気持ちを落ち着けようと試みたと言った方が正しいか、頭の中に様々な考えが駆け巡って、僕はパニックから脱する事ができなかったのだから。

 それでもその数秒で何とか整理できた考えは、もう塾に行きたくないと伝えるにしても、玉岩八幡に行ってた事だけは秘密にするべきだろうというものだった。もし今の母さんに知られたら、何を言われるか分かったものではない。


「早く答えなさい!」


「どこに行ってたっていいだろ!」


 古武術で練習した成果だろうか、自分でも驚くほど大きな声が出た。そして、それよりなにより驚いたのは、僕の口から出た言葉の内容だった。なぜならそれは、いつも心の中で呟くだけで、今まで外には決して漏らさなかった僕の本音だったからだ。

 実際、それを口にした後でさえも、そんな事を言う覚悟ができるなんて信じられない、という思いで一杯だった。


「いいわけがないでしょ! あの塾に毎月いくら払っていると思うの?!」


 母さんの顔は、みるみるうちに真っ赤に染まっていく。


「僕がいつあんな塾に行きたいって言った?! もうウンザリなんだよ! あんなとこ通うのは!!」


 そこからはもう、怒鳴りあいだ。普段なら、近所の人の目を気にして大声なんて出せないのに、その時はもう夢中で周囲の事など目に入らなかった。


「勉強しないでどうするのよ! あんたのために! あんたの将来のために、母さんはがんばって……」


「僕は将来ゲーム製作をしたいんだ! ゲーム会社に入りたいんだ! 僕がやりたいのは、あんな受験勉強じゃない!」


「夢みたいなこと言って! ゲーム製作なんて、一握りの人しかできないのよ! そんなの康太にできる訳ないじゃない!!」


 正直腹が立った。やってもいないのに、なぜ母さんは”僕にはできない”と決めつけているのだろう?

 いや、今までは僕もそれを不愉快と思いながらも、表面上はそれを受け入れてきたのだから、人の事は言えないのかもしれない……けれど、もう止めだ!


「やってみなけりゃ分からないじゃないか! どうしてもやりだいんだ!」


「あんた、ゲーム会社だなんて、一生遊んで過ごすつもりなの!!」


「じゃあ、母さんは僕にどんな人生を歩ませたいの? 普通の会社に入ってサラリーマンになれというの? 僕は嫌なんだよそれがっ!」


「それが最も確実なの! いい! 博打みたいな人生を送ったってロクな結果にはならないのよ! もっと真面目になりなさい! ちゃんといい大学を出て、いい会社に入って……」


「僕は中学校しか出てないのに、社長になって納税日本一になった人を知ってるよ!」


「屁理屈言わないで! そんなの、一握りの選ばれた人じゃない! 康太にはできる訳ないでしょ!」


「だからなんで、”できない”って決めつけるんだよ! イチイチイチイチイチイチイチイチイチイチイチイチッ!!」


 言葉を繰り返す度、徐々に僕の声は大きくなった。そして興奮のあまり涙がこぼれ、もう止まらなくなっていた。


「じゃあ……じゃあ、失敗したらどうするのよ!」


「なんで失敗するって最初から決めつけるんだよ! それに大学を出たって失敗する奴はいるだろ?! 会社で出世したって、失敗してクビになったり、倒産したりするじゃないか!」


「でも、成功する確率が高いでしょ! それが常識なの! いい加減、訳の分からない事ばかり言わないで!!」


(サラリーマンになる事が常識だって? それは一体誰が決めたんだ?

 世の中にはいろいろな職業があるのに、サラリーマンだけで社会が回っている訳じゃないのに、どうしてそれが常識なんだ? 家業を持たない人は、みんなサラリーマンになれとでもいうのか?! おかしいじゃないかっ!)


 どうしてこんな当たり前の事を、親達は分からないのだろう? 本当に疑問だ。

 だいたい”確率が高い”というのなら、今の僕の成績で母さんが希望するようないい高校、いい大学に入れる可能性が何パーセントあるというのだろう?


「常識なんて知るもんか!! 確率がいくら高くったって、そんな人生は嫌なんだよ僕は!! やりたくないんだよっ!!」


 話が合わない、合う訳がない。母さんはどっちが”無難”であるかどうかしか見ていない。

 常に”失敗したらどうしよう””上手くいかなかったらどうしよう””不安だ不安だ”と下ばかり向いている。母さんからは、恨みつらみでこの世しがみついている霊達と同様に、暗く重い波長を纏った者の気配さえ感じられる。

 顔を上げ、上を向こうと努力を始めた僕とは、それが真逆なのだ。


「わがまま言うんじゃないの!! 父さんが入院して母さんは今大変なのよ! もうこれ以上馬鹿な話はしないで頂戴! 母さんの言ってる事をちゃんと聞いてれば、そんな夢物語じゃなくて、もっと確実ないい将来が待ってるんだから、大丈夫よ!」


(馬鹿な事を言ってるのは母さんの方だ! 今の僕の何処が大丈夫だと言うんだ?!)


「好きな事を何もできずに生きて、それが楽しい訳がないだろ! いい将来な訳がないだろ! そんなの、なんのために生きてるのかすら分からないじゃないか!

  勉強勉強って、もうウンザリなんだよクソババア!!」


 パンッ!


 平手打ちが僕の頬を襲う。正直、言い過ぎだったと思うが、かと言って今まで僕に母さんがしてきた事を思えば、これくらい言ってむしろ良かったとも思える。

 殴り返してやろうかとも一瞬思ったが、それだけは堪えた。


「もう母さんには何も期待しない! あんな塾にはもう行かない! 知った事かっ!」


 僕はそれだけ吐き捨てて、自分の部屋に駆け上がっていた。母さんは、なぜか追ってこなかった。


(もう、何も期待しない……か……)


 部屋に戻った僕が考えたのは、自分がゲーム製作をするのに、その仕事に就くのにはどうしたらいいのかという事だった。

 母さんも父さんも協力などする訳がないのだし、自力でなんとかするしかない。


(とりあえず、ネットで調べてみようか……)


 ゲームのプログラムを覚えようと思ったのだが、プログラム言語パッケージの購入やら、講座の受講やらが必要らしく、今の僕には手がでそうになかった。


「あ、フリーのツールもあるのか、これなら……」


 僕は、フリーでRPGやらサウンドノベルを作れるツールを幾つか発見した。こういう素人が扱えるツールでも、ゲーム制作の工程は目が眩むほど多く、完成前に挫折する人が殆どなのだというが、僕は迷わずそれをダウンロードした。

 このツールでゲームを作ったって、プロのゲーム制作者への道とはかけ離れているのかもしれないが、とりあえず今挑戦できる事から試してみればいい。それで自分がゲーム制作に向いていないと分かればそれで諦めればいいし、何かできると自信がついたならもっと本格的にプログラムを学ぶ道を考えたらいい。


(今日はダウンロードだけで止めておくかな)


 母さんと喧嘩したせいで興奮が冷めず、まるで落ち着かない僕はそのままベッドの上で横になった。

 横になったところで落ち着きはせず、考えもまとまらない。だが一つ確かな事は、もうこれ以上今までと同じ日常が続くのは御免だという事だった。


(いっそ、家出でもしてみようか……)


 どこにも行く当てなどないのに、僕はそんな妄想にふけり、一人で笑っていた。

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