第4話 霊のいる日常
『君はもう、こちら側の世界に片足を突っ込んでいるんだ』
冬三郎の残したこの言葉の意味はすぐに分かった。それは、翌日の朝の通学路での事だ。
(うわ……)
すれ違った眼鏡をかけたサラリーマンの背中に、キツネのようなおぼろげな何かが憑いている。今までそんな物を僕は見た事がなかったのに……、あの少女の霊ですら時おり見かける程度のものだったのに、その日はハッキリとそれが見えた。
バスの停留所には、到着を待っている人に紛れてやたら暗くうつむいた人影が、ガラス張りのパチンコ屋の中を覗けば台の上から恨めしそうに客を眺める女の人が……、見えてはいけないものが僕の目にはくっきりと映っていた。
(これは、あの冬三郎の仕業だろうか……)
霊と目を合わせないよう視線を落とし、細心の注意を払いながら僕は中学校を目指す。
冬三郎の言葉を信じるのならば、これは一時的なものではなく、これから僕に一生付きまとう能力であり災難なのだ。
(何も考えちゃいけない……頭を空にしなきゃ……)
登校時の僕は、いつも学校を呪っている。苦痛な勉強、虐めの恐怖、苦手な授業の度に味わう劣等感、その全てが嫌いだった。
しかし、今は心の中で何かを呪う事が致命傷になる。あの少女の霊も、僕が周囲を呪いながら下校していたからこそ、それに引き寄せられて憑いたに違いないのだから。
だから僕は頭を空にして、逃げるように中学に向かうよう心掛けた。もっとも、それがどれだけ効果があったかは知れない。いくら考えまいとしても、中学校が近くなればなるほど嫌な思い出が蘇り、頭にこびりついて離れないのだから。
(仮に憑りつかれたとしても、冬三郎にまた助けて貰えるのかな?)
そう考えもしたが、僕はすぐに首を振ってそれを否定した。
あの化け物は、僕を”人間にしては面白い”と言った。それは僕をまともに戻そうとか、助けようと思っている者の台詞ではない。
それに、霊の姿を見えるようになったのは、冬三郎に出会ってすぐの事なのだ。もし冬三郎に関わり続けたら、今度はどんな厄介な能力や呪いを引き受ける羽目になるかわからない。最終的には、あの冬三郎のマネージャーを名乗っていた気弱そうな男の様に、あいつの付き人にされてしまう可能性だってあるのだ。
二度と霊には関わらない、もう冬三郎にも会わないのが僕にとって最善に違いないのだ。
漫画やアニメだと、冬三郎みたいなキャラクターと主人公が手を組んで妖怪退治をする娯楽作品もあるが、絶対あんな夢物語のような世界が待っている訳がないのだ。
「げっ……」
登校時間ギリギリに中学校に着いた僕は、昇降口で足を止めてしまった。下駄箱の上に、見た事もない古い学生服の男が腰かけているのが見えたからだ。あれが隣の下駄箱で助かった。もし僕の下駄箱の上に乗っていたのなら、僕は上履きを取り出す事すらできなかったに違いない。
* * *
その日の学校はやけに疲れた。校舎のいろいろな場所に霊がうずくまっているのが見えたからだ。
僕はそれが見える度に、霊と距離を置いて目を合わせないように、同級生や先生からその行動が不自然に見えないようにイチイチ気を遣わねばならなかった。
「いつもに増して、態度がおかしいなおまえ。
また妙なお祓いでもしたのか?」
藤田とその取り巻きが、休み時間に僕の席に群がってきた。うまく隠していたつもりだが、僕の様子がおかしい事を嗅ぎつけられてしまったようだ。
「少し疲れてただけだよ。なんでもない」
僕は奴等と目を合わせないようにうつむく。いつもこうやって嵐が過ぎ去るのを待つのが、僕の日常だった。休み時間がたったの10分で本当に助かった。10分耐え忍ぶだけで、自動的にこの苦痛は終わってくれるのだから。
「なんか、隠しているんじゃないのか? あ”ーーん?」
どうやったら、あんなガラの悪い声が出せるのか? 下品な声と共に、藤田が俺の髪を掴んで強引に上を向かせる。
「本当になんでもないよ」
藤田はチッと舌打ちしてから僕の頭を離す。廊下を見張っていた取り巻きが、先生が通りがかったのを報告したからだった。僕にとって、それは不幸中の幸いだった。
(ああ、あの少女の霊が、こいつらだけでも呪い殺してくれれば良かったのに……)
ふとそんな考えが頭をよぎったが、慌てて僕はその考えを引っ込めた。廊下側の窓から、逆さになって教室を覗く男の顔がチラリと見えたからだった。
* * *
そのまた翌日の土曜日、僕は家から一歩も出なかった。
元々、休日に外に出る習慣はなかったが、霊が見えるようになってからは以前にも増して出不精になってしまったようだ。
部屋のPCで冬三郎の事を調べてみたのだが、当然何も分からなかった。それらしい霊能者の話だって、インターネットのどこにもない。それどころか母さんが後で聞いた話では、祖父は家に電話した覚えもなければ、金剛大寺に知り合いもいないのだという。
祖父と電話で話す母さんは首をかしげるばかりだったが、あの化け物は姿を変える事さえできるのだ。祖父や坊さんの声を真似して、僕等を騙すなど朝飯前なのだろう。
僕は早々に冬三郎の調査を諦め、せめて今だけでもゲームを楽しむ事にした。
「ああ、もう! またクエスト失敗かよ!」
が、いまいち集中できず、余計ストレスが溜まるばかりだ。けれど、ゲームに夢中になれないのも当然だ。安全地帯に籠っていられるのも、塾がある日曜の夕方までなのだから。そしてそのタイムリミットは、もうすぐ切れてしまうのだから。
塾に行く前、母さんに霊が見えるようになった事を相談しようかとも思ったが、すぐに止めた。解決したと思った矢先に、また超常現象に悩まされているなんて話をしたら、どんな反応をするかわからなかったからだ。
僕は重い足をひきずるような思いで、しぶしぶ玄関を出て夕日差す町を歩き始める。父さんの見舞いの準備で忙しい母さんは、”いってらっしゃい”と声をかけただけで僕を見送りもしなかった。
* * *
塾への道は困難を極めた。駅の前の人だかりに沢山の霊が混ざっているのを見た僕は、それ以上電車に近づく事ができなかったからだ。
(塾は隣の駅だから、少し遅れるだろうけど歩いてでも行けるよな……)
多くの人と狭い空間を共有しなければならない、電車に乗るのはごめんだった。そこに霊の姿が混ざっていたら、どこにも逃げ場がないのだから。
幸い隣の駅の方角は分かるし、線路沿いに歩けば15分遅れくらいで塾に到着する筈だった。しかし、この考えは甘かったとすぐに僕は気づかされる。線路沿いの道は曲がりくねり、進めば進むほど駅の方向が分からなくなっていた。それに僕は、霊の居る道が怖くて通る事ができない。だから、どうしても迂回せねばならぬ道が、そこかしこに出て来るのだ。
(仕方ない……)
僕はカバンからスマホを取り出した。このスマホを僕は殆ど使っていない。藤田に画面を割られ、ひびの入ったディスプレイを見るたびに不快になるからだ。そうでなければ、やりたいスマホゲームも沢山あったというのに……。
(なんだ、逆方向に向かってるじゃないか……)
思わずため息が出た。ナビを開いたら、一目で今日の塾には間に合わない事が分かったからだ。
ナビの地図によれば、ここは隣町だった。来た覚えのない場所だから妙に新鮮に見えるが、冷静に考えれば僕にとって何の意味も持たない商店街だ。
商店街の脇にある広そうな神社には少し興味をそそられたが、家の近くの神社でしてもらったお祓いも全く役に立たなかったのを思い出して、その興味もすぐに失せてしまった。
(お腹すいたな……)
買い食いも、外食も僕は殆どしないのだが、今日は歩き疲れた事もあって無性に腹に何かを入れねば心地が悪かった。丁度近くの高架下のラーメン屋からいい臭いが漂ってきていたし、たまには一杯くらい食べても構わないだろう。
(どうせ塾はサボるんだし……)
もともと塾の勉強には、僕はもう着いて行けない状態だった。学校ですら疲れてしまって勉強に身が入らない状態なのに、塾まで集中力が持つ訳がない。最初の頃は、駄目な自分を責め続けていたが、今では自分だけが悪いわけじゃないんじゃないかと思い始めている。
「いらっしゃい!」
威勢のいい店主の声で出迎えてくれたその小さなラーメン屋は、存外流行っているらしく満席に近い状態だった。
店が高架下にあるため、電車が通るたびにガタンゴトンという音が店内に響いている。
(カウンター席しか空いてないのか……)
できればテーブル席で落ち着いて一人で食べたかったのだが、仕方がない。僕は、長髪のお姉さんの右隣りに座って、ラーメンを注文した。おこづかいも残り少ないし、普通のラーメンでも財布の中身の半分以上が消えてしまう。
「でさーー、サナエちゃんがね……」
「ははは、うっかりしてるからねぇ……」
隣の席のお姉さんはやけに明るい声で、店主と話をしている。歳は二十歳前後だろうか? 羽織ったジャンパーの下から赤いズボンが覗いている……、いや、これはズボンではなく袴だ! 着物の上にジャンパーを羽織ってラーメン屋にこの人は来ているのだ。
(巫女装束?)
コスプレかとも思ったが、こんな商店街でコスプレする意味はないし、近くに神社もあったし、恐らくはそこで巫女のバイトをしている人なのだろう。
バイト巫女とはいえ、ラーメン屋で見かけるなんて珍しい。悪いと知りつつ、ついジロジロと見てしまう。
ガタンゴトン……
(あ……あれは……)
列車が通過する音で思わず上を見上げると、店の天井をすり抜けて大きなドクロがゆっくりと店の中に降ってくるのが見えた。それはおそらく悪霊の類なのだろう。ドクロは天井付近でキョロキョロと獲物を探すように、店の客達を見渡している。
「うぅっ」
僕は呻く様な声を漏らしてしまった。上から降って来たそのドクロが、隣の巫女装束のお姉さんの肩に乗ったのを目撃してしまったのだ。
すぐに逃げようかとも思ったがもう遅い、僕はもうラーメンを注文した後なのだ。ここで逃げ出したら、それこそ不信に思われてしまう。
「ん? どうしたのキミ?」
巫女のお姉さんが、こちらを向いて心配そうに声をかけてくる。
「あの、お姉さんの神社って、ご利益あります?」
我ながら奇妙な事を口走ってしまったと思う。しかし、これは僕なりの考えがあっての事だ。
(もし、あの神社がちゃんと霊を祓える力を持っているのなら、これから僕が霊に憑りつかれても助けてもらえるかもしれない。
あの恐ろしい冬三郎とも、もう二度と関わらないで済むかもしれない)
そうだ、これをこの巫女さんを通して確認しようとうのだ。
その時は、自分が奇異の目で見られる事など気にしていられなかった。臆病な僕には珍しく、助かる可能性があるならばどんなものにもすがってやろうと、なぜかその時は覚悟を決める事ができたのだ。
「歴史だけはある神社だし、ご利益はある方なんじゃないかな?
合格祈願でもしていくの?」
「いえ、その、お祓いとかはどうでしょう?」
「ええ、やってるわよ」
巫女のお姉さんは、僕の視線を追ったのだろう。自分の肩に乗ったドクロを凝視している。
「もしかして、何か憑いてるの?」
「え、ええとドクロが乗ってます、肩に」
「ねぇ、聞いた? ドクロが乗ってるんですってキャハハハハハ」
「へぇー、その子は霊感があるんだねぇ、珍しい」
店主は、その程度の事はなんでもないといった様子で、平然とラーメンを僕の前に置き、巫女さんは可笑しそうにまだ笑っている。
「あの、本当に乗ってるんですドクロが。あなたの神社でお祓いした方がいいんじゃないですか? 霊験あらたかな古い神社なんでしょう?」
「まーー、大丈夫、大丈夫これくらい」
そう言って、巫女さんは自分の肩を見つめてこう言った。
「幽霊さん幽霊さん、構わないから好きなだけ私に憑いててね♪」
僕は目の前に置かれたラーメンすら眼中になく、底なしに気楽な巫女にただただ呆れるばかりだった。
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