第18話 轍鮒の急


 二人して物思いに耽っていると、会議室の扉が開いて東海林警部と田端警部補が姿を見せた。落合は椅子に乗せていた足を慌てて下ろすと、

「何だよ田端、本庁ここにいたのか。てっきり寝坊でもしたのかと思ってたぜ」

「布団から出たくないのは山々でしたが、そうも言っていられない事態ですから」

 苦笑いする警部補の目の下には、微かにクマが見受けられた。それでも、髭の剃り残しも目立たず髪や服装まできっちりと整えているあたりに几帳面な性格が表れている。

「昨夜に起きた佐野殺しの直後、田端には佐野の自宅を捜索してもらったんだ。刑事部が現場を荒らす前に重要な証拠だけでも押さえておくためにな。その甲斐あって、興味深い事実がいくつか判明した……お、捜査会議の準備万端ってわけか」

 傍に置かれたホワイトボードに目を転じ、にやりと笑うボス。余計な前置きもなしに、早速会議がスタートした。

「公安一課がこれまで収集した情報は、分析班に回して一連の事件の全体像をまとめてもらった。仔細は落合に渡した資料を見れば大体解るだろうから説明は省くぞ。まずは直近で起きた佐野殺しに関して、今しがた刑事部から最新のネタを仕入れてきた」

 ボスの話によると、佐野渉の死因は頭蓋骨骨折による脳挫傷。遺体の後頭部に強烈な力で殴打された痕跡が認められたという。死亡推定時刻は、現場に臨場した検視官の見立てと大きく変わらず、三十日の深夜零時を起点に前後一時間以内。後頭部の傷以外に目立った外傷や争った形跡はなく、背後から鈍器等で殴られ殺害されたと考えて差し支えない。

 佐野を死に至らしめた凶器は見つかっておらず、犯人が回収または遺棄したと思われる。また、遺体発見現場は一面に砂利が敷き詰められた墓地、さらに内海が倒れていた場所はコンクリート舗装された公道だ。故に、犯人のゲソ痕も残念ながら検出されていない。

 佐野の自宅アパートから現場までの道筋には、数台の監視カメラが設置されていた。そこには、夜道を歩く佐野とその後を追う内海の姿がしっかりと記録されている。だが肝心の犯行現場付近にはカメラがなく、また時間が時間なだけに有力な目撃情報も挙がっていない。殺人の決定的瞬間を示す証拠は今のところ皆無である。

 内海の爪に残された襲撃者の皮膚片、さらに彼女の首にうっすらと残っていた指の跡については科捜研——科学捜査研究所の略称——が解析を進めている。皮膚片からDNAが特定できれば警察のデータベースと照合して前科を調べられるし、指の跡からは犯人の性別やおよその体格などの個人情報が導き出せる。物証が少ない事件において、科学的証拠は捜査の命運を左右する貴重な手がかりだ。

「今回の事件における最重要点は、佐野渉が深夜の墓地で誰かと密会していたことだ。内海によれば、佐野は墓地へ向かう途中にどこかへ電話をかけていたらしい。だが、遺留品の中に携帯電話の類は見当たらなかった」

「十中八九、犯人が奪ったんだろう。だとすると、佐野の電話相手イコール殺しの犯人かもしれねえな」

 落合の言葉に、三人も同意するように頷く。田端警部補は眼鏡を外すと、鼻あてが触れていた部分を指で揉みながら呟いた。

「佐野に関する内海さんたちの報告書に先ほど目を通しましたが、公安が監視を始めた二十三日から昨夜まで、佐野が外部で誰かと接触した記録はありませんでした。アパートの玄関に簡易的な防犯対策を施していた点から見ても、警察の捜査を警戒していたと言えます。そんな彼がここにきて行動を起こした……彼の周囲で何か非常事態が発生し、動かざるを得なかったと考えられます。電話ではなく、対面で話さなければならないほどの事態が」

「あるいは、佐野を殺害する目的で犯人が呼び出したか、ですね」

 補足した時也に、パーマ男が「俺も新宮の仮説に一票」と片手を挙げる。

「いくら緊急事態とはいえ、佐野は警察の監視を知っていたかもしれねえんだろ? そんなリスキーな状況で自ら外出したとは思えねえ。誰かに来いって命じられた線が濃厚だ。しかも、おいそれとは逆らえない人物に」

 瞬時、金澤市議会議員の顔が脳裏を掠めた。だがすぐに「そんなはずはない」と己の妄想を打ち消す。佐野渉が金澤氏と接触した痕跡は何ひとつないし、二人はいわば捕食者と被捕食者の関係だ。氏が自分を狙う者との面会に応じる訳がない。

「で、田端が佐野のアパートで見つけた興味深い事実とやらを話してくれよ。さっきからそれを知りたくてウズウズしているんだ」

 パイプ椅子に座った落合が、長い足を貧乏揺すりしている。知的な雰囲気を湛えた警部補は眼鏡をかけ直すと、机上の資料に手を伸ばした。

「結論から申しますと、佐野の自宅アパートからはAPARとの関係を裏付ける物証が複数発見されました。まず、APAR会員の印として配付されるピンバッジ。それから、APARの活動報告等がまとめられた会報やパンフレットといった紙資料。さらに、デモ活動で使われるプラカードが大量に保管されていました」

「パソコンやその他の電子デバイスはなかったのか」

「ノートパソコンが残されていました。流石に本体を持ち帰るわけにはいかなかったので、データをUSBメモリにコピーして現在解析班に回しています」

「刑事部が知ったら怒り狂うだろうな」

 愉快そうに笑う落合とは反対に、田端は「ただ」と顔を曇らせる。

「引っかかる点が二つほど……まず、例の枯れ草による防犯対策です。私が佐野のアパートを訪れたとき、玄関の扉に枯れ草は挟まっていませんでした。扉を開けてすぐのところにある土間部分に、数枚の枯れ草が落ちていたんです。次に、先ほど話したノートパソコンですが、パスワードが設定されていませんでした」

「おいおい、そりゃ明らかに怪しいだろ。警察の存在を勘付いていた奴が、よりにもよってパソコンにロックをかけていないなんて」

「私も最初は罠かと思いウイルスの虞がないかざっと調べてみましたが、それらしい形跡はなくデータも安全に移せました。ここに来る直前に解析班へ確認しましたが、今のところ特に異常もなくデータ解析が進められているようです」

「となると、考えられる可能性はひとつですね」

 落合と田端が、同じタイミングで時也に顔を向ける。

「田端係長が佐野の部屋を捜索するより前に、何者かが先回りして侵入した。枯れ草の簡易警報装置が解除されていた点から見ても明白でしょう。部屋の鍵は予め複製しておいたのかもしれません。そして、パソコンを調べられてもいいようにデータの消去や改竄などを済ませてわざとロックを解除した」

「それは、つまり」

 言いかけた田端に目配せし、時也は言葉の先を引き継いだ。

「侵入者が堂々と佐野の部屋に突入できたのは、彼が生きてアパートに戻ることはないと知っていたから——つまり、侵入者は佐野殺害の張本人か、佐野を後追いして内海を襲撃した人物と同一かもしれません」



「けどよ、そうなると益々話が解らなくなるぜ」

 落合巡査部長が、再び後輩の推理に異を唱える。

「現状で佐野殺しの容疑者として最も近しいのがAPARの連中だ。殺害の動機は、組織内での仲間割れとかまあ何でもいいだろう。気に食わないのは、佐野のアパートにAPARとの繋がりを示す痕跡が残されていた点だ。新宮の仮説を採用するなら、田端の前にアパートへ侵入した人物もおそらくAPARの一員だろう。ならば、パソコンのデータだけじゃなくAPARに関するその他諸々の証拠品も処分すべきじゃないのか? 佐野の遺体が発見されたら、アパートに警察の捜査が入ることは当然予想できる。にも関わらず、ピンバッジやらパンフレットやらは手付かずだった。奴らにとって一番面倒な事態は、警察サツの捜査が組織に及ぶことだ。俺がAPARのメンバーなら、それだけは真っ先に回避しようと考えるが」

「佐野は十六日、無許可のデモ活動に参加していたとして戸羽署で調書を取られています。その時点でAPARのメンバーだと警察側に知られていましたから、今更隠す必要もないと判断したのでは」

「そういや、田端が戸羽署にいたタイミングで佐野たちが拘束されたって話だったな……ん、ちょっと待てよ」

 パーマ頭を掻きむしっていた落合が、不意に「そうだ!」と叫んだ。元々人一倍の声量を誇る男が大声を出すものだから、時也も田端もびくりと身を竦ませる。

「声のボリュームを考えてくださいよ、落合部長。鼓膜がどうかなりそうです」

「ああ、悪い悪い。肝心な存在をすっかり忘れていた……カメラだよ、カメラ」

「監視カメラですか」

「そうだよ。内海は佐野のアパートの向かいに監視カメラを仕込んでいたんだろ」

 落合の言わんとするところを、時也は瞬時に察した。

「そうか。内海は佐野を含めた人の出入りを確認するため、アパートの出入り口が映るポイントにカメラを設置していた。それに侵入者の姿が記録されているかもしれません」

 侵入者の姿を確認できれば、佐野殺しの事件は一歩前進する。押し寄せる期待に自ずと声が弾んだが、その高揚感は田端警部補の一声で瞬く間に消え去った。

「盛り上がっているところに水を差すようですが、その監視カメラは私が見つけたとき既に取り外されていましたよ。犯人が踏み潰したのか、ひしゃげた無惨な有様で設置場所である倉庫の片隅に落ちていました」

 時也と落合は互いに顔を見合わせ、同時にため息を吐く。部下たちの会話を黙って聞いていたボスが重々しい声で口を挟んだ。

「佐野殺しの犯人か内海を襲撃した人物がカメラの存在を知っていたとすれば、内海の動きが佐野側に漏れているかもしれない。それはイコール、俺たちの動向が対象に筒抜けになっているということだ」

「内海がそんなヘマをするとは思えねえけどな……あるいは、別の理由で相手側に情報が流れていたのか」

 会議室内の空気が瞬時に張り詰める。この場にいる全員が——発言者である落合も含めて——予測していた最悪の事態だ。その証拠に「まさか、そんなはずは」と口から出た時也の声はひどく掠れていたし、田端は動揺を隠すかのようにパーマ頭から顔を背けた。爆弾発言をかました本人はというと、パイプ椅子に深々と座って天井に視線を泳がせている。空っぽの容器を鉛で少しずつ満たしていくような、重苦しい沈黙が会議室に垂れ込み始めた。

「内海の行動を対象が知っていた理由なら、いくらでも仮説は立てられる」

 暗雲を薙ぎ払うような鋭い声。チームリーダーがパイプ椅子から立ち上がり、仁王立ちになって三人を見回した。

「たとえば、内輪での揉め事があったのなら仲間内の誰かが佐野の行動を監視していたのかもしれない。その過程で内海の存在を偶然的に知った可能性は充分にあり得る。あるいは、戸羽署での騒動は警察の動きを炙り出すための作戦だった線もある。敢えて警察の監視対象に入り、逆にこちらの動向を探ろうとした。はたまた、本来達成したい計画から警察の目を逸らすために佐野が囮役として利用された」

「たしかに、身内に内通者がいると考えるのは先走りしていますね。安易にスパイ説を通してしまうと捜査に混乱が生じかねない。それこそ相手の思う壺です」

 警部補の声にも冷静さが戻りつつあった。落合は組んでいた腕を解くと椅子から身を起こし、

「すまねえな、さっきのは余計な一言だった」

 苦笑いを浮かべながらパーマ頭を掻く。決まりが悪そうな部下に、ボスは「謝る必要はない」と穏やかな眼差しを向けた。

「何らかの理由によってこちらの動きが対象に知られたかもしれない。これは現状で最も考えられる事態だ。喫緊の課題として、対象の詳細な動きを把握するとともに彼らが警察の動向をどこまで掌握しているのか探る必要がある」

 三人の会話を黙って聞きながら、時也は僅かに表情が硬いボスの横顔をじっと眺めていた。

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