第19話 衝動と冷静の間


 会議室を出た時也は、数メートル先を行く上司に声をかけた。

「ボス! 少しだけお時間をいただけますか」

 東海林警部は歩幅を緩めながら、横に並んだ部下を一瞥する。

「この後に会議を控えているんだ。五分以内で済ませてくれ」

「充分な時間です」

 四人で捜査会議をした部屋とは別の会議室に滑り込む。余計な前置きもせず、時也はずばりと本題を切り出した。

「金澤氏の警護班にいる滝野から報告が上がっていると思うのですが」

「ああ。銀杏ヶ丘での警護中に男子トイレで聞いた電話の件だな」

「そうです。ボスはその報告内容についてどうお考えですか」

「どう、とは?」

「単刀直入に言います。金澤氏が一連の事件に何らかの形で関与しているのではないか、と考えているのではありませんか。命を狙われる側ではなく、事件を起こしている犯人側として」

 一呼吸分の間を置いてから、東海林警部は小さく肩を竦める。

「それはまた、随分と突飛な発想だな……そう考える根拠は」

「徳光仁殺しが起きた次の日、金澤氏の自宅に刑事課の捜査員が訪れました。徳光氏との関係や事件当時のアリバイなどの定型的な聴取だけでその日は引き下がりましたが、金澤氏は目に見えて動揺していました。そして次の日には、滝野が聞いた意味深な電話……徳光社長の事件以降、金澤氏の様子は明らかに以前とは変わっています。彼が単なる被害者の立場であれば、こんな不可解な言動をするはずがありません」

「だが、もし金澤氏が市議会議員の失踪事件に関わっているとすれば、何故自ら警察に助けを求めたんだ。犯人側の心理としてそちらのほうが理解できない」

「それこそ、先ほどボスが指摘した可能性が当てはまりませんか。金澤氏は、警察の捜査を撹乱する目眩まし役なのだと。市議会議員の失踪は、犯人の真の目的から警察の目を逸らすためのカムフラージュだった」

「犯人の真の目的とは?」

「そこを断定するための証拠はまだ不十分です。ですが、徳光社長の死は目的達成のための第一段階であると考えられます」

「やはり、立浜ネクストワールド絡みか」

「事件を構成する重要な要素ピースの一つであることは確かでしょう。それから、APARとアーステクノロジー研究所。この二つも真相解明に欠かせない一役を担っていると思われます」

 そこまで言って、ふと上司の表情に目を留めた。〈睨みのショウジ〉の異名に相応しい鋭い眼差しは、部下から逸れて後方の壁に注がれている。妙に居心地の悪い沈黙が漂う中、時也の胸裡にある嫌な予感が浮かび上がった。

「もしかして……俺たちは、都合良く利用されていたんですか」

 唇を真一文字に結んだまま、東海林警部は時也にゆっくりと視線を移す。無言の間を肯定と受け取った瞬間、鼓動が俄かに早まった。

「市議会議員の失踪が発生した時点では、事件か故意の失踪か、事件であれば絡んでいるのが右左翼か新組織か、何も結論づけられなかった。だが公安二課や三課は、右左翼の関与が曖昧な状態では動けないと主張したのではないですか。そこで一課に白羽の矢が立った。直近で起きた公安絡みの事案といえばゾディアック団事件だし、殺しの主犯は依然として逃走中です。もしかすると、議員失踪にも一枚噛んでいるかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら一課に初動捜査を任せた。

 ところが、議員の失踪に加えて関係者が殺される事態に発展した。徳光仁と佐野渉、二件の殺人が発生した時点で立浜ネクストワールドが一連の渦中にあることは明白です。上層部はここでようやく、本件にAPARが関与していると確信を持てたのではありませんか」

 内海巡査部長の襲撃事件以降、日に日に険しさを増す上司の表情が気がかりだった。おそらく、今後の捜査を公安二課へ引き継ぐように下命されたのだ。APARの捜査が決定事項になれば、右翼組織を担当する二課の出番になる。一課には、ゾディアック団の調査に戻るように打診があったのかもしれない。時也たちはここでお払い箱というわけだ。

 だが、東海林警部の様子を窺う限りでは上からの命に食い下がっているのだろう。たとえ議員失踪や殺人事件がAPARの仕業であったとしても、新組織が無関係とは限らない。であるならば、いっそ一課と二課の合同捜査本部を立ち上げるべきだ——熱っぽい口調で上へ掛け合うボスの姿を脳裏に浮かべながら、時也は返事を待つ。

「察しの良い部下を持つのも困りものだな」

 その一言と、観念したような笑みが答えだった。腕時計に目を落とした東海林警部は「会議に間に合わない」と短く付け加えて部屋を出る。このまま上司の後を追いかけて、幹部連中に直談判してやろうか……そんな衝動を抑えながら、時也は短く舌打ちした。



 公安課室を訪れたとき、出入り口で若い男とすれ違った。相手が扉の影から急に飛び出したため肩がぶつかりそうになったが、寸でのところで躱す。グレーの細身のスーツを着こなした男は「すみません」と早口に謝り、目も合わせず廊下に出ようとした。その横顔に見覚えがあった時也は、咄嗟に男の左腕を掴む。

「ちょっといいかな、君」

 身長は時也よりやや高いくらいだろうか。伸びかけた前髪が風に煽られたかのように乱れている。切れ長の目にしっかり通った鼻筋が男前な印象を与えるが、彼が記憶に残っていたのは顔立ちの良さが理由ではない。

「な、何ですかいきなり」

 放たれた言葉に関西のイントネーションが混じっている。男は一歩後ろに下がろうとしたが、そのまま彼の腕を引っ張って廊下の端まで連れ出した。

「君、一課の内海部長と組んで佐野渉を張っていた捜査員だよね」

 関西弁の青年はわかりやすく顔色を変え、「だったら何ですか」と掴まれた腕を上下に動かす。時也は相手の動きを腕一本で封じつつ、涼しげな一重の目を真っ直ぐ見据えた。

「なら知っているはずだ。昨晩、彼女が何者かに襲撃された」

「それは……そういうあなたは誰ですか。公安課の部屋に堂々と入ろうとしたくらいやから、ハムの人間なんでしょうけど」

「察しの通りだよ。彼女が襲われた事件と関連する別事案を扱っている」

「佐野殺しを追っているんですか」

「広義で言えばそれも含まれるかもな。それで、内海の件について何か知っていれば教えてほしいんだ」

「いくら関連する事件を捜査しているからって、そう簡単に教えられません。もしあなたが佐野の事件を調べているのなら、ハムの中でも二課や三課の人間かもしれへんでしょう。同じハムといっても、課の境界線を越えれば身内の情報を易々と開示できへんことはあなたも解っているはずです」

「つまり、君自身は公安一課の人間だと認めるわけだね」

 一瞬の間が空き、青年は「しまった」と言いたげに顔を顰めた。時也はふっと手の力を抜くと、掴んだままだった相手の腕を解放する。

「安心しろ、と言っていいのかはわからないが、俺も公安一課の一員だよ。内海とは一緒に仕事をしたこともあってね、実は病院に見舞いに行ったが追い返されてしまったんだ。彼女の容態も心配だし何があったか気になっているが、誰に訊いてもはぐらかされるばかりで埒が明かない。そこに偶然、君が通りかかったわけだ」

「そう、やったんですか」

 青年は少しだけ同情するように表情を和らげる。時也はにこりと微笑むと、

「すまないね、つい乱暴な手段に出てしまった……紹介が遅れたけど、公安一課の新宮だ」

 時也が差し出した右手を青年はおずおずと握り返す。形ばかりの握手を交わしてから、相手は「一課の町田です」と簡潔に名乗った。

「あの、新宮さんは内海部長の上司なんですか」

「なぜそう思う?」

「彼女を呼び捨てにしているから」

「同期でも苗字呼びくらいするだろう」

「それはそうですけど……あ、内海部長と仕事をしたっていうのなら、東海林補佐をご存知なのでは」

 ご存知も何も直属の上司だよ——言いかけて、言葉を飲み込む。

「勿論だ。過去の捜査でも何度か世話になっているからね」

「せやったら、東海林補佐に事情を尋ねてみては? 佐野の作業については、俺らは補佐から指示をもらっていたんです」

 そこまで話したところで、ようやくピンときた。

「もしかして、内海が襲撃されたときに電話を繋いでいた捜査員というのは君か」

「あ、そこは知ってはるんですね」

 無意識なのだろうが、その一言が妙に皮肉っぽく聞こえて小さな苛立ちを覚える。胸の裡を悟られぬように笑顔を浮かべたまま、

「ちょっと小耳に挟んでね……しかし、彼女はどうして電話を繋げたまま佐野の尾行を続けたんだろうか」

「内海部長は、保険や言うてましたよ」

「保険?」

「万一自分の身に何か起きたとき、ハムがいち早く状況を確認できるようにって配慮やないですかね。ほんまは連絡を受けた時点で俺も現場に駆けつけられたら良かったんですけど、その時間は自宅で眠っていましたし、応援を呼ぶより先に事件が発生してしまったので」

 言い訳がましいと自分でも解っているのか、町田はバツが悪そうに頭を掻く。時也も彼を責めるつもりは毛頭ないため、「そうだったのか」と呟くだけに留めた。

「内海を襲った人物の声や会話は聞いていないのか」

「そんなん冷静に耳を攲てている場合やありません。急にスマホを落としたような音がしたと思ったら、内海部長の呻き声がして。『ああ、彼女が言うた保険はこれやったんや』って、場違いにも感心しましたよ。それからすぐ東海林補佐に報告を入れて、現場へ急行です。俺が現着した頃には犯人はとっくに逃亡していて、現場はパトカーと救急車と捜査員、それに物好きな野次馬でごった返していました」

「その中に、怪しい人物や不審な言動をしている者はいなかったのか」

「もちろん野次馬連中は注意して見ていましたよ。けど、センサーに引っかかる人間はいてませんでした。東海林補佐もちょっとだけ現場に顔を出しましたけど、特に何も言わず病院へ向かいましたし」

 時也がボスから一報を受けたタイミングだ。これで襲撃事件のおよその流れは把握できたわけだが、一つだけ拭えない疑問が残る。

「佐野の尾行を始めた段階で、どうして内海は真っ先に東海林補佐へ報告しなかったんだろうな」

「あ、もしかして俺じゃ頼りないと思てますか」

「そういう意味じゃない。補佐に直接指示を仰いでいれば、より安全策を施すことができたかもしれないだろう」

「俺もよう判りませんけど……多分、焦っていたんやないですか」

「焦っていた?」

「明らかに犯人の一味やと思われる人物が目の前にいるのに、手も足も出せず歯痒い状態だったわけですよ。そこに千載一遇のチャンスが舞い込んだら、内海部長やなくてもそのチャンスに飛びつきたくなります」

 含みのある物言いに、時也は何も言い返せないまま沈黙するしかなかった。

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