左側からキス

織祈

本文

「うわ!」


左手に持っていたホットカフェオレをぶちまけながら叫んだ。

うしろを振り向くと目をまんまるにさせた彼氏の姿が映った。


「びっくりした。そんなに驚く?」


わたしの左腕をぽん、と叩いた手をまだ乗せたままそう言った。お互い驚きすぎて少し時間が止まったようだ。


「ううん、ごめん。どうしたの?」


ここは駅前、今はデートの最中だ。隣を歩いていたはずの彼、もとい、透がなぜうしろにいるのか。


「スイカのチャージしたくて。凛、どんどん進むんだもん。」


透の左手はすでに彼のバッグの中を漁っており、困ったようにはにかんだ。彼のこういう仕草はどうしても、かわいいと思わざるをえない。それは彼が単にわたしの2つ歳下だからという理由だけではないだろう。


「ごめんごめん。急げばひとつ前に乗れるかなって思って。」


「そんな急がなくて大丈夫だよ。」


チャージしてくる、と券売機に向かう背中を見送って、人混みから外れ道の少し端に寄る。


さっき透に叩かれた左腕をそっと撫でて、券売機の前に並んでいる透をじっと見た。夕暮れに差し掛かった駅前は、休日で人が多い。ガヤガヤと耳に入ってくる音に頭がくらくらする。


大声で笑う男子学生たちの声、道路を走る車のエンジン音、縦横無尽に走る自転車のカラカラと鳴く車輪、信号無視した歩行者を注意する警察官の声、酔っ払いの怒鳴り声。


視界が、霞む。


なにをしていたんだっけ。

今日は映画を見て、見て、それで、坂を走って、坂を走って?


「お姉さん、今暇?」


声を掛けられハッと顔を上げると透がいた。心臓がドキドキと動いた。透はそのまま、いたずらに成功したような顔をして、お待たせと言う。そう、ただのいたずら。


「本当のキャッチかと思って警戒しちゃった。」


「ここら辺にはいないでしょ。」


こんないたずらはやめてほしい。でも、わざわざ空気を壊してまで言うことではないので笑っておいた。


今日は映画を見て、ごはんを食べた。このあと透の家の近くまで戻ったらスーパーに寄って一緒に透の家に帰る。明日の朝ごはんは透が作ってくれる。


「そういえば、さっき腕ごめん。痛かった?」


電車に揺られているとき、唐突に透が言った。いじってたスマホから目線を上げ透を見る。申し訳なさそうにしているというよりは、怒られるのに怯えてる子供のようだ。わたしがずっと無言だったから怒っていると思ったのだろうか。


「大丈夫だよ。」


そう答えたあと、少し悩んだ。悩んで、やっぱりだめだなと思った。


「言ってなかったけど、実は左腕手術してるの。だから痛くはないんだけど過敏になってて。わたしこそびっくりしすぎだったよね、ごめん。」


「え、そうなんだ。4年も一緒にいるのに知らなかった。結構前?」


「そうだね。わざわざ言うことでもないかなって思って言ってなかった。」


「まぁ、確かにね。もう痛くない?」


「うん。もう平気。でも急に左腕触ったりするのはやめてほしいかも。」


分かったと言って透は目線を窓の外に移した。つられて窓の外を見る。電車は大きな街を過ぎて住宅街へと進んでいる。遠くに高速道路が見えた。

車のテールランプがちらちらと揺れる。電車からだと車道がよく見える。

空はもう黒くなっていた。ここからでは星は見えない。

しばらくして、ターミナル駅に着いて人が交錯する。隣に座る透はうとうととしているようで、首を傾けてはガバっと起き、それを繰り返していた。


「透、眠いなら寝てていいよ、起こすから」


ありがと〜なんて小さな声で言ったかと思うと、たちまちスゥスゥと寝息が聞こえてきた。

右肩に重みを感じる。透のお気に入りの香水が鼻をくすぐった。この香りを街で嗅ぐと安心してしまう、透の香りだ。

愛しい透。



ねぇ透、あの日なんで電話に出なかったの。



あの日わたしは走っていた。

走って走って、ぼろぼろで、それでも走っていた。


深夜2時。


ターミナル駅から20分ほど歩いた国道沿いの大きな歩道。人通りはなく、わたしはイヤホンから流れてくる音楽に耳を傾けながら歩いていた。


些細なことで透と喧嘩した。ちょっとしたすれ違いだった。

ラインでひたすら文句を言って、一方的に「しばらくラインしないで」と告げた。

ヤケクソで友達と飲んだ帰り、終電がなくなってしまいタクシーで帰ろうとしたのだがなかなか捕まらなかった。諦めて少し歩こうと思ったが調べたら家まで歩いて1時間ちょっとだった。お酒を飲んだ帰り道、夏の夜風が心地好く、明日は何も予定がない。

酔いを冷ましながら音楽と一緒にひたすら歩くのもいいんじゃないかと思った。

そう思ってしまった。


先の赤信号で止まっている人影が見えた。

大学生くらいの3人組だった。真ん中にピンクのシャツを着た派手な人がいたから印象に残った。

少し距離を取って信号待ちをする。

この人たちもお酒を飲んでいるようだった。とても陽気に、それはそれは大きな声で笑うものだから、思わずイヤホンのボリュームを上げた。しばらくスマホをいじっていると信号が青になり、わたしの方が歩くのが遅かったため距離ができた。

わたしはイヤホンのボリュームを下げなかった。

少し歩くとコンビニが見えた。なにか飲み物を買おうか、と視線を向けたとき、ギクッとした。

さっきの人たちがコンビニ前にたむろしていた。


一人と目が合った。


本能が逃げろと言った。

経験したことはない。でも脳が言っている。逃げろと。

そのままコンビニに入ればよかったのに。

足早に前を通り過ぎて少し安心する。絡まれなかった。胸を撫で下ろして、タクシーを捕まえようと決めた。


少し歩みを遅くしたとき、うしろから叫び声が聞こえた。なんと言っているかは分からない。なにかを叫んでいる。

イヤホンのボリュームを少し下げた。


「おねーさーん!ひとりー!?」


「おい絡むなよ!」


ゲラゲラと笑う声が耳をついた。さっきの3人組だ。怖くて振り返れない。ここで走ったら煽ってしまうだろうか。もしかしてわたし以外にも「おねーさん」がいるのではないか。

大通りのそばで路地もない。すぐそこをたくさんの車が通っている。街灯だってあるしきっと監視カメラだってある。そうだ、さっきコンビニだってあったんだから人だって歩いているはず。


なにもないだろう。

なにもない。

怖がるな。

反応しちゃ、だめだ。


「遊ぼうよ。」


突然左腕を掴まれた。酔っているのか力加減がなくて痛い。


「いやです。やめてください。」


瞬間、なにが起きたか分からなかった。

左頬にキスをされていた。

全身が震え、気持ち悪さか恐怖か分からない感情で脳が支配された。


「やめて!」


全力で振り払って走り出した。全力で走った。誰か気づいてくれと思いながらとにかく走った。なにもかも全力だった。

うしろではピンクシャツが追いかけてきて、ほかの2人も来ているようだった。

赤信号だったが止まれるわけがなかった。轢かれてもいい。走り続けなきゃ。


「赤信号ー止まってねー。」


国道を挟んだ反対側から拡声器の声が聞こえてきた。息苦しい中、右を見ると交番があった。

助かった、わたしが見えてるならうしろから来る3人も見えているはず。

そう思ってその警察官を見るともうこちらを見ていなかった。


なんで?


目の前を何台もの車が走り去って行く。

走りながら息苦しい中、意味が分からなかった。混乱した。

国道の上には高速道路があり、空は見えない。

月も星もない、真っ黒な視界でオレンジのライトがぐわんぐわんと回った。


それでも走り続ける。

汗が、息が、足が、もう止まりたい。でも絶対に止まるな。足が千切れても走れ。


足がもつれてサンダルが脱げた。ついでにイヤホンも片方落っこちた。

自分でも信じられないスピードで走ってたのか、数歩行ってからサンダルが脱げたことに気がついた。

振り返るとピンクシャツは随分遠くをぷらぷら歩いてるように見えた。飽きてくれた。


そしてわたしは戻ってしまった。


サンダルを取りに、うしろに戻ってしまった。


わたしがサンダルを取るのが早かった。少しだけイヤホンを探すように足元に目配せをすると空いてる左腕を掴まれた。


ピンクのシャツが笑ってた。


うしろからあとの2人が追いついてくるのが見える。一瞬で色んな想像が頭を巡った。

大通りだ。車だってたくさん通っている。人通りは他にないけれど、さっき交番だってあった。

こんな、冷たい、痛い、固い地面の上で、わたしは今から。


「可愛いと思ったけど近くで見たらブスじゃん。」


侮辱の言葉に腹を立てる暇はなかった。

手が痛い。手を離して。折れてしまう。そんな方向に曲げないで。お願い、触らないで。やめて、白いスカートなの。引きづらないで、足が擦れて痛い。冷たい。嫌だ、嫌だ。

気持ち悪い。

痛い、痛い、冷たいのに熱い。足も背中も腕もゴツゴツとしたなにかに当たる。お願い、離れて、気持ちが悪い。

コンクリートは冷たいのに、熱い何かが体を這う。足を、足だ。足だ。やめて、お願い、気持ち悪い。

触らないで。



「お前もういいだろ、やばいって。」


うしろの2人が追いついた。ピンクのシャツの向こうに長身の丸刈りが見えた。黒いTシャツを着ている。ピンクのシャツがうしろを振り返った。

手が、離れた。


全力で手足を振り回して立ち上がった。右足はサンダルで左足は裸足で。もう絶対に戻らないと決めてとにかく走った。冷たかった足が燃えるように熱くなった。ジンジンして熱かった。カバンからスマホを取り出してラインを開く。

一番上に固定してある透に電話する。出て、出て、と思いながら何度も電話した。

透、助けて。


「透助けて!!」


透は出なかった。


“しばらくラインしないで”


これは、なにかの罰なのか。


それでもわたしは走るのをやめなかった。もうあの3人組が追って来てるかどうかは分からない。ただ次止まったら、もうわたしはわたしでいれなくなると確信していた。

警察も、透も、誰も助けてくれない。

なにも考えられない。起こっている全てに理解ができない。頭が回らない。

全身が痛くて呼吸は苦しくて涙と鼻水で顔はぐしゃぐしゃだ。

それでも走った。


少し先の赤信号で止まるタクシーから人が降りてくるのが見えた。あのタクシーに絶対乗る。足が2度と使えなくなってもいい。ぐちゃぐちゃになってもいい。走れ。


「乗ります!」


閉まりかかったドアを無理矢理開けて叫んだ。運転手の顔は覚えていない。

そこからもうなにも覚えていない。

どうやって帰ったのか。帰ったあと何があったのか。


覚えているのは泣き喚きながらシャワーを浴びるわたしに父親が言った「うるせぇぞ」だけだった。


ほかは本当に何も、覚えてない。


そうして次の日起きたら、声が出なくなっていた。


声をどう出したらいいか分からなくなっていた。

わたしの助けを求める声は、屈辱に咽び泣く声は、うるさい。


どんな言葉よりも、どんな音よりもずっと父親の怒声が耳に残った。

あの日わたしはどんな音楽を聞いてどんな言葉を言われたんだっけ。


事実を文字にするのは酷く辛く億劫で、病院には行ったものの警察には行けなかった。

助けてくれないことを知っていたから。

話せない状態で行くのは無謀に思えた。


そもそも何から助かりたいのかもう分からなかった。

足の裏はぐしゃぐしゃだったが思うほど傷は深くなく、ただいつまでもジクジクと熱かった。

残ったのは声にならない悲しみ、悔しさ、恐怖、屈辱、人と接することができなくなってしまった自分、眠れなくなった夜、大量の睡眠薬。

言葉に出来ないほどの感情。


そして透からの「酔っ払ってたの?」という無慈悲なライン。

酔っ払ってたのはわたしじゃないよ。


なにも知らない透はわたしを叱る。それが正しいことであるように。わたしは諦めて謝る。もう正しいことは分からなかったから。


ごめん、ごめんなさい、ごめんなさい。


ごめんなさい。


真っ暗闇の中を、オレンジのライトが走っていく。



意識がだんだんと現在に戻ってくる。

電車は、降りる駅をとうに過ぎていた。わたしも寝入ってしまったようだ。左腕が燃えるように熱くなるのを感じて、自分が泣いていることに気がついた。


「凛?」


透が声をかけてくる。寝起きの声をしている。


「どうした?」


「なんでもない、夢を見たの。」


「夢くらいで泣くなよー。」


こうやって少しずつわたしを削っていく。

なにも返事をしないわたしを不思議そうに見てくる透の視線を感じて、少し悩んで、やっぱりだめだなと思った。


「透に聞いてもらいたい話がある。」


明日の朝、一緒にいれなくてもいい。

愛しい君よ、何も知らない君よ、


救ってくれなくていい。謝罪や同情もいらない。

ただわたしの真実を知って。


屈辱に塗れた夏の夜の冷たさを知って。


左側の消えない熱を、どうか、見て見ぬふりしないで。



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