やがては咲う徒桜
名々詩
やがては咲う徒桜。
記念すべき、と称するほどでは決してない。何かしら学びたいことがあるわけでもなく、ただただモラトリアムを享受したいがために進学した大学だ。時期が来たからそこを卒業するというだけ。それは当たり前、当然のこと。それだけなのだ。
そもそも私は昔からこういう式典が苦手だった。やたらと堅苦しくて、息が詰まってそのまま死んでしまうんじゃないかと思えた。涙を流して別れを惜しんだりするのも性に合わない。
しかして高校あたりで気づいたけれど、年齢を重ねるにつれてそういう人も割合的には減っていく。大学ともなればいないと言っても差し支えない。けれども、あの場に長時間滞在するのは、どうにも気が滅入る。というか疲れる。
私が会場を早々に去ったのはそんな理由からだ。
講堂を離れて、部室で窮屈なスーツから私服に着替えて一人図書館へ。誰もいないテラスでお茶を飲みながら空を眺める。季節柄に倣えば花曇り、とはいうけれども、桜はまだ咲いていないから実質ただの曇り。今は、どんな花の季節なんだろうか。
そういえばこの時期は例年曇りが多い気がする。気がするだけかもしれないけれど、すっきり晴れた空を眺めて卒業した記憶は、少なくとも私にはない。統計的なそれを調べたくなってきた。図書館だし、ちょうどいいかもしれない。
「先輩」
ぼんやり上を向く私を呼んだのは、後輩である馬酔木優月だった。手にはコーヒーの缶が二つ。一つは私のだろう。
「ゆず」
二つ年下の後輩は、なんだか、少し怒っている、ような。そんな面持ち。
どうしたの、と尋ねるよりも早く、優月は私の向かいの椅子に座る。恐る恐る手を差し出してみると、缶コーヒーを一つ渡してくれた。いい子だ。とりあえず浮かんだ疑問を口にする。
「あの、何か怒ってる?」
「そう見えますか?」
疑問に質問で返すのはずるいと思う。怒ってるように見えます、と率直に返事をするのはいくらか具合が悪い。
言い淀む私に、後輩は「怒ってませんけど」と前置き、コーヒーを一口飲んでから深い溜め息をついた。
「こんな大事な日なのに、普段と変わらないんですねって呆れてるんですよ」
「大事、なのかなあ」
せっかく貰った缶コーヒーすら持て余すくらいには、自身の卒業に意味を見出だせないでいる。いや、普通に来月から社会人ではあるし労働に勤しむ予定だけれど、進学を選択した頃から相も変わらず、それ自体に目的があるわけではない。今回に限って言えば、心残りもある。
人間って、もっと理由があって生きているものだと思っていたのだけれど、私にはそれがない。人間的に成長出来ていない、のかもしれない。そんな人の卒業が、本当に大事なことだと言えるのだろうか。
「何言ってるんですか、大事に決まってるでしょう」
私の思考全てを一蹴するように言って、呆れを通り越していよいよ訝しげな眼差しになってきた後輩を見つめる。可愛いなこの子という感情とは別に、言外に理由を話してほしいと思いを込めてみたところ、なんとなくは伝わったらしい。
「あなたは、たぶんああいうお堅い式典自体が苦手なんでしょうけど」
すごい、そんなこと話したこともないのに見透かされてる。
「卒業って区切りだし門出でしょう。大事にしてほしいですよ、後輩としては」
言い切ってから、ぐい、とコーヒーを一気に飲み干す。
「後輩として、なんだ」
「……意地の悪い人」
じとーっとこちらを睨んで膨れる後輩が愛らしくて頭を撫でると、「何なんですか」とさらに不満げ。言いつつも抵抗しないあたりは嫌ではないのだろう。
ああ、やっぱり、この人のことが好きだなあと心底思える。思って、しまう。決して口には出さないけれど、察しの良い子だから勘付いてはいるだろう。
気付いていても何も言わない彼女に、心からの敬意を表したい。
「改めて、ですが。卒業おめでとうございます」
「うん、ありがとう」
礼には礼を。先輩と後輩という関係ではあるけれど、年齢の上下に関わらずこの子とは対等な関係でいたい。
「……それで、あの」
「うん?」
どこか居たたまれなそうに視線をあちこちへやって、空になった缶をもて遊んだりして。なんでこの子、ちょっと恥ずかしそうにしてるんだろう。面白いからしばらく様子見。
「このあと、お時間はありますか」
まるで観念したかのように言って、私の目をじっと見つめてくる。
「うん」
気象庁のホームページでも眺めようかと思っていたけれど、優先度は著しく低い。
簡素な返事にぱっと輝く顔を見ると、天気がどうとかもうどうでもよくなってしまった。
「じゃあ卒業祝い、しましょう」
「祝ってくれるんだ?」
「当然です」
「……そっか」
愛おしい後輩の微笑みを前に、ほんの少し目を伏せる。ずき、と胸の奥が疼く。あるかどうかもわからない私の心が、優しく爪を立てたように痛む。
私にとって唯一の心残りは、優月の存在だった。大事な後輩を残してここを去ってしまうことが、口惜しくて仕方ない。自分がこうも他人に情愛を抱くなんて、今まで想像もしなかった。
「和先輩」
名前を呼ばれて反射的に目を開けば、涙が出そうになるほど優しく微笑む優月がいて。
「そんなに、寂しそうな顔しないで」
意趣返しだろうか、今度は私が撫でられる番だった。子どもをあやすような慈愛に満ちた眼差しに、思わず顔から火が出そうだ。咄嗟に顔を背けたけれど、「なんでそこで照れるんですか」と笑われてしまい私の完敗。
「ぐぬぬ」と呻く先輩と、構わず撫でくり回す後輩。どっちが年上なんだかわからなくなって、どちらともなく笑い出していて。
「私、大丈夫ですよ」
一頻り笑ってから、優月は言った。
「先輩と違って友だち多いですし」
「いや、まあ、そうなんだけど」
取り立てて私の交友関係の狭さを揶揄する必要はなかったと思うんだけど。
思いも寄らない、というか本人も意図していないであろう口撃にダメージを受けていると、優月は気にも止めない様子で「それに」と口にして。
「ずっと一緒にいられるわけじゃ、ないですから」
「…………」
たぶん、誰かに告げられる言葉でこんなにも心が揺さぶられることは、今後ないだろうと他人ごとみたいに思った。
きっと、優月の言うことは正しい。私たちはたったの二年しか共に過ごしていない。それは、これからも嫌になるくらい続く人生のなかでは瞬きみたいに短い時間。
私にとっても優月にとっても、お互いが存在しない時間の方を多く積み重ねてここまで生きてきている。それは疑いようもない事実だ。ほんの僅かな間に重なっただけの、いわば偶然の産物。
理解は出来る。だけど、それでも。それが正しかったとしても。
「そうだね」
──何もかも全て飲み込んで、無理やり自分を納得させる。わかっていたこと。わかっていて、私は今まで優月と一緒に過ごしてきた。
「お酒でも飲みに行こうか」
隠し通せる、とは思っていない。私が抱いた感情の全てはまるで滂沱の如く溢れてしまいそうなほどに集積されている。
今浮かべたみたいな、薄っぺらい笑顔の仮面で誤魔化せるような代物では決してない。
「……飲めないじゃないですか、お互いに」
それに気づかないふりをしてくれるのも、この子が持つ優しさの証左だ。ああ、本当に。
こういうところも、たまらなく愛おしい。
「飲めなくても、酔いたくなる時ってあると思わない?」
「ふふ、嫌ですよ。酔っ払いの介抱は」
言いつつ、優月はスマホを触りはじめた。たぶん、ちょうど良さそうなお店を調べてくれているのだろう。
春曇りの空を、私は見上げた。
そっと風が吹いて、ふわりと何かの薫りが鼻につく。後輩の香水かと思ったけれど、普段彼女が使っているものの香りとは異なる。
たぶん、花の匂いな気がする。桜はまだ咲いてないけれど、淡くて温かい、優しい朱鷺色の花風。
私の花は、いつかは開く夢見草か、それとも実を結ばない徒花か。
答えはきっと、春風だけが知っている。
やがては咲う徒桜 名々詩 @echo
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