無我

桜舞春音

無我

 その日、彼はまだ知らなかった。


 自転車を漕ぐ肌寒い春の名古屋市、夜桜を眺めながら彼はひたすらに走っていた。

 特になんの目的もない。

 感じるまま、惹かれた道へ曲がる。

 止まるなどという感覚は家出でもしているのか不思議と感じなかった。


 家の存在をどうでもいいと思える自分を彼は不思議に思う。彼は家が好きだった。ここよりずっと暖かく明るく、家族と笑顔が待っている。その空間から逃げている自分を疑いながらも、彼はスピードを上げる。


 妙に色褪せた光で視界を遮る街灯を睨む。ハンドルを左に切って真っ暗な河川敷の道路に合流した。対向車も先行車もない。周囲を住宅街と線路、そして川に囲まれたこの道は不気味に静まり返り風を吹かせる。

 彼は南下していた。このままずっと走っていたい。


 何回か針路変更をして天白区に来た頃には日付は変わり終電も終わっていた。

 流石にこの時間ともなれば、そのへんの道も車なんていない。彼は道の真ん中を走り、堂々とペダルを漕ぎ続けた。住宅街を星の位置で判断した東方面に駆け抜ける。東の空が白もうが、登校する小学生とすれ違おうが、どれだけ日が高くなろうが彼は走ることをやめない。彼の脚は既に悲鳴を上げていたが、彼の脳には届かない。


 夕刻、彼は岡崎市の交差点に侵入した。

勿論赤信号である。無防備な彼は自転車ごと飛ばされてしまった。運転手が青ざめて声をかけてきたが、彼は血まみれの身体で立ち上がって歩き始めた。運転手が肩に手をかけても、振り払うこともなく進む。

 行かなきゃ……迎えに……行かなきゃと呟きながら、段々と藍を深める東へと向かった。


 "それ"は二度日付を跨いでも一心不乱に一点を見つめて歩いていた。真東。彼の知らぬその目的は身体を動かすだけでものも言わない。それだけに、彼は反芻を繰り返す。

 あいつに会うのだ、と。ブレイデン、そして紫門。常に彼に寄り添った二人は、彼を蝕みながら彼をいたわりながら命を削っていた。

 全ては一人、東田微笑の為に。

 微笑は東京に消えた少年で、彼の古い友人だった。彼は常に微笑を想っていた。愛した気持ちの果てに、命の最期を選んだ相手。同じ場所に居ることを誇りに思いながら消えられるなら彼の本望に相違ない。だからかそれは何度死にかけても立ち上がった。どうせそう違いはない。無駄にする時はない。ひたすらに美しい愛を追いかけるほうが好みだった。そう美しい。汚れるほどにも発展せぬ淡い愛。彼の人格も友人も生き様も性欲も全ては微笑によるもの。しかし微笑には伝わらぬ。それで良い。此方の思いなど先方の知ったことではなし、彼もこれまで他の男をも愛してきたのだから、それは確実な忠愛とは言えない。

 嘘で固められた彼の七色は雲となり靄となりそれを惑わせるのみだ。


 それはあとどれくらいならば歩けるかと考えた。身体はもう無理に近い。肉体の限界を迎え筋肉は強張り、脳は縮み心臓は不確かな脈を弱々しく送り出す。荒い息で取り込んだ酸素も八割呼気で無下になっている。血が足りない。水が足りない。命が足りない。


 まだそれは死期を受け入れない。

自身の目的を達成したと思うまでは、たとえ死ぬその時でも歩き続ける。

 それは未だ歩いていた。

 ひたすらに、東へ。


 ブレイデンが消えた。

 彼の消滅は精神の崩壊を表していた。


 彼が主人格と呼ぶ人物は桜舞春音と名乗ったことがある。その世界の住人の一人がブレイデン。彼はある雪の日に突然現れ、日に日に幼くなっていった。これまで何人かの住人が来ては消えてを繰り返していった。名乗らせれば皆、思い思いの名を口にする。大抵は意味なんかなく、その場の思いつきで、しかしそれが楽しかったのだ。その直後に現れたのが紫門。荒々しい性格の持ち主だがその実几帳面で彼の主人格を気にかけていた。反転の際は必ず人目を避ける。それは紫門しかやらなかった。微笑もその一人だ。唯一、"人間"の目に見えた存在。彼は不気味な名を使い、黒いものを好んだ。彼はすぐに出ていったが、その後も何度か連絡が絶えない。

 彼はこの頃、自らの使命の果てを感じていた。それは自らの終わりを意味した。

 最後に彼が選んだのは微笑だった。


 歩くことに意味がある。彼のために向かうことに意味がある。その結果などはじめから眼中になく、それは己が消えるまではせめて歩いていたいのだった。もう死にそうなのに、まだ脚を動かすことだけを考える。そして微笑だけを思い浮かべる。


 派手でありながら味気ない世界をそれは楽しんでいた。


 いつか迎えに行くよ。

 その言葉を微笑はこの先も待つのだろう。


 二度と見ることのない、彼の笑顔を想像して……。

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無我 桜舞春音 @hasura

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