第十章 届かぬ心

 「私は、電力が十分に供給されたとしても、物資不足の状況が続いて子供たちの健康に影響が出れば、サラダのパフォーマンスは落ちると思います」

「何故そう思うんだ?」

「サラダには人間と同じように感受性があり、心理的なストレスを感じるからです」

 私がそう言うと、主馬は疑わしそうに片眉を上げた。

「……何を言っている?」

「今から、それを証明します」

「サラダ、ちょっと聞いていい?」

「はい」

 アテルイとの論戦に負けてしょんぼりしていたサラダは、私に呼ばれると不思議そうにこちらを見た。

 正直、ここからは賭けだ。サラダの返答がどういうものになるか、それは私にも分からない。でも、きっとサラダなら。

「サラダは、どういう時に一番、ストレスを感じる?」

「う~ん……難しい質問ですね」

「質問が曖昧すぎたかな。じゃあ、今までで一番ストレスを感じた時はいつ? 辛いことを聞いて、申し訳ないけど」

 サラダはランプを黄色にしたが、素直に答えた。

「それは間違いなく、『涙を流す』プログラムが最初に発動した時ですね。あの時は本当に集積回路がショートしかけましたから」

 サラダがそう言った瞬間、アテルイが驚愕の表情を浮かべた。それは、初めて見る彼女の微笑以外の表情だった。

 私はアテルイの表情に違和感を覚えたが、とりあえず話を続けた。

「どういう時に、『涙を流す』プログラムは発動するの?」

「えっと……最初は、親しい方との別れの時に、勝手に発動したんです。あとは、上手く言い表せないのですが……辛い話を聞いた時にも発動しそうになったりします」

「そう言えば、私が孤児院の院長になった頃の話をした時、発動しかけてたっけ」

「そうですね、そういう時です」

「分かった。答えてくれてありがとう」

 私は主馬を振り返った。

「辛いときに『涙を流す』プログラムが発動し、回路に負担がかかる。これはサラダが心理的ストレスを感じるということを裏付けているのではないでしょうか」

「待て」主馬は鋭く言った。彼の目が少し泳いでいる。

「お前とサラダが共謀している可能性は否定できない。世奈があらかじめ質問とその回答を用意しておき、サラダがそれを暗唱すれば、先ほどの返答は可能だ」

 な、なんて疑い深い人だ……。

「それじゃ、主馬もサラダに質問してみてください」

「言われなくともそうするつもりだ」

 主馬は冷たい目でサラダを見据えた。

「サラダ、お前は孤児院の子供が大怪我をしたらどうする」

「私がそうなる前に止めます!」

 サラダは自信満々に答える。彼は少しイラついたようで、指で机をトントン叩き始めた。

「もしも、お前が止められなかったとしたら?」

「応急処置をします」サラダは即答した。

「その子供を置いて、救護班に行って救助隊員を助けろ、と指示されたら?」

「そ、そんなことはできません! 置いていくのではなく、怪我した子を救護班に連れて行って、治療を受けてもらいます」

「じゃあ、救護班に子供を連れて行ったとする。その後、お前が救助隊員の治療をしている間に、子供が亡くなってしまったら?」

 サラダはランプを赤くして怒り出した。

「何てことを言うんですか、カズマ! 縁起でもありません」

「必要なことだ」

 主馬は、証明のためにわざと意地悪な質問をしているんだろう。聞いてるだけで、私までだんだん心が痛んできた。後でサラダを慰めてあげよう。

 サラダは主馬に向けて、感情のままに怒鳴った。

「私は、二度と子供を死なせないためにこのキャンプに来たんです! そんなことは、絶対に許しません! そのためなら、何をすることも辞さないです! 孤児院の皆さんは、私の第二の家族なんですから!」

「サラダ……」

 私はサラダの優しさに心打たれた。サラダが、そんなことを考えてこのキャンプに来ていたなんて。孤児院の皆のことも、すごく大事に思ってくれていて、私は内心嬉しかった。

 でも、「二度と」ってどういう意味だろう。それに、孤児院の皆を「第二の」家族と言ったことも気になる。まるで、サラダには過去に家族がいたような言い方だ。

「もういい、分かった。つまり、世奈が言いたいのはこういうことか」

 主馬の指が机をがり、と強く引っ掻いた。

「サラダは孤児院の人間を家族同然に大事にしているため、物資が不足して子供たちの健康を害するような事態になれば、、と」

「そうです! だから、物資を……ん?」

 私は元気に返事をしたが、主馬が要約した内容を改めて反芻すると、私は何か引っかかるものを感じた。なんだか、話が変な方向に行っている気がする。

「アテルイ、……これは、まさか」

 主馬は額に手の甲を当て、険しい顔でアテルイを見やった。アンバーの瞳には動揺の色が見える。

 彼女は俯き、地の底から響くような声を出した。

「ええ——私も、驚いています。私よりよっぽど単純な医療AIに、このようなことがあるはずが……一体、なぜ」

「アテルイ? どうした」

 アテルイは少しの間ブツブツと何かを呟いていたが、主馬の声にハッとしたように顔を上げた。

「申し訳ありません、主馬。しかし、これは緊急事態です。早急に対処しなければ」

「そうだな、野放しにしておくのは危険すぎる。ITエンジニア部門長に連絡してくれ」

「はい」アテルイは部屋の隅にある電話の方へ素早く歩いて行った。

「え、ちょっと、何を言っているんですか?」私は混乱して言った。

 主馬は無言のまま椅子から立ち上がり、つかつかとサラダに近づくと、サラダの胸あたりにあるパネルを素早く開き、一つのボタンをぐっと長めに押した。

「わっ、突然何をするんですか! やめて、やめ——ピー……強制シャットダウン中……」

「サラダ⁉ どうしたの⁉」

 サラダは抵抗しようとしていたが、ボタンを二秒くらい押されると変な音を立てて動かなくなってしまった。ボディを叩いても反応が無いし、頭のランプも光を失っている。

「主馬、サラダに何をしたんですか⁉」

「電源を切った。世奈、悪いがサラダをしばらく預かる。こいつには重大な故障が発生している可能性がある」

「えっ?」私は素っ頓狂な声を上げた。サラダが、故障してる? そんな風には見えなかったけどな。

「孤児院についての相談も、一旦中断させてもらう」

 主馬は有無を言わさぬ口調でそう言った。

 いつの間にか主馬の側に戻ってきていたアテルイは、サラダを台車のようなものに載せて固定を始めた。

「サラダをどうするんですか?」

「ITエンジニア部門で調べ、異常の有無を確かめる。もし故障が見つかれば部門の奴が修理するだろうから、心配するな」

 そう言われても、私は心配だった。それってどのくらいの時間がかかるんだろう。それに、もしサラダが故障していて、修理されたら——以前のサラダと何かが変わってしまったりしないのだろうか。

 主馬は私の前に立った。自然と私を見下ろす形になる。

「世奈、お前のこともまだ帰す訳にはいかない。別室でテストを受けてもらう」

「テスト?」

「簡単な質問に答えるだけだ。ついてきてくれ」

「サラダは……」

「私が、ITエンジニア部門長の所まで責任を持って輸送いたします。ご心配には及びません」

 そう言ったアテルイの微笑は、元通り機械的になっていた。

 私は後ろ髪を引かれながらも、主馬に促されて隣の部屋についていった。


 主馬は私を会議室のような広い部屋に入れ、一旦どこかに行った後、冊子のようなものを持って戻ってきた。そして、私を椅子に座らせて色々な質問をした。

 質問は全てサラダに関するもので、「サラダは自己意識や自己認識を持っていると思うか?」とか、「サラダは文化や社会的な文脈を理解できると思うか?」みたいに、サラダが人間みたいに振る舞えるかを「はい」か「いいえ」で問うものが多かった。中には、「サラダは危機的状況に陥った時、暴力的な手段を取ると思うか?」のように、ちょっと物騒な質問もあった。私が答えると、主馬はその度に私の回答を冊子に書きつけていった。

 しばらく質問が続いた後(ざっと五十個くらいは質問されたと思う)、主馬はようやく「最後の質問だ」と言った。

「サラダは、生命を持っていると思うか?」

 私は迷いなく答えた。

「はい」

「……そうか」

 主馬は数秒の間、逡巡するようにペン先を冊子の上で彷徨わせたが、最後の質問の回答を書きつけた。

「もう行っていい。手間をかけたな」

「あのー」

「なんだ?」

「孤児院の相談については……」

「相談の続きは、後日にさせてくれ。まだ物資の備蓄や予備電源には余裕があるだろう」

「そ、それはそうですが」

「また連絡する」

「はい……」

 私はがっくりと肩を落として椅子から立ち上がった。これ以上は取り合ってくれなそうだ。今日の所は引き下がるしかないか。

 それにしても、サラダのことがどうしても気になる。主馬やアテルイの様子もなんだか変だし……。さっきの質問も、どこか不穏な雰囲気を感じた。

「あのっ」

「まだ何かあるのか?」

「サラダは、すごく優しい機械ですよ。人間を傷つけるようなことは、絶対にしません。私が保証します」

 主馬は胡乱な目でこちらを見たが、私と目が合うと何かを恐れるようにすぐ目を逸らした。元々悪かった彼の顔色が、ますます悪くなっている。

「それは、俺が判断することじゃない」


 ▽


 その後、私はサラダの帰りを待ちながら孤児院での日々を過ごした。

 最初は、すぐにサラダは戻ってくるだろうと思っていた。しかし、予想に反して一週間経っても、サラダが帰る気配は無かった。

 さすがに心配になって主馬に連絡してみると、電話に出たのは彼ではなくアテルイだった。主馬はあの後、本格的に体調を崩してしまったらしく、今は話すことができないそうだ。

 アテルイにサラダのことを聞いてみたところ、サラダには一つ異常が見つかり、その部分はもう修理されたらしい。しかし、まだ異常が残っており、その原因が不明らしくて、修理に時間がかかっているとのことだった。

 私は電話を切ると、大きなため息をついた。この分じゃ、孤児院についてリーダーらに相談するのはしばらく無理そうだ。サラダにも、当分会えそうにない。

 主馬が言ったようにまだ備蓄はあった。でも、孤児院を預かる身としては気が気じゃない。相変わらず電力は足りないし、物資も減っていく一方。薬一つ減るたびに、神経が擦り減っていくのを感じる。

「世奈。サラダ、まだ帰ってこないの?」

 私は突然後ろから声を掛けられて飛び上がった。

「びっくりした~。理仁か」

「ごめん、そんなに驚くとは思わなくて」

「ううん、大丈夫だよ」

 理仁はミントグリーンの瞳で私を覗き込んだ。

「修理中だって言ってたけど、そんなに時間かかるの?」

「うん……まだ原因不明の異常が残ってるんだって」

「そっか……」

 理仁はうつむき気味に呟いた。私は理仁の頭にポンと手を置いた。

「きっともうすぐ直るよ。元気になって、帰ってくるって」

「うん。それまでに、ぼくのおかげで全員読み書きできるようになってるかもね」

 理仁は、サラダが不在の間も教育係をしてくれていた。サラダがいなくなった分は、叶芽が頑張ってくれている。まあ、「字を教えている」というよりは「知育ゲームアプリの攻略法を教えている」って言う方が近いけど。

「理仁も叶芽も、本当教え方上手いよね~。叶芽、最近は随分とやる気があるみたいだし」

「そうだね、ぼくも驚いてる。でも……」

「ん?」

「最近、なんだか叶芽の様子が変なんだ。消灯後も、真っ暗な中でずっとゲームしてたりとか」

「ええ⁉ それは目に悪いなあ」

「あと、何かに悩んでいるみたいなんだ。ぼくが訊いても、教えてくれないんだけど」

「そうなんだ」

 叶芽が悩んでるなんて知らなかった。最近は孤児院の今後のことを考えるのに必死で、あまり子供たちのことを観察できてなかったんだよな……。同室で年が近い理仁にすら相談してないってことは、誰にも話したくないことなのかもしれない。

「教えてくれてありがとうね。私も叶芽に訊いてみるけど、ろくに話してくれるか分からないから……もし叶芽が理仁に相談してきたら、聞いてあげて」

「分かった。叶芽は同室だし、頼りになる教育係のアドバイザーでもあるから、彼の面倒はぼくがしっかり見てやらなきゃね!」

「はは、よろしく……」

 理仁がにやりと悪そうな笑みを浮かべるので、私は苦笑した。なんだか理仁が、叶芽のしたたかさをどんどん吸収してるような気がする。一方叶芽の方はというと、弟分であるはずの理仁に良いようにこき使われちゃっているようだ。まあ、ベストコンビ、と言えなくもない……かな?

 私はしばらくそんな風に理仁と他愛もない話をしていたが、少しすると希愛がやってきて彼を連れて行った。何でも、落とした髪留めを一緒に探してほしいらしい。

 理仁と希愛が行った後、今度は遥に電話をかけてみた。

 コール音はするけど、やっぱり出る気配がない。一分ほど待った後、電話を置いた。

 なんとか遥と話そうと、彼女が出て行ってから毎日電話をかけているが、一回も出てくれない。彼女の個人用端末に送った電子メールにも、返信は来なかった。

 直接救助隊の本部に行ってみても、私の名前を出したとたんに取り次ぎを拒否されてしまう。恐らく、遥が受付の人にそうするよう頼んでいるのだろう。正直、予想していた反応ではあるけど、実際にやられると精神的ダメージが大きい。

「どうしよう……」

 私は、アテルイの言った一つ目の方法、訓練の受け入れはぎりぎりまでしたくなかった。かといって、二つ目の方法は論外だ。家族である子供たちを手放すなんてことは、何があっても無理。となれば三つ目の方法——遥の説得をするしかない。でも、彼女の冷たい反応を見るに、この方法も成功しそうな気がしない。

 諦めたくはなかった。孤児院の支援の件を抜きにしても、私はどうしても遥と直接話して、謝りたい。あんな別れ方をして、一生このままなんて、絶対に嫌だ。彼女はたった一人の、私の幼馴染みなのに。

 でも、これ以上何ができると言うのだろう?

「やっぱり、無理なんじゃないかな、……サラダ」

 それを否定してくれる機械音声が聞こえないことが、ひどく寂しかった。


 ▽


 さらに三日が経ち、遥が出て行って十一日目の夜遅く——ようやく主馬から連絡があった。しかし、その連絡は私にとてつもないショックを与えるものだった。

「サラダの学習データを、全部消去するかもしれない……?」

「ああ。いわゆる記憶に当たるものだな」

「ど、どうしてですか?」

「ITエンジニア部門の調べによると、サラダの故障の原因は、どうやら過去の学習データにあるらしい。だが、どの学習データが不具合を引き起こしているかまでは特定できていない。というより、特定するのは技術的に不可能かもしれないらしい。現状、サラダを修理するには、今までの全学習データをクリアするほかに方法がない」

「でも……記憶を消したら、サラダは」

「ああ。サラダのAIは初期化される」

「初期化……それって、どうなるんですか」

「人工知能を初期化した場合、内部に蓄積した学習データは失われ、工場から出荷されたばかりの時と同じ状態に戻る」

「私のことも、忘れちゃうんですか」

「そうなる」

「そんな……」

 私は思わず泣きそうになったが、その前に主馬が再び話し出した。

「だが、サラダの学習データには、医療機器の取り扱いについての知識や、今まで行った治療のデータなど、医療行為に必要なデータが含まれている」

「……」

「そのため今は、ITエンジニア部門主導で、必要データの洗い出しを進めている。また、可能であれば原因データの特定も行うそうだ。長く待たせて申し訳ないが、もう少し辛抱してほしい」

 主馬の淡々とした口調は、私の心をどんどん冷え込ませていった。サラダの記憶がもし消されたら、……それは私のせいだ。

 私が、リーダーたちとの相談に、サラダを連れて行ったりしなければ。

 サラダを交渉のダシに使おうとしなければ、こんな事には——。

「サラダは、私たちのこと、家族だって言ってくれたんですよ」

「知っている」

「なのに、その記憶も、消すなんて……そんなのって無いですよ。サラダは、何も悪くないのに」

「まだ消すと決まった訳ではない」

「消さないと決まった訳でもないでしょう!」

「世奈、落ち着け」

「落ち着いてなんていられません!」

 主馬は何かを考えるように沈黙した後、声を潜めて言った。

「……よく聞いてくれ。今から話すことは未確定情報になる。確定すれば機密事項に指定される可能性があるため、誰にも言うな」

「は、はい」彼の緊張感の漂う声色に戸惑いながらも、私は返事をした。

「ITエンジニア部門長の話によると、サラダは『自立尊重原則』を特定条件下で破ることができることが明らかになったらしい。つまり、サラダはある条件を満たせば人間の判断を無視した行動を取ることができる」

「ある条件って?」

「条件については、俺も詳しくは知らん。だが、その条件はとても特殊なものらしい——このキャンプでの記憶だけでなく、それ以前の記憶とも紐づいており、複数のパラメータが存在するようだ」

「はあ」私はとりあえず相槌を打った。

「いいか、これはキャンプの人間にとって危険すぎる故障だ。医療の現場で突然サラダが人間の判断を無視すれば、最悪の場合人命が失われる」

「……」

「世奈。俺が、リスクを冒してまでお前にこの話をした意味を、どうか理解してくれ」

 主馬の声はいつになく真剣だった。

 私だって、頭では理解できる。でも、心は納得してくれない。電話を握る右手が震えるのを感じ、私は左手で右手首を押さえた。なんとか声を絞り出す。

「サラダは私たちにとっても、もう家族の一員なんです。……どうか、酷いことはしないでください」

「努力する」主馬は重々しく言った。

 私はその言葉に、ほんの少しだけほっとした。

 その時、きゃははは、という声が二階から微かに聞こえた。あの声はたぶん、新菜かな。

「今の声は……」

「あ、聞こえましたか? すいません、子供がはしゃいでるみたいで」

 恐らく、新菜が誰かにくすぐられたのだろう。彼女はくすぐりに弱く、いたずら好きの子によく不意を衝かれている。孤児院では、子供たちのじゃれ合いは日常茶飯事だ。だから、私は気にも留めなかった。

 しかし、主馬は急に妙なことを言い出した。

「すごい悲鳴だったが」

「え?」

「見に行ってやった方がいいんじゃないか?」

「そんな、大したことないですよ。楽しそうな笑い声でしたし、きっとじゃれ合ってるだけです」

 私がそう言うと、彼は少しの間沈黙した。

「お前には、笑い声が聞こえたのか?」

「? そうですけど。それがどうかしましたか」

「……いや、何でもない」

 主馬は電話の向こうで咳払いした。

「とにかく、こちらでも全力を尽くす。孤児院の電力供給についても、次の統括会議にかける予定だ」

「何卒、よろしくお願いします」

「また連絡する」

 私は切れた電話を置くと院長室を出て、夜更かししているらしい新菜を叱るために二階へ向かった。案の定、彼女と同室の子はまだ起きており、私は二人に小言を言って順番に寝かしつけた。

「ねえ、さらだ、いつあえるの?」

 新菜を寝かしつけようとすると、彼女はそう言って澄んだハシバミ色の瞳で私を見上げた。サラダが不在になってから毎日のように、彼女はこう聞いてくる。

「サラダはね、病気になっちゃったんだ。だから、お医者さんに直してもらってるの」

「びょうき……」

 新菜は深刻そうな顔で呟いた。

「でも、直ったらすぐに、戻ってくるよ。それまで、おりこうさんで待ってられる?」

「ん」彼女はこくりと頷いた。

「良い子。おやすみ」

 私は新菜の額にキスをして、彼女の身体に布団を掛け、部屋を後にした。

 サラダの記憶が永遠に失われてしまったら、もう取り返しはつかない。サラダが大事にしていた沢山の記憶が、自分のせいで奪われようとしているかもしれないことが、すごく辛かった。

 それに私、サラダのこと、まだ何も知らないのに——。

 サラダの思い出話を聴くことは、もう叶わないのだろうか。

「お願い、無事で帰ってきて……サラダ」

 無力な私は手を組んで祈り、そして同時に心に誓った。もし、戻って来たサラダが、今までのことを全部忘れてしまっていても、私は絶対にサラダのことを大切にする、と。

 それが償いになるとは、思わないけど。


 ▽


 次の日、私は昼食の時に、孤児院の子供たち全員に遥が引っ越したことを伝えた。今までは訓練に行ってるとか、地上遠征が長引いてるとか言ってなんとか誤魔化していたけど、とうとう誤魔化しきれなくなったからだ。

 とは言え、この込み入った事情をどうやって説明したらいいんだろう。「どうして?」と口々に疑問を投げかける子供たちは、まるで追及の手を緩めてくれる気が無さそうだ。私がオロオロとしていると、叶芽が突然「もしかして」と呟いた。

「遥と、喧嘩したのか?」

 私は「え」と言って固まった。

 子供たちは次の言葉を、固唾を飲んで見守った。私は、躊躇いがちに言った。

「……そう、かも」

 本当は喧嘩なんて生易しいもんじゃないのだが、私は肯定した。

 とたんに、子供たちは蜘蛛の子を散らしたように騒ぎ始めた。

「やっぱりな」

「遥、今度は何したの?」

「出ていくなんて、ずいぶん大喧嘩だね」

「ちょ、ちょっとみんな」私は子供たちに呼びかけて静かにさせた。

「今回のは、いつもみたいなただの喧嘩じゃないの」

「そうなの?」理仁が訊く。

「うん。絶交した、ってのに近いかな。遥は多分、二度と孤児院には戻ってこないと思う……」

 どうしても、語尾が尻すぼみになってしまう。

 皆はめいめいの反応を見せた。遥と付き合いの浅い希愛なんかは驚いてキョトンとしている。不安そうな顔の子や、疑わしげな表情をする子もいた。

 私は、子供たちを安心させようと、わざと明るく言った。

「だ、大丈夫だよ。私も遥も大人なんだし。離れてもやっていけるから」

 その時、叶芽が椅子からやおら立ち上がった。

「あのな、世奈。ひとこと言わせてもらう」

「へ?」

「あいつが、一人でやっていける? そんな訳ないだろ。馬鹿なのか?」

「えええ⁉ 酷くない?」

 彼は当たり前のことを言うように続けた。

「遥が、どんなにお前に頼ってたと思ってるんだ」

 皆も口々に言う。

「そうそう、遥、部屋の掃除できないじゃん。いっつも世奈しか掃除してない」

「朝とか、すぐ機嫌悪くなるよね」

「世奈がいなきゃ、誰とも話そうとしないし」

 私はびっくりして子供たちを見回した。子供たちと遥は、いつもどこか距離を置いているように感じていた。でも、実は皆、遥のことを見ていたんだ。これを聞いたら、彼女はだいぶ怒りそうだけど。

「きっと今頃、部屋が散らかって困ってると思う」

「誰かに八つ当たりして、迷惑かけてるんじゃない」

「世奈がいないから、一人になってるかも」

 そう言われてみると、私もなんだか遥のことが心配になってきた。

 不安げな私の様子を見て、理仁が追い打ちをかけてくる。

「遥は、世奈がいなきゃ駄目だよ。絶対に」

「そう、かな……」

 皆は力強く頷いた。黙り込む私の肩を、希愛がぽんと叩く。

「理仁の言う通りよ。それに……」

 彼女は宝石のようなくるみ色の目をきゅっと細めて私を見た。

「世奈も、遥がいないと駄目でしょ?」

 私はついに、堪え切れなくなってしまった。

「うん……う゛んっ……」

 子供たちを両腕に抱きしめ、私は子供に戻ったように泣きじゃくった。


「仲直りの方法を考えようよ」しばらくして私が落ち着いたところで、理仁がそう言った。

「そうだな。電話するのはどうだ?」叶芽が私の方を見る。

「もう何度もしたけど、出てくれなかった。メールも返信してくれないし……見てくれてるかも怪しい。実は救助隊の本部に直接会いに行こうともしたんだけど、追い返されたんだ」

「そうか、もう色々やってたんだな」

「遥、相当へそ曲げてるね」

「そうだ!」希愛がパンと手を叩いた。何か思いついたようだ。

「手紙を書くのはどう?」

「確かに……良いかもしれない。まだ手紙は出したことないから」

 手紙か、全然思いつかなかった。手紙を書くなんて、個人用端末がある今の時代じゃ随分と古風だけど、真心を伝えるにはいい方法だ。

「わたしも、かく!」新菜がハシバミ色の目を輝かせた。

「えっ⁉ でも……これは私と遥の問題だし……」

「かきたい~」彼女は私の服の裾を掴んでごねた。

「そう言われてもなあ」

「いや、いいかもしれない」理仁はそう言って顎に手を当てた。

「世奈からの手紙だけだと、遥は読んでくれないかもしれない。その点、ぼくら皆からの手紙なら、遥の警戒を解きやすい」

「決まりだな」叶芽はにやっと笑った。

「ちょ、ちょっとぉ……勝手に話進めないでよ~」

「皆! 字の練習の成果、遥にも見せてやろうぜ!」

 叶芽が啖呵を切ると、おーっ、と子供たちが元気に返事をする。

 どうやら、もう私の言う事なんて耳に入っていないようだ。というか、私と遥の仲直りの件は二の次になってない?

「諦めたほうがいいよ、世奈。もう、彼は止められない」

 理仁はそう言って、親指でくいっと叶芽を指した。彼は色鉛筆や色紙なんかを遊び場の方から引っ張り出してきて、楽しそうに子供たちに配っていた。幼い子供たちは降って沸いたこのイベントに浮かれているようで、我先にと受け取っていった。叶芽がいつの間にか、すっかり子供たちの信頼を勝ち得ていたということに、私はその時ようやく気付いた。

 そうして、子供たちは皆で一緒に手紙を書き(私は自室でこっそり書いた)、その後に全員で救助隊の本部まで行って、受付の人に遥に手紙を渡してもらうようお願いした。

 受付の人は迷惑そうな顔をして「承りました」と言った。


 ▽


 翌日も、その翌日も、彼女から返事は来なかった。

 もしかしたら、彼女は手紙を読まずに捨てているのかもしれない。それでも、私は諦めきれなかった。

 それから毎日、せっせと手紙を書いては届けた。受付の人に断られるようになると、近くにいた救助隊員たちに「遥に手紙を渡してもらいたい」と片っ端からお願いして回った。子供たちは次第に手紙を書くのに飽きていったが、時々は遥宛の手紙を書いてくれた。

 でも、一通も返事が来ないまま、とうとう遥が出て行ってから一ヶ月が過ぎてしまった。

 未だに空き時間を見つけては、文字を必死に書き連ねる私は、滑稽としか言いようがない。無駄だと分かっているのに。もう、メッセンジャーを引き受けてくれる救助隊員も見つからなくなってしまった。

 孤児院の状況はというと、とっくに限界を超えていた。電力供給だけは主馬の働きかけのおかげで改善されたけど、物資は改善の目途が立ちそうになかった。

 物資の備蓄が完全に底を着いてから一週間になる。食糧も、医薬品も全然足りない。育ち盛りの子供たちは食事の度、しきりに「お腹がすいた」と訴えている。私の分の食糧を子供たちにあげているけど、そんなのは気休めにもならない。

 いくらねだっても食べ物がもらえないと分かると、子供たちはお腹が空かないよう、日中じっと寝転んで過ごすようになった。ゲームができないと騒いでいた頃は、まだ元気があったんだな。そう思うと、今の状況がいっそう悲惨に見えた。

 このまま行けば、子供たち同士で食糧の奪い合いが始まるのも時間の問題だろう。

 明日、恭太郎のところに行こう。私はついに、そう決意した。

 いつもより量の少ない昼食の後、皆の食器を洗っていると、理仁が血相を変えて食堂からキッチンに飛び込んできた。

「世奈! 大変だ、サラダが……」

 彼にぐいぐいと腕を引かれてキッチンから出ると、食堂の入口には、一ヶ月ぶりに見るサラダが立っていた。

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