消しゴム
シュセツ
消しゴム
週末の夜の雑踏の中、彼は重い足取りで会社からの帰途についていた。賑やかな町の明かりもどこか遠い国の光景のよう。彼は家への帰り道にあるコンビニエンスストアに立ち寄った。一人暮らしなのだから、珍しいことではない。夕飯のために食べるものを買っていこうという、それだけのことである。ああ、今日はご飯がおいしく食べられそうだというときは、外食をすることもある。ご飯をおいしく食べるなんて、当たり前のことのように思われるかもしれないが、彼にとってはそうではない。胃の弱い母からの遺伝なのか、おなかが空くことがめったになく、大概は無味乾燥な栄養補給のための作業のように食事をこなしているだけなのだから。でも、日によってはたまにおなかが空くこともある。そんな時は、彼の好物のカレーであったり、パスタなんかをファミレスで食べたりする。たまさかの食べる楽しみを満喫しようというのである。ただし、個人経営の飲食店には行かない。以前たまたま入ったそういうお店が、とてもアットホームだったことがある。まわりで、お店の従業員がお客と楽しげに歓談している。人見知りの彼はとてもそんな芸当はできない。すると、そこでの食事は彼にとって針のむしろの上の苦行のようである。ちらちらと視線を感じるような気がする。ひとり黙々と食べているだけの自分は、招かれざる客であって、お店のひとは心のなかで、こいつ早く帰んねーかなーと思っているのではないかしらなどと妄想ばかりたくましくなり、食事の味が分からなくなる。せっかくの外食が台無しである。
今日は会社で嫌なことがあったせいか、ことさら食欲がない。仕事でミスをして上司からひどく怒られたのだ。意地の悪い上司は、わざわざ彼の同僚や後輩のいる前で彼を怒鳴りつけた。上司はまるで猫がネズミをなぶるように正論を述べながら、心内を駆け巡る残忍な悦びを懸命に隠そうとしている。事務のあの子にも見られている…。
ともすると脳裏に去来する悪夢のような今日の出来事を振り切るように、カゴを手にして、おにぎりのコーナーへと彼は向かった。無理しても食べないと体がもたないからな…。彼は悲壮な覚悟で棚のおにぎりを見つめていた。
「二つ買うと五十円引きか…」
彼はおにぎりを手にしてカゴに入れようとした。駄目だ、とても今日は食べられそうにない。おかゆか何か、本当に軽いものにしないと。彼はおかゆなど、レトルトの食品の置いてあるコーナーに向かおうとした。すると、普段は素通りする文房具のコーナーでなぜか足が止まった。彼はMONOと書かれた消しゴムを手にとってじっと見ている。パソコンで作業をすることの多い今、消しゴムを使うことは滅多にない。それに、買わなくてもいくつか持っているのだから、今の彼にはおよそ必要のない代物である。なのに、それを手に取ったまま動こうとしない。この消しゴムのデザインはずっと変わらないな…。彼は子供の頃のとある出来事を思い出していた。
彼が小学生だったある日、学校に消しゴムを持っていくのを忘れてしまったことがあった。授業のノートをとっていて、間違えた箇所を消そうとしたら、筆箱の中に消しゴムが見当たらない。昨日、家で宿題をしていた時に使ったまま、筆箱に入れ忘れてしまったことに気がついた。でも、あまり困ったような素振りはしたくない。隣に座っている子に困っているところを見られたくないのである。その子は、クラスのどの男子よりも背が高く、顔立ちもはっきりしていて、内気な彼などは、隣に座っていても、ほとんど口をきいたことがなかった。なるべく自然な様子をよそおって、授業を受けようとしていたら、彼女の長い手がすっとのびてきて、隣り合わせにされた彼と彼女の机の真ん中にMONOと書かれた消しゴムが置かれた。
「勝手に使っていいから」
彼女はそっけなく言った。彼はうんと小さな声で答えた。ありがとうと言えばよかったのにという後悔の念にすぐ襲われた。気をつけたつもりなのに気取られたのが恥ずかしかったのか。その日は一日二人でひとつの消しゴムを使った。結局、彼女にお礼を言えたのかどうかは覚えていない。
何で、何十年も前のことを急に思い出したのか分からない。今日一日の疲れのせいか、消しゴムのMONOの文字が一瞬かすんだような気がした。手にした消しゴムをカゴに入れると、レトルトのコーナーへ向かった。今日は梅がゆでいいや。彼はレジで会計をすませて外に出た。夜の冷たい外気は、不思議と店に入る前よりも心地よく、町の明かりの煩わしさも少し和らいだような気がしていた。
消しゴム シュセツ @Corrina
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