エピローグ
坂下翔子
目覚めたとき、俺は賭けに勝ったのだと知った。
頭に巻かれた包帯と、病院らしい白のシーツがそのことを教えてくれている。
怪我は大したことなかったようだ。
一応精密検査を受けた上あっさりと退院になった。
なぜそんな怪我をしたのか、という質問に対しては「忘れものを取りに学校へ忍び込もうとした」と答えた。
そして塀から落ちて頭を打った、と説明するとそれ以上は追求されなかった。
とはいえ、家族からは良い顔をされなかったのでしばらくは肩身の狭い思いをすることになるだろうが仕方ない。
死ななかっただけで良しとしよう。
ちなみに母親や医師から聞いた話になるが、俺を見つけて救急車を呼んでくれたのは同じ学校の女子だったらしい。
十二月一日が始まった。
夕方を過ぎて母親に付き添われて帰宅する頃、外では雪が降っていた。
寒さも昨日より強くなっている気がする。
半分くらいは錯覚だろうけど。
帰宅した後、母を説得して再び外出する。
検査結果に問題はなかったので、暗くなるまでには帰ってくるということで許してもらった。
別に一日くらい愛しの我が家で療養しても良かったのだが、できるだけ早くやっておきたいことがいくつか残っている。
無事に生きている以上、それらを済ませないかぎり今回の騒動が終わったことにはならないだろう。
携帯電話で真っ先に会うべき人と連絡を取ると、公園で待ち合わせることになった。
俺が高見を刺したのと同じ場所だ。
近くにはコンビニと宅配ピザ屋がある。
雪が降っていると言っても、吹雪いているわけでも、積もっているわけでもない。
そのため午後の公園にはまだ親子連れの姿が少し見られた。
「こんにちは」
ベンチに腰かけて待っていると、坂下翔子が現れる。
身につけているダッフルコートとマフラーは、どちらも逃避行中に買ったものだ。
「そのケガ、どうしたの?」
「ちょっと派手に転んだ。でも大丈夫。病院でも異常はないって言われたし」
「そっか。良かった」
「そっちはどうだった?」
坂下と会いたかった理由は、家に帰った後のことを知りたかったからだ。
俺に付き合わせて三日近くも留守にしている。
いくら根津がごまかしてくれていても、やはり中学生が外泊するには長い期間だ。
そのことで坂下が責められるようなことになっているなら、なんとかしないといけない。
「お母さんもお父さんも心配してくれた。ずっと心配かけちゃいけないって思ってたけど、でもここまで来たら一緒だと思って、ちゃんと説明したの」
「ちゃんとってどこまで?」
「ほとんど全部。学校でのことも、この数日のことも……あ、でも平尾くんことは話さなかったよ。さすがにそれは……なんていうか、秘密にしておきたかったから」
「それは同じだ。俺も人には内緒にしてる」
外泊して観光してきた、という説明しかしていない。
うちの両親は一人旅だと思っているだろう。
冷静になってみると俺と坂下は二晩も密室で夜を明かしたことになる。
よからぬ誤解を防ぐためにも、そのあたりをぼかしておくのは良い判断だ。
「平尾くんもなんだ。嬉しい」
嬉しいと思ってもらえるほどのことではないと思うが、まぁ喜んでいるならいいか。
「それでね、親とも相談してもう学校には行かないことにしたの。あ、もちろん、高校受験はするから、そこから仕切り直せばいいんじゃないかって両親も言ってくれた」
いじめの解決としては劇的なことは一つもない。
でも劇的である必要もないだろう。
「平尾くんのおかげ」
「俺はなにもしてないよ」
「でも逃げるのが悪いことじゃないって私に教えてくれたのは、平尾くんだから」
「誰にでもできることをしただけだし、誰にでも言えることを言っただけだよ」
「でも私にしてくれたのも、言ってくれたのも、平尾くんだけだよ。他の誰にでもできたのかもしれないけど、私にしてくれたのは平尾くんだけだった」
坂下はどうも俺のことを過剰に評価してくれている。
身の丈に合っていないとはいえ、褒められて悪い気はしない。
「あ、そうだ。私にひどいことをしてきた人たちは訴えることにしたの。嫌がらせのメモとか破られたノートは取ってあるし、日記もつけてたから。そういうのが物証になるんだって」
「おぉ……」
「親の力を借りるのってずるい気がしてたけど、視野を広げてみると色んな方法があるんだね」
逃避行の前と後で、坂下は劇的に変化した。
多分それは良い方向だと、俺は思う。
「高見さんが指示を出していたことを立証するのは難しいかもしれないけど、その他の人はこれで報いを受けることになると思う。高見さんはまぁ……他の人より先にひどい目に遭っただろうし、それでいいかな。やりすぎ、だと思う?」
「いや、坂下が自分で解決するならそれがいいと思う」
俺や根津にはどうしようもないことを、坂下はあっという間に解決してみせた。
口調も以前よりずっと明るい。
「多分これからも、あの人たちのことは許せない。されたことも忘れられない。でも、これで区切りをつけることはできると思う。もし将来どこかで偶然会ってももう怖くない。私は不幸じゃないってわかったから」
助けを求めれば両親が応えてくれる。それだけでも坂下にとっては幸運なことだろう。
「あ、そうだ。これ」
坂下が上着のポケットから、新聞紙に包まれた塊を取り出す。
それを見た時、さすがに顔をしかめてしまう。
良い思い出はない。
あれは、事件に使われた凶器だ。
長く坂下のカバンの中に隠されたままで、いつの間にか存在すら忘れていた。
「本当はずっと処分しようと思ってたんだけど、中々踏ん切りがつかなくて……でも、一緒なら手放せると思って」
いつかの坂下はカッターナイフが心の支えだと言っていた。
それが不必要になったのであれば、他の支えが見つかったのだろう。
それが家族の存在なのだとすれば、良いことだと思う。
「捨てるの、手伝ってくれる?」
「それはこっちからお願いしたいくらいだ。俺に手伝わせてくれ」
あのカッターナイフは俺にとっても意味をもつ代物だ。
「こ、こういうのって可燃ごみで出していいのかな」
「新聞紙でくるんであるし、大丈夫だろう」
俺と坂下は公園のゴミ箱にカッターナイフを捨てる。
すでに多くの可燃ごみが入っていたせいか、中に入れても音はしなかった。
今、ようやく俺たちの逃避行が終わったような感じがする。
おそらく坂下にとってもそうだろう。
隣にいる彼女はほっと安心するように息をついた。
「平尾くんは、これからどうするの? その、学校とか」
「俺はこれまで通りかな。受験勉強して、試験に合格すれば、春からは高校生だ」
「同じ高校に行けるかな?」
「どっちでもいいんじゃないか。別に学校が違ったって、会えないわけじゃない」
「そうだね、世界は広いんだもんね」
世界は広い。
だから俺と坂下はまた会うかもしれない。
あるいはもう二度と会わないかもしれない。
それもまたどちらでも良いことのように思えた。
「夏になったら、また一緒におそば屋さんに行こうよ。あと、また一緒に映画も観たい」
こうして明るく話しかけてくる坂下を見ていれば、他の細かいことなんてどうでもいいことだった。
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