11/27

「お前、根津と約束してたんじゃ……」


「適当なところで撒いてきたわ。約束なんて破ってもいいものでしょう?」



 そういえば高見琴乃はこういうやつだった。


 すでに一度約束をやぶった実績があることを、未来で坂下から聞いていた。


 それなのに俺は警戒を怠っていた。


 その結果、悪い予感が人の形をしてこの場にいる。



「でもやっぱり平尾くんの差金だったのね。根津さんと二人でなにか企んでいるとは思っていたけれど、女の子を便利に使っておいて別の子とデートをしているなんて、ちょっとひどいんじゃない?」



 そういえば、根津と俺が協力関係であるところも見られている。


 あえて計画にのせられたフリをして、俺の動きを監視していたのだろう。


 高見には協力者がたくさんいる。

 この田舎町であれば、俺たちが今日どこに出かけ、今どこにいるのかを人づてに知るのは難しくなかったはずだ。


 総じて俺は自分の能力を過大評価していた。


 あるいは高見琴乃を甘く見ていた。



「それに、やめてあげてって言ったのにまだあの子に期待させているのね。それって本当に優しさって言えるのかしら」


「楽しいおしゃべりにはまた今度付き合ってやる」



 後悔するなら家に帰ってからでもできる。

 今は最悪の事態を回避するために、できることをやらなくてはならない。


 俺は立ち上がると、強引に高見の腕を引く。

 見た目通りの細い腕は、俺の力に抵抗することなくあっさりと従った。



「すぐに帰れ」


「そんなにあの子と私を会わせたくない? まるで浮気現場を隠しているみたい」


「何割かはお前のために言ってるんだぞ」


「百パーセント私のためって言ってくれないとイヤ」


「じゃれてる場合じゃないんだよ」



 どうしてこの深刻さが伝わらないのか、もどかしくて仕方がない。


 いっそ「ここにいたらお前が殺されるんだ」と言ってやりたいが、それを素直に信じる高見ではないだろう。

 面白がるのが関の山だ。



「でも、いいわ。用事が済んだら帰ってあげる。それに今日はあの子じゃなくて、平尾くんに用があったのよ」


「なら手短に済ませてくれ」



 いつ坂下がコンビニから戻ってくるのか気が気ではない。

 ゆっくりでいい、とは言ったがそこまで時間がかかるとは思えなかった。



「その前に、頭になにかついてるわ。それじゃあ、人に笑われてしまうわよ」


「どうでもいいだろ」


「ダメよ、身だしなみはちゃんとしないと。ほら、そこ」


「どこだ?」


「もうちょっと右、あ、行き過ぎ。もう仕方ないわね。私が取ってあげるから、かがんで」



 高見がいかに長身とはいえ、それは女子の中での話だ。

 底の厚いブーツを履いていても、俺のほうがまだ少し背がある。


 だから俺は彼女の指示どおり、少しだけかがむ。



「じっとしていてね」



 高見が無造作に両手を伸ばし、しかしその手は俺の頬で止まる。

 そのまま挟み込むようにして首を固定されると、次の瞬間には高見の顔が近づいてきていた。


 そして距離がゼロになる。


 あっという間の出来事だった。


 押し付けるようなキスは力が強すぎて互いの唇を押しつぶし、内側に隠れた歯の固い感触まで伝えてくる。


 かすかに柑橘系の香りがした。


 一瞬、頭が真っ白になる。


 だがかろうじて正気を引き戻した俺は、すぐさま高見を突き飛ばした。


 二歩ほど後ろによろけた高見は、また笑っている。

 人を嘲るような笑みだ。



「つれないのね」


「どういうつもりだ?」


「これが今日の用事よ。あたしのお願いごとを聞いてくれたお礼にキスをしてあげるって、前にそう言ったでしょ?」



 記憶をたどる。


 あれは何日くらい前だ。

 体感と日付が合わない。

 いや、正確なことはどうでもいい。


 たしかに食堂で顔を合わせたとき、高見はそんなことを言っていた。

 頼みを聞いたらお礼にキスでもしてあげる、と冗談めかして言っていたはずだ。


 そして俺はあの日、まっすぐ帰宅した。

 そのつもりはなかったが、結果的に高見の要望を叶えた形になる。


 その報酬、というつもりなのか?


 だがこのタイミングである必要はないはずだ。



「平尾くんは今、貞淑な私の唇を奪ったのよ。それなのに約束を忘れてたんだとしたらひどい話だわ。ねぇ、ショーコちゃんもそう思うでしょう?」



 背筋が冷たくなる。


 高見はすでに俺ではなく、その背後に向かって話しかけていた。


 振り向きたくない。


 これほどまで自分の背後を見たくないと思ったのは人生で初めてだ。


 だが高見の勝ち誇った表情をいつまでも眺めていたいわけでもなかった。


 背後でなにかが落ちる音がする。


 おそるおそる振り返ると、まずは足元に落ちた二つの紙コップが目に入る。

 公園の砂に黒いコーヒーが吸い込まれ、シミを作っていく。


 坂下翔子は目を見開いていた。


 様々な感情が渦巻き、そのどれもが表に出てこないような、そんな色のない表情だった。



「悪い男に騙されていたって、早めに気づけて良かったわね。ショーコちゃんったら、舞い上がってたんじゃない? もしかして自分が好かれてるとでも思った? そんなの、全部勘違いよ。ちゃんと自分の姿を鏡で見たほうがいいわ。ね、平尾くん」



 高見はわざと誤解を招くような言い方をしている。


 これではまるで今日の出来事はすべて高見の差金だったかのように、坂下には聞こえてしまうだろう。


 ひょっとすると俺が坂下を映画に誘ったことだけでなく、それ以前のこともすべて。


 この一瞬で、俺は坂下からの信用を失った。


 だがどうすればいい?

 誤解だと主張しても虚しく響くばかりだ。


 それよりも高見を先に黙らせたほうがいいはずだ。

 でもどうやって?


 思考が混乱してうまくまとまらない。

 やるべきことに優先順位がつけられない。


 とりあえず二人を引き離すべきだ。

 坂下を連れてこの場を離れて、それから誤解を解くための説明を――


 俺の思考はそこで中断される。


 坂下が無言で上着をはだける。

 そしてブレザーの内側に手を入れた。


 一連の動きのすべてが俺にはスローモーションに見えた。

 だから高見がカッターナイフを取り出した瞬間も、その刃が時を刻むように音を立てて伸ばされた瞬間も、よく見えていた。


 もうなにもかも手遅れだ。

 すべてが空回りしている。


 今の出来事がきっかけになってしまった。


 カッターナイフを腰だめに構えた坂下が駆け寄ってくる。

 相変わらず黙り込んだままだが、言葉にするよりも明確な怒りと殺意が感じられた。


 これじゃダメだ。


 認めたくはないが、以前高見が言ったとおりになってしまっている。

 俺が余計なことをしたせいで状況がこじれた。


 俺は事件を防ぐために坂下と関わったはずだ。


 だが俺の存在によって坂下は犯行に及ぼうとしている。


 これではまったく意味がない。


 それでもまだ諦めるわけにはいかない。


 カッターナイフさえ奪えれば、状況は変えられる。



「やめろ、坂下!」



 俺は坂下の進路に割り込み、なんとかカッターナイフを奪い取ろうとする。

 だが妙に力が強く、刃を直接掴むわけにもいかないため、うまくいかない。


 これ以上高見に近づかないよう押し止めるだけで精一杯だった。



「面白いわね」



 この期に及んで、高見の声はなお嘲るような色を失っていない。



「ほら、こっちから近づいてあげるわ。これなら楽に刺せるんじゃない?」


「高見、お前は黙ってろ!」


「大丈夫。どうせできないのよ。人を見下すばかりで実際にはなにもできない。それがその子の本性よ」



 冷静さを失っている坂下だけでなく、高見も俺の言うことに聞く耳を持たない。

 それどころから挑発しながら近づいてくる。


 自分の声が誰にも聞こえていないのではないかと不安になってくる。

 坂下と高見の間にたしかに存在するはずの自分が、まるで透明になったような気分だ。


 なんのために、

 誰のために、

 俺はこんなに必死になっているのか。

 氷点下近い気温の中で汗をかいてもみ合っているのか。


 気が遠くなる。

 そして少しずつ怒りに変わってきた。


 なぜ俺がこんなに振り回されなければいけないんだ?


 いったい俺にどんな責任がある?


 考えれば考えるほど、苛立つ。

 身体の中にあるすべての感情が順番に怒りへと置き換えられていく。


 自分のことだけ考えればいい。


 坂下に怪我をさせないように取り押さえようとか、

 危ないから高見を遠ざけようとか、

 そんな気遣いもすべて怒りに塗りつぶされてしまえばいい。


 ただ俺は、自分が未来で殺されないためだけに、この場を収める。

 それで十分だ。


 決めてしまうと簡単だ。


 俺は左手でカッターナイフの根本を掴むと、右手で力いっぱい坂下の胸を突き飛ばす。

 容赦をしないで力を込めると、坂下はあっけなく後ろへ下がり、尻もちをついてしまった。


 力いっぱい押した反動で、俺もまた数歩後ろに下がり、なにかにぶつかって止まる。


 か細い声が聞こえた気がした。


 カッターナイフを持ったままの左手が熱湯でもかかったかのように熱い。


 今度はたしかに耳元でうめき声が聞こえた。


 地面をこするような音がして、背後で誰かが倒れる。

 そのとき一瞬だけ左手にあるカッターナイフから奇妙な抵抗のようなものを感じた。


 振り向くと高見が倒れていた。

 その脇腹からは血があふれている。


 自分の手を見ると、逆手に持ったカッターナイフが真っ赤に染まっていた。



「え……?」



 脳が現実を処理しきれない。


 手が赤くぬめる。

 他人の体温をこれほど不気味に感じたのは初めてだ。


 目に映るすべての物事は止まったように感じられる。


 俺は失敗してしまったのか。


 カッターナイフを握っているのは自分の手で、血にまみれているのもそうだ。


 本来であれば坂下が犯してしまうはずの殺人を、タイムスリップによって俺が肩代わりしてしまった。


 いや、違う。

 なにも変わっていないんだ。


 うめき声と共に動いていた高見が動かなくなった。

 まるで時が止まったみたいだ。



「逃げよう……!」



 いつの間にか立ち上がっていた坂下が俺に手を差し伸べてくる。

 時間が止まっていたというのは錯覚でしかなかった。


 動けないままでいると坂下は強引に俺の手を取って走り出す。

 思ったよりも力強くて、俺はその手に引かれるまま現場を離れる。


 俺は勘違いしていた。


 最初から逆だったんだ。


 


 そしてその逃走を助けているのが坂下だ。


 思い返してみても、未来の日付で坂下は一度も自分が殺したとは言っていない。


 坂下に手を引かれながら、俺はそのことにようやく気づいた。


 しかし、もうどうすることもできない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る