昨日が足りない ~なぜか同級生を殺したクラスメイトと逃亡しています~
北斗七階
一章
11/11
入学してから三年目の十一月にもなれば、ほとんど中学生は終わったようなものだ。
退屈な授業も、楽しくない学校行事もほとんどが過ぎ去って、受験を控えた俺たちはもう中学生というよりかは高校生未満と表現するほうがしっくりくる。
そんな十一月十一日、水曜日の放課後。
自習室で受験生らしく過ごした後、俺は教室へ続く廊下をほてほてと歩いていた。
完全下校を告げる校内放送はとっくに終わり、多くの生徒は連れ立って帰宅した。
そろそろ見回りの先生が校内を練り歩く時間が来る。
この時間の教室に生徒はもうほとんど残っていない。
部活をしていれば部室から、勉強していれば自習室や図書室から直接家路につくわけだから、わざわざ教室に戻るのは、忘れ物に気づいた粗忽者だけだ。
たとえば俺のような。
机に突っ込んだまま忘れていた手袋を取りに行く。
どうせ誰もいないだろうと、鼻歌まじりに歩いていたけれど、まだ教室の電気がついている。
こんな時間なのにまだ誰かいるようだ。
告白のシーンに出くわすと気まずいから、念のため一旦足を止めて様子をうかがう。
夕日の差し込む教室では誰かが中央に近い席に座り、うつむいている。
人影の手元はかすかに光を反射していた。
刃物のようにも見えたが、はっきりとはしない。
逆光ながらもよくよく見ていると、あれがクラスメイトの
彼女がこんな時間になにをしているのか、手に持っているものがなんなのかが気になってしまう。
しかしそれは余計なことだ。
どういう理由で残っているにしても、関わり合って得することはなにもない。
手袋のことは諦めて、さっさと帰ろう。
そう自分に言い聞かせても、嫌な予感がしてすぐに足が止まってしまう。
気にするな。
考えすぎだ。
教室に残ってキーホルダーを眺めているだけの可能性も十分にある。
まさか本当に刃物を持っているはずもない。
ましてやそれを手首に押し当てているなんてこと、あるはずがない。
だが相手はあの
クラスで知らぬ者はいない、いじめの被害者である女子生徒。
そんな彼女が教室でリストカットをはかったとして、それは突飛なことではないように思う。
どうして俺は教室にいるのが坂下翔子だと気づいてしまったのだろう。
後悔しても仕方がない。
結局俺は来た道を戻り、勢いよく教室の扉を開けて中に踏み込んだ。
珍客の派手な登場に、坂下翔子はあっけにとられた様子でこちらを見ていた。
その手には、長々と刃を伸ばしたカッターナイフが握られている。
やっぱり刃物だった。
想像というのはどうしてこう、嫌なものばかり当たるのだろう。
こんな予想が的中したってなにも嬉しくない。
さて次の問題はこれからどうするかだ。
互いに無言のまま、もうすぐ一秒が過ぎようとしている。
このまま何十秒も固まっているわけにはいかない。
かといって「やめたまえ」と言ってカッターナイフを取り上げる自分というのも想像できなかった。
「か、カッターナイフは長く伸ばすと使いにくいよ」
我ながらマヌケなセリフだ。
そうであることに気づいたのは全部言い終わってから、という部分に救いがない。
「刃、折れると危ないし」
名誉挽回とばかりに付け加えてみたが、恥の上塗りという感じが否めない。
坂下翔子が未だになんの反応も見せないことも気まずさに拍車をかけている。
彼女の髪型は全体的には短めだが、前髪だけは厚い。
そのせいで彼女の視線は読みづらい。
小柄な体格とあまり長いとは言えない手足は、どことなく小型犬を連想させる。
なんでこんなことになってしまったのか。
間違いなく、見て見ぬふりをしなかった自分のせいだ。
反省している。
なぜ声をかけてしまったのかは自分でもわからない。
多分、あそこで手首を切られたら俺の席にまで血が飛ぶからとか、その程度の理由だと思う。
「とりあえず下校しない?」
苦しまぎれの一言に、ようやく坂下翔子はうなずき、カッターナイフの刃を収めた。
校門を出たところで「さよなら」と言って坂下と別れた……という展開であればどれだけ良かっただろう。
うつむいたままゆっくりと隣を歩く坂下に歩調を合わせつつ、俺は後悔していた。
どうやら自宅の方向が同じらしい。
不運というのは重なるものだ。
できれば一人でさっさと帰りたいが、この状況ではそれもできないだろう。
坂下翔子は依然としてなにも言わない。
まったく親しくない男子にリストカットを止められてしまった事実を受け入れあぐねているのだろう。
俺だってこの不可思議な現実を受け入れかねている。
ただ、余計なことに首を突っ込んでしまっているということだけは確かだった。
できるだけ早くどこかで行き先が別れてくれないだろうか。
そんなことを期待しながら、坂下翔子と歩く。
この小柄で無口な女子は、我がクラスのいじめ被害者だ。
坂下翔子について俺が知っていることはこの程度でしかない。
特定のグループからいじめられている生徒がクラスか学年に一人はいるものだ。
せいぜい違いがあるとすれば、いじめられている人間がふさぎ込んでいるか、いじられキャラだと自認して明るく振る舞っているかの違いだけだ。
坂下翔子はもちろん前者に当たる。
「あの……」
不意にかすれた声が聞こえて、ぎょっとする。
それが坂下翔子の声だとはすぐにわかったが、想像していたよりも低い声だった。
「ひ、平尾くんはどうして、教室に……?」
坂下翔子が俺の名前を知っていたことに、また驚かされる。
だが質問の内容は実に常識的だ。
下校時間を過ぎた教室にいったいなんの用があったのか、という質問だろう。
そんなこと、坂下も本気で気になっているわけではないはずだ。
気まずさをごまかすために言ってみただけに違いない。
そして俺もまた同様の理由で質問に応えることにする。
「忘れものをして戻っただけだよ」
繰り返す。
坂下翔子は教室での立場が弱いクラスメイトだ。
持ち物の紛失は日常茶飯事。
足をひっかけるという子どもじみた嫌がらせを受けることもあれば、みんなの前で似てもいないお笑い芸人のモノマネを強要させられることもある。
休み時間や放課後には暴力を受けている、という噂もあるがさすがにそこまでは見ていない。
平凡な話で恐縮だが、俺はまったくの傍観者だ。
もちろん同情はする。
破かれたノートを見ると心が痛むし、弁当にジュースをかけられている姿はあんまりだとも思う。
みんなの前で心底恥ずかしそうに人気芸人のマネをする姿は悲劇的だ。
でも、だからといって俺にはどうすることもできない。
俺は坂下翔子の家族でも友人でもない。
たまたま同じ教室で授業を受けているというだけの関係である。
対するいじめの主犯格は自称とはいえ坂下の友達だ。
友達同士のことに赤の他人がくちばしを突っ込むのは野暮だろう。
これはもちろん、顔から火が出そうなほど恥ずかしい言い訳なんだけど。
「そう、ですか……」
ただの同級生でしかない俺に対してまで、オドオドと機嫌をうかがうような敬語を使う。
自分が誰かに怯えられるというのは妙な気分だ。
そんな状況にあっても、坂下翔子は学校を休まない。
俺の知るかぎり春から一度も休んでいないはずだ。
教職員や保護者に助けを求めたという話も聞かない。
だったらやっぱりあれは友達同士のじゃれ合いってやつなんだろう。
いじめなんて見間違いで、考え過ぎだったんだ。
なんて、これもやっぱり恥ずかしい言い訳なんだけど。
坂下からの質問は終わったようだ。
さっき何気なく観察したが、坂下の手首に傷跡はなかった。
リストカットをするのにも思いきりが必要になる。
何度坂下がそれを試したかは知らないが、すべて未遂に終わっているようだ。
自殺未遂のリストカットすら未遂、となると坂下は何一つ成し遂げられていない。
仮に坂下に思いきりがあるのであれば、手首を切る前にもっとできそうなことがあるはずだ。
けど、彼女にはそれがない。
だから今日のようなことが繰り返されている。
昨日もそうだったし、明日もそうなんだろう。
それが卒業までなのか、それ以降も続くことになるのかまでは想像もできない。
俺はぼんやりと赤信号を見つめて考える。
こんなこと、ありふれている。
いじめ問題も、リストカットも、今さら笑えないくらい平凡でありふれたものだ。
風呂場でカビを見つけるのと同じくらい簡単に、どこの学校でもいじめというものは見つけられるだろう。
問題はそれを根絶やしにすることができない、という点だ。
なにせ防カビ剤のような特効薬が存在しない。
これから先も俺の人生は続いていく。
だとすればこの傍観者という立場にもっと慣れておかないといけない。
近所で起きた交通事故を適当に聞き流し、
病死した親戚の話を上辺で悲しみ、
世界のどこかの戦争についてもっともらしい理屈を並べられるようにならなければ。
そうでないと生きづらい。
カッターナイフでブレザーのポケットを膨らませた坂下を見ていると、俺はそんな風に考えずにはいられなかった。
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