第22話

 池田さんの話を聞いて以降、僕は大学に行かなくなった。いや、行けなくなったが正しいかもしれない。現実から逃げずに向き合った矢早さんのように現実と向き合うと決めた僕は、まず何よりも最初に『声』を聴かなくてはいけない。そうしないと何も始まらないのだ。しかしそれは想像以上に困難で僕のなにもかもが消耗していく作業だった。だから僕はそれ以外のことは何もやる気が起きなくなったのだ。池田さんとのICレコーダーを何度も聞き返しては僕という罪の存在そのものが一体矢早さんにどうやって償うべきか、そればかりを考えていた。そしてあの夢を頻繁に見るようになった。それでも矢早さんの『声』は僕には聴こえない。次第に僕は食欲がなくなり、午前中はいつも体調が悪いので自然と昼夜逆転の生活になっていった。睡眠も浅くあまり眠れないようになった。池田さんは心療内科か学生相談センターに行きなさいと言っていたが、池田さん以外にうちの異常な家族関係を話す気はどうしてもなれなかった。それは祖父が怖かったからだ。万が一、祖父に心療内科に通っているなどとバレたらどんな目に合うか分からない。絶対、男のくせに甘えているとか言って暴力を振るわれるのは確実だ。それに池田さんのもう一つのアドバイスだったが、もちろん本などは一切読まなかった。いや、読む気が起きなかったのだ。それでも僕は最優先である現実と向き合うためにICレコーダーで矢早さんと父と母の高校生の頃の話を何度も何度も聞き返し、いつも嘔吐した。もちろん食事をしていないので嘔吐する内容物がないときは水を飲んでその水を無理やり嘔吐した。そんなことを繰り返す毎日が続いた。僕は矢早さんへの贖罪のことばかりを考えている。矢早さんなら笑って僕を許してくれるだろうか? 池田さんは何度も自分を許せと言っていたが、やはり矢早さんの『声』を聴いてから贖罪し償いをしないとそんな自分勝手なことは僕には許されない。僕の罪はそれほど深いのだ。そしてそのうち僕は自分への罪責感が大きくなり心が耐えきれなくなったのか、無意識のうちに刃の薄いカッターでリストカットをするようになっていった。このまま逃げたらどれだけ楽かと思うこともあった。だが僕はまたも現実から逃げようとしている自分が許せなかった。現実はいつも厳しく暴力的なものなのだ。受け入れないといけないと僕は決意を新たにする。しかしそんな決意とは裏腹に僕は日に日に精神的にも身体的にも弱っていった。そのような生活を続けているといつの間にか九月も末になっていた。いつも通り調子の悪い午前中に浅い眠りについていると、あの夢を見た。すると矢早さんは僕に向かってこう言ったのだ。「************」内容は聴き取れなかったが、僕は矢早さんの『声』を初めて聴いた。そして奪われてばかりで矢早さんに何も返すもののない僕は本当に自分がやるべきことを初めて理解した。

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