第30話 約束
――テルネリカは、窓より太陽を見る。
地平線へ沈みゆく姿を。迫り来る刻限を見続ける。
「……」
もうすぐだった。あと半刻も経たないうちに、使いの者が部屋を訪れる。
そうすればテルネリカは……。
「……っ」
震える手を、もう片方の手で押さえつける。
怖かった。恐ろしかった。心臓がバクバクと鳴り始めて、息をするのも難しくなりそうで。
――でも。
「――コノエ様」
テルネリカは、一人の男を想う。
初恋を想う。その横顔を、背中を想う。
そうすれば、震えは収まる。
胸に残るのは、温かい感情だけだった。
「……そうだ、コノエ様、どんな屋敷を買うのか決めたのかな」
その感情のままに、数日前コノエとカタログを覗き込んだことを思い出す。
二人であれが良い、これが良いと話した記憶。楽しかった思い出。
「……良い屋敷を、買って欲しいな」
テルネリカはそう思う。加えて、出来れば大切にして欲しいな、とも。
まだ家を持っていないというコノエが、最初に買う屋敷。コノエがシルメニアの仕事で稼いだ金貨で買う屋敷。……そして、テルネリカの
「私だと思って大切にして欲しいって思うのは、流石に少し重いかなぁ……」
自嘲するようにテルネリカは笑い――しかし、それが紛れもない本音でもあった。
たとえ、どんな形であろうとも。テルネリカはコノエの傍に居たかった。
「……」
コノエは、そろそろ都に戻ってるんだろうなと思う。
本当は、最期にもう一度挨拶をしたかった。もう一度、手を握りたかった。
でも、そんなことをする時間はなかった。
今日、コノエの元に金貨を送るためには、深夜のうちにこちらに移動するしかなかった。
「……コノエ様――」
名前を呼ぶ。沢山の、本当に沢山の想いを込めて。
思い出す。あの日のことを、何度でも思い出す。
――あの日、テルネリカは意味もなく、死にかけていた。
何もできずに、蹲っていた。身動き一つ取れなかった。
痛くて。苦しくて泣きたくて。
心なんてとっくに折れかけていた。
本当は諦めたかった。すぐにでも逃げ出したかった。
息すらできなかった。目も見えなくなった。
全部諦めて、見捨てて、己だけを助けてくれと言いたかった。
……でもテルネリカには出来なかった。
だってそんなことをすれば、父と、母と、兄と、三人の死が無駄になる。
強く、温かく、いつも民を想っている父だった。
美しく、優しく、民に誇られる母だった。
才に溢れ、明るく、民に愛される兄だった。
その三人が死んで、テルネリカだけが残された。
遺志を継げるのは、テルネリカしかいなかった。
家族が愛した民を、街を、テルネリカは守りたかった。
だから足掻いた。必死に足掻いて、叫んで、進み続けた。
痛みに堪え、歩き続けた。強くあらねばと、必死に顔を上げた。
……でも何もできなかった。
何も為せないままに、テルネリカは階段で死にかけていた。
無力感があった。後悔があった。絶望があった。
そしてそれ以上に――悲しかった。
愛する家族の死に、意味を残せなかったことが、どうしようもなく悲しかった。
口すら動かなくなったテルネリカは、ずっと胸の中で謝り続けていた。
父に謝っていた。母に謝っていた。兄に謝っていた。
ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいと。ただ謝り続けていた。
それしか出来なくて、己自身が怨めしくて。
テルネリカは、そうやって死ぬしかなかった。そのはずなのに――。
『――これは酷いな……死病か』
――そんなテルネリカを見つけてくれた人がいた。
テルネリカを救ってくれた。街を救ってくれた。愛する家族の死に、意味をくれた。
だから、テルネリカはそれだけでよかった。
あの日、コノエはテルネリカを抱き上げてくれたから。その腕が、暖かかったから。
……本当に、それだけでよかった。
テルネリカは、それだけで、この先の自分がどうなっても良いと思えた。
だから――。
「――」
テルネリカは、日が地平線に沈んでいくのを見る。
太陽がゆっくりと隠れていくのを、その目で――。
――でも、そのとき。
「……え?」
影が、見えた。
一瞬、ただの黒い点に見えたそれは――。
「――あ」
――ガシャンと、音がする。
影は、テルネリカのいる隣の窓を割って、部屋へ入ってくる。
割れたガラスが宙を舞う。日の最後の一筋を受けて輝いている。
その輝きの中で、影は顔を上げて。
「――コノエ様」
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
「――」
コノエは必死に息を整えながら、顔を上げる。
長い道のりだった。千キロ以上の道のり。
普段なら容易くとも、竜との戦闘の後で踏破するのは簡単ではなかった。体力も魔力も消耗していた。ギリギリだった。
沈んでいく日に焦り、疲労し上手く動かない足を無理に動かした。
魔力は枯渇して、それでも無理やりかき集めた。
「……テル、ネリカ」
コノエは、テルネリカを呼ぶ。一歩近づく。
少女を見る。そこに、確かにいる。
「……テルネリカ」
「コノエ様」
テルネリカは、白い貫頭衣のような服を着ていた。
治癒魔法の気配はない。始まる前だ。
さらに一歩、足を踏み出す。
テルネリカの全身を改めて見る。
「――良かった」
――間に合った。
テルネリカは、まだ傷ついていない。
「コノエ様……なぜ」
テルネリカが呟く。なぜとコノエに問いかける。
それが何に対しての問いかけなのか、コノエには分からない。
なぜ、ここに来たのか、なのか。
なぜ、テルネリカの場所を知っているのか、なのか。
それとも別のなぜ、なのか。
コノエにはテルネリカが分からない。
この期に及んでも分からない。テルネリカのために命を賭けて戦っても、竜を乗り越えた今であっても分からない。
――だから、そんなコノエに出来るのは。
――ただ、己の気持ちを伝えることだけだった。
「テルネリカ、やめてくれ」
「……え?」
「金はいいから、やめてくれ」
テルネリカは、そんなコノエに大きく目を見開く。
そして悲しそうな顔になって、でも、と呟く。
「でも、コノエ様。そうしないと私はあなたに何も返せない」
「……」
「恩が、あるのです。返しきれないほどの恩が。だから私は」
テルネリカの言葉。それは切実で、少し泣きそうで。
しかし、コノエはそんなの認められなくて。
「……違う。違うんだよ。そうじゃないんだ」
「コノエ様?」
――コノエは、生まれてからずっと、まともに動かしていなかった口を必死に動かす。
永く閉じていた口は重くて、何を言っているのか自分でも分からなくなりそうで――。
「僕は――」
――それでも、必死に言う。己が思っていることを。
そうだ、コノエが欲しかったのは、金じゃなくて。
「――僕は、物見塔の上が好きだった」
「……え?」
「君と二人で並んで、お茶を飲んだ。それが、好きだった」
ようやく、気付いたんだ。
それを、コノエはあの白雷の中に見た。
何度もあったわけじゃない。数えるほどしかなかったかもしれない。
でも、コノエは、それが好きになった。
暖かかった。初めて知った。
風は強くても、寄り添っていられた。
そうだ。それが、コノエが欲しかったものだった。
それだけが、コノエは欲しかった。
ずっとそうだった。アデプトを目指して。二十五年も必死に努力して。何度も死にかけて。
そんなコノエが最初に夢見たのは。
「いてくれるだけで、よかったんだ」
「……コノ、エさま」
――日本にいたころからの、夢はそれだった。
誰かに、傍にいて欲しかった。手を握っていて欲しかった。
「……だから、どうか」
「……はい」
「君が、いいと、その、言って、くれるのなら――」
……寂しいのが嫌だった。一人ぼっちが、嫌だった。
だから、必死に口を動かす。パニックになっていて、前も後ろもわからなくなりそうで。
それでも――。
「――そば、に」
「――はい!」
コノエの伸ばした手が、暖かいものに包まれる。
テルネリカの掌だった。小さな掌。
「――あなたが、そう望んで下さるのなら」
暖かな両手が、コノエの手を包み込んでいる。
コノエはいつの間にか俯いていた顔を上げる。すると目の前には――。
――ボロボロと涙を流して、でも微笑むテルネリカがいた。
「この身、御許に咲く
――それは、かつての続き。
そして、大切な、これからもずっと続いていく約束の言葉。
「――たとえ
黄昏時の部屋は、薄暗くて、でもテルネリカの濡れた瞳は、
コノエはその輝きに目を奪われて、少し頬が緩む。テルネリカも、目を細めて――。
――そして、それが。
今回の騒動が、収まるところに収まった瞬間だった。
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