第7章【1】

『――。愛してるわ』

 鈴を転がすような声がする。目を開くと、眼前に広がるのは鈍色の骸だった。

『アノヒトヲユルサナイデ』




   ――……




 息を呑みつつ起き上がると、空にはまだ月が輝いていた。肺が痛くなるほど乱れた呼吸を落ち着けるため、胸に手を当てる。冷えた汗が頬を伝った。

 ゆっくりと左目に触れる。光を失った瞳が見せた景色は、いつも最悪の結末だった。

 許さない。許すつもりはない。許されないのだから。



   *  *  *



 あれからよく眠れず、疲労も充分に回復したとは言えないまま私室を出る。いつも通りに待機していたユトリロとともに、ディーサがロザナンドを待っていた。

「どうしたの? なんだか顔色が悪いわ」

「いや。何かわかったか?」

 ロザナンドが話すつもりがないことは承知しているようで、ディーサはすぐに話し始める。

「あの魔法使いの核は、人間の宮廷魔法使いによるものよ」

「やっぱりな……」

「ついに直接に王宮が関わって来ましたね。王宮がいつまで勇者を待っていられるか……」

「お義父とう様もいつまで猶予をくれるか、ね。本当に一週間も待っていられるか怪しいわ」

 魔王としては、いますぐにでも人間の国に攻め入りたいところだろう。せっかちな魔王のことだ。ロザナンドが油断でもすれば、あっという間に軍隊の準備を始めるはずだ。

「できるだけ急ぐよ。ユトリロ、勇者パーティに報せ鳥を出してくれ」

「は」

 魔王が待っていられないとすれば、勇者たちを急かす必要がある。武具集めも、のんびりしているわけにはいかないのだ。

 ユトリロが報せ鳥を出すのを見守ると、ロザナンドはふたりに背を向けた。

「しばらくひとりにしてくれ」

「かしこまりました」

 魔王に手出しをさせるわけにはいかない。そうであれば、ロザナンドも手を抜くことはできない。人間のためではない。魔族の未来のために必要なことだ。

 王宮の端に位置する部屋の前で足を止める。ドアを覆う半透明な紫の壁に手をかざした。厳重に部屋を封印する壁を取り払い、周囲に誰もいないことを確認してからドアノブを回す。ここは、エルヴィ王妃の私室だった部屋だ。

 鏡台に置かれた箱に手を添える。これを使うことは二度とないと思っていた。エルヴィがロザナンドのために残した、彼の魔力を増大させる眼帯だ。

 手出しをするつもりはない。だが、備えておくに越したことはない。

 細かい装飾の施された眼帯で左目を覆う。ふと顔を上げると、自分の顔が見えた。

(酷い顔だ。だが、あのときに比べたらだいぶマシだ)

 ――本当にそうかな。

(うるさいな。黙っていてくれ)

 さっさと勇者パーティと合流しなければならない。もうアンブロシウスと顔を合わせる必要はない。残された時間は、そう多くないのだ。



   *  *  *



 ロザナンドとユトリロが転移魔法でマダム・キリィの酒場へ行くと、勇者パーティの面々はすでに出撃の準備ができているようだった。

「報せを受け取りました」ロレッタが言う。「今日はふたつの迷宮に行って武具を入手します」

「急いだほうがいい。残された時間は少ないよ」

 今回ばかりはロザナンドの挑発ではない。七人も承知しているという表情で頷いた。

 魔王の設けた期限は、あの魔王にしては随分と猶予を与えられたものである。魔王アンブロシウスはせっかちの短気だ。ロザナンドがいなければ、すでに人間の国は滅んでいただろう。

「まずは『ストリアの丘』へ行きます。アルトの役に立つような武具があるはずです」

 さっそくロザナンドは全員に転移魔法をかける。ストリアの丘がどこにあるかは知らないが、その地点の名を聞けば転移ができる。

 彼らが到達したのは、色素の薄い葉が揺れる木々が揺れる小高い丘だった。丘に背を向けて歩けば、美しさは見る影もなくなり、深く暗い樹林へと景色が変わる。

「こちらです。急ぎましょう」

 ロレッタに続く六人のあとを追いながら、ユトリロが辺りを見回した。

「幻惑の魔法が存在しているようですね」

「心配は要りません」ロレッタが言う。「アルトの幻惑除けの魔法が私たちには掛けられています」

「あんたたちにも必要なの?」

 アルトは目を細めてロザナンドを見遣る。ロザナンドは小さく肩をすくめて見せた。

「必要だとしたら、すでに気が触れているだろうね」

 アルトはつまらなさそうに、ふん、と鼻を鳴らす。憎まれ口を叩きつつ、ロザナンドとユトリロが必要とするなら、きっと文句を言いながらも幻惑除けの魔法をふたりにも掛けるのだろう。彼は彼で、ロレッタと似た者同士、お人好しな部分も感じられる。きっとふたりを見捨てるほど冷酷ではないだろう。

 勇者パーティは順調に魔物を倒して進んだ。ロザナンドとユトリロが手を出す隙はなく、その必要もなかった。連携の取れた戦闘が、聖なる武具によって能力値が底上げされていることを証明している。

 退屈のロザナンドがあくびをしていると、アルトが彼に向けて杖を振った。ユトリロが警戒したのも一瞬のことで、鋭く降り注ぐ氷の槍がロザナンドの背後で弾けるとともに、魔獣が断末魔を上げて砕け散った。

「いまのは僕を試したでしょ」

 不満げなアルトに、ロザナンドは軽く肩をすくめる。

「どうだろうね。きみのほうが反応が早かったんじゃない?」

 もちろん、ロザナンドは自分の背後に魔獣が出現したことに気付いていた。それはユトリロも同じことである。

 アルトは、ふん、と鼻を鳴らして唇を尖らせた。

「余裕なら自分の身は自分で守ってよね」

「殿下もあなたを頼りにしているのよ」ロレッタが微笑む。「ともに助け合いましょう」

「ロレッタがそう言うなら」

 アルトの表情が一変するので、ロザナンドは小さく笑う。彼はロレッタに対しては甘いのである。

(現状がゲームだったら、逆ハーレムエンドになってるところだな)

 ストリアの丘の主は、情報通りゴーレムだった。頑丈な岩の体躯も勇者パーティの魔法使いたちの前では無力で、ロザナンドはまた退屈のあくびをする。ロレッタによって破壊されたゴーレムの核が、砕け散って光となりアルトに吸収された。アルトの能力値を底上げする聖なる武具は、見えない形となって彼の力になったのだ。

「試してみてもいいよね」

 挑戦的な笑みで言うアルトに、ロザナンドは軽く肩をすくめた。

「お好きなだけどうぞ」

 アルトの澄んだ詠唱とともに杖の宝石が輝きを放つ。虹色に煌く光が雨となり、ロザナンドの頭上へと降り注いだ。それも、ロザナンドの張った防護の魔法に阻まれ無惨に散っていく。また肩をすくめるロザナンドに、アルトは悔しそうに顔をしかめた。

「いつか絶対に一発、入れてやる」

「楽しみにしているよ」

「次に急ぎましょう」と、ロレッタ。「次は『エルの湖畔』です」

 ロザナンドは即座に転移魔法をかける。彼としても、無駄話で時間を浪費するつもりはなかった。

 エルの湖畔は深い霧に包まれていた。数メートル先すら見渡せない中、キキッ、と甲高い鳴き声がする。バートが杖を振り上げた先に姿を現したのは、小さなギミックバットだった。バートはギミックバットに従魔術をかけたのだ。

「うーん、一匹じゃよく見えないなあ」

 バートは続けざまに二度、杖を振る。近くにいた二体のギミックバットにも従魔術をかけたらしい。

「無理をしないで」ロレッタが言う。「そんなに一度にテイムしたら魔力が尽きてしまうわ」

「これくらい平気だよ。僕にはこれしか能がないんだから、せめて役に立たないと」

 ロレッタの案ずる色が深まるが、バートは明るく笑って見せた。

 バートの従魔となった三体のギミックバットの視界は、他の六人にも感覚共有されているらしい。濃い霧の中、勇者パーティは確実に魔獣を仕留めていった。

 しかし、数メートル先も見渡せないほどの霧では、先へ進むだけでもひと苦労だった。その都度、ギミックバットに周囲の警戒に向かわせ、少しずつ進むしかなかった。

「みんな、止まって」

 フローラの呼び掛けに、仲間たちは足を止めて彼女を振り向く。

「敵が近付いて……嘘……なんなのこの数は……」

 絶句するフローラが言うが早いか、魔獣の気配が九人を取り囲んだ。それも、一体ではない。彼らは完全包囲されていた。

「向こうにはこちらが丸見えということか」

 忌々しげに呟いたバルバナーシュが剣を手にする。仲間たちも戦闘の構えになる中、ロザナンドはひとつ息をついて手を振りかざした。九人の頭上に現れた魔法陣から、光の槍が雨をなって降り注ぐ。一瞬の衝撃のあと、魔獣の気配は消え失せていた。

 七人の驚いた表情に、ロザナンドは軽く肩をすくめる。

「時間がかかりそうだったから、つい手を出してしまったよ」

 七人が呆気に取られている中、さっと霧が薄くなり晴れていった。開けた視界の先に、美しい湖が広がっていた。その中心に、陽を受けて輝く一本の杖が佇んでいる。聖なる杖だ。

 ロレッタに促され、イディが湖に近付いて行く。ゆっくりと踏み出した足は水面に沈むことはなく、小さく波紋を描きながら中心へと歩んで行った。イディが手を伸ばした杖は、まるで彼のために用意されていたかのように、彼にすんなりと馴染む。イディは満足げな表情を浮かべ、仲間たちのもとへ戻って来た。

「試してもいいかな」

 ロザナンドに問いかけるイディの表情は期待で輝いている。無邪気な子どものような表情に、ロザナンドは小さく笑って頷いた。

「お好きなだけどうぞ」

 イディが渾身の力を込めて振り下ろした杖は、美しい弧を描き、光の矢を形成する。しかしそれも、ロザナンドは手を振るだけで払い落した。傷を付けるどころか届きさえしなかった一撃に、イディは唇を尖らせる。

「殿下じゃあ効果がよくわからないや」

 イディが肩を落とす中、ロレッタがひとりの仲間に呼び掛けた。

「バート? どうかした?」

「うん……結局、僕はなんの役にも立たなかったね」

 バートは三体のギミックバットをテイムしていたが、魔獣に取り囲まれたとなれば、それはほとんど意味のないことだった。

「殿下がいなければ、僕たちはやられていたかもしれない」

「何もということはないわ」ロレッタが優しく言う。「あなたのテイムがなければ、敵に突っ込んでいたかもしれないもの」

「そうそう」と、フローラ。「私が気付いたのも、ギミックバットからの感覚共有だったんだから」

「時間はかかっただろうが」と、バルバナーシュ。「俺たちならぜんぶ倒せたはずだ」

 それでも表情の暗いバートの肩に、ロレッタが優しく手を添える。

「冒険をする中で、従魔術は必要不可欠。バートはとても頼もしい存在よ」

「うん……ありがとう」

 少し気を取り直した様子のバートに微笑み、ロレッタはロザナンドを振り向いた。

「殿下、助けていただきありがとうございます」

「時間がもったいないと思っただけだよ」

「次は手を出される前に倒す」エリアスが拳を握り締める。「俺たちだって、血の滲む鍛錬を積んで来たんだ」

「だったらもっと本気を出してよね」

 長居は不要、とロザナンドは転移魔法を発動させる。人間たちは王都に送り、ロザナンドとユトリロは王宮へ帰城した。

「武具はあと三個。明日で全部、回らせよう」

「はい」

 歩き出すロザナンドに続きながら、ユトリロは少し躊躇いつつの声で言う。

「その後はどうなさるおつもりなのですか? 勇者たちに魔王陛下を討伐させるおつもりですか?」

「どうだろうね」

「何をお考えなのかお聞かせください。私どもを信用していただいているのではないのですか?」

「話すことは何もない。目だけ開いて、口は閉じて任務に当たってくれ」

「は……」

 ユトリロが不満に思うのはよくわかる。目的もわからず任務を遂行するのは、多少なりとも躊躇いを生むことになるだろう。それでも、ロザナンドは口を噤まざるを得なかった。まだ、何もかも話すときではない。ただそれだけのことだ。





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