第1章【4】
大図書館の崩れた壁の向こうに、六体のゾンビが群れを作っている。ベアトリスは身を屈め、同じように瓦礫の陰から覗いているニーラントに言った。
「あそこに赤いドラム缶があるでしょう? あれを撃てば爆発するわ」
「爆発物のそばで群れを作るなんて……」
「この世界はどこまでもご都合主義のようね。撃ってみなさい」
ベアトリスに頷きかけたニーラントが、慎重に狙いを定める。ドラム缶にはエイムアシストが効かないため、少しでもずれてしまえばゾンビに存在を気付かれることになる。ニーラントが一点に集中してトリガーを引くと、弾けたドラム缶が爆発を起こしゾンビを吹き飛ばした。瓦礫に身を隠して爆風をやり過ごすと、ベアトリスはニーラントに笑いかける。
「上出来よ。赤いドラム缶を見つけたら、積極的に爆発させなさい」
「積極的に爆発させるって、こういう状況じゃないと許されない言葉ですね……」
「爆発物を気軽に扱えるのはいまだけよ」
「なぜそんなに生き生きとしているのですか……」
「ゾンビを爆発で一掃するのって爽快じゃない」
「まあ、それはそうかもしれませんが……」
「とにかく、これで先に進めるわよ」
辺りにはまだ砂埃が立っているが、すべて収まるまで待っていては時間がもったいない。ハンカチで口と鼻を覆いつつ、大図書館の脇を抜けた。
大衆食堂の陰に身を隠したとき、壁に寄りかかり倒れる者があった。駆け寄ったベアトリスは、小さく息をつく。
「自警団の者だわ……」
その男は青色の制服を着ている。この街の保安を担う自警団の一員のようだ。すでに事切れている。
ベアトリスが両手を組むと、ニーラントもそれに倣って命を捧げた。
「きっとひとりで戦っていたのね……。助けは間に合わなかったんだわ」
多くの被害者が出たことは、すでに明らかだ。ゾンビの出現は突然のこと。虚を衝かれた街が即座に対応できるはずはない。逃げ遅れた民は多く、現状を見る限り出動した自警団も壊滅したと思われる。街を治める領主の娘として、犠牲となった民を慮ると胸が締め付けられた。
「お嬢様。教会にはいまも助けを求める者がいます」
「……そうね」
もう一度だけ手を合わせ顔を上げたベアトリスは、団員の手元に視線をやり、あら、と呟いた。
「レーザーサイトよ」
団員の手から丁寧に銃を取り、ベアトリスはその部品を取り外してニーラントに見せた。
「レーザーサイトですか」
「エイムアシストと合わせてこれがあれば確実に上がるわ。忍びないけど、拝借しましょう。必ず戻って来てあなたを弔うわ」
団員にそう約束し、ベアトリスは立ち上がる。これ以上の犠牲を出さないため、民を救うため、いまは立ち止まっている時間はない。ひとつでも多くの命を守らなければならないのだ。
時計が十七時半を差した頃、ようやくセーフハウスが見えてきた。ベアトリスはダンスを習っていたがそれ以外の運動はからっきしで、ダンスに特化した体力しか持ち合わせていない。ゾンビを倒しながら進むのはダンス以上の体力を消耗し、セーフハウスに着く頃にはへとへとだった。
「やっとセーフハウスだわ……」
「さすがに疲れましたね……」
そのとき、ベアトリスが扉に手をかけるのを、ニーラントが険しい表情になって制した。ニーラントはベアトリスを背にかばいながら、ゆっくりと扉を開く。その隙間に向けて、ニーラントは言った。
「撃つな! 味方だ!」
扉の内側から、息を呑むのが聞こえる。ひと呼吸を置いてニーラントが扉を開け放つと、十数人の民が怯えた表情でふたりを見つめていた。
「ベアトリスお嬢様……!?」
ライフルを手にしていた男が、驚いた様子で声を上げる。建物の外に人の気配を感じ、ゾンビだと思って構えていたようだ。
「みんな、無事だったのね」
ベアトリスが中に足を踏み入れると、女の子どもが彼女に駆け寄って来た。街の祭りで何度か会ったことのある少女だ。
「ベアトリスさま! 助けに来てくれたの?」
「ええ、そうよ。みんな、よく耐えたわね」
微笑んで見せたベアトリスに、民の表情が崩れる。張り詰めていたものが切れたように泣く者もいる。昨夜からここで恐怖に打ち震えながら耐えていたのだろう。だが、やはり街の人口に対して避難した者の数が少ない。犠牲が多かったことは火を見るより明らかだった。
「もうすぐ助けが来るわ。あと少しの辛抱よ」
「ですが……」と、子どもの母。「いつゾンビが入って来るか……」
「ここは大丈夫よ。絶対にゾンビは入って来ないわ」
ゾンビが入り込まない理由は、民には言ってもわからない。だが、自信を湛えたベアトリスの表情に一様に安堵したように見える。
「それにしても、ベアトリスお嬢様」と、年老いた男。「ここまでどのようにしていらっしゃったのですか?」
「あら、私にはこれがあるのよ?」
そう言ってベアトリスがライフルを見せると、男は困惑した様子で続けた。
「ゾンビと戦っていらしたのですか?」
「ええ。でなければ、ここへ辿り着けないでしょう?」
男は言葉を失う。侯爵令嬢であるベアトリスが、ゾンビと戦いながらここへ来たことが想像できないのだろう。彼女は普通の侯爵令嬢であるため、信じられないのも無理はない。
「とにかく、もう少しだけここで耐えてちょうだい。すぐに助けが来るわ」
ベアトリスの登場は、民に希望を取り戻させる要因になったようだった。民の表情は明るくなり、ベアトリスに近況を話してくれた。逃げ遅れた民が多くいたこと、勇敢に戦った自警団のこと。
数十名の避難民に対して、このセーフハウスに置かれていた食料は明らかに少なかった。いつまでこの状況が続くかわからないため、食事を取らせるのは子どもだけにしていたようだ。その少ない食料をベアトリスとニーラントに差し出そうとした民をベアトリスは制した。自分たちは移動できる、他に食料のある場所に行くことも可能だ、と言って聞かせた。正直なところ、ゾンビと戦って来たためかなり空腹ではある。だが、民の命綱を奪うつもりは毛頭ない。一日くらい断食しても、民の辛さに比べたら軽いものだろう。
せめてこれだけでも、と民は寝床を丁寧に整えてくれた。奥の個室をふたりに譲ってくれ、体力を消耗したふたりにはありがたい気遣いだった。
ベアトリスは建物の奥の作業台で、ハンドガンにレーザーサイトを取り付けた。それを壁に向けて見せる。
「ほら、軌道がわかりやすいでしょう?」
「狙いがつけやすくなりそうですね」
「ゾンビは知恵がないから、レーザーサイトの光に気付くことはないわ。人に向けては駄目よ」
「承知しました」
民とおやすみの挨拶をしたあと、ベアトリスはニーラントに回復薬を飲ませた。寝る前に飲めば、目覚めたときに疲労を残さないはずだ。
ベッドに入ってしばらく。戦いで神経が昂っているのか、それとも昼が存在しなかったためか、ベアトリスはなかなか眠れずにいた。
諦めてライフルの手入れでもしようかと体を起こすと、ニーラントも起き上がった。
「あら、まだ寝てなかったの?」
「お嬢様より先に眠りませんよ」
「逞ましいことだわ。あなただって疲れてるでしょうに」
「私は後衛でしたので、お嬢様ほどは疲れてませんよ」
「回復薬のおかげでしょ」
おそらく、ニーラントは体力面よりも精神面の消耗が激しいのではないかとベアトリスは思う。ゾンビの出現という異常な事態に加え、それを討伐する羽目になるなど、ゲームの知識がない人間にとって地獄のようなことではないだろうか。ニーラントに多少なりともグロ耐性があるのは僥倖だった。
「お嬢様はゲームの中に転生したと仰っていましたが」
「ええ」
「それなら、私たちはその物語の通りに動いているのでしょうか」
真剣な表情でニーラントは問う。自分たちの挙動は物語に操られているのか、ということである。
「いいえ」ベアトリスは首を横に振った。「少なくとも、悪役令嬢ベアトリスが従者を連れて自ら教会を出るシナリオはないわ。私はシナリオ外の行動をしている。それはあなたも同じことよ、ニール」
ニーラントは少し安堵したように見えた。彼は自分の意思で動いているはずで、しかしここが物語の中の世界だと聞かされて自分の行動がシナリオに御されたものなのかと不安になっていたのだろう。ここまでの彼女たちの行動はシナリオに沿っていない。ベアトリスがニーラントを連れて教会を出た時点で、シナリオは崩壊してしまっている。
「私たちは間違いなくこの世界に生きる者で、自分たちの意思で動いているわ。ただ……ゲームの抑制力がある可能性は否めないわ」
「抑制力……ですか」
「つまり、私たちが条件を満たしていなくてもシナリオの通りに動かされることがあるかもしれないということ」
このゲームのシナリオには、いくつかのイベントがある。このままベアトリスとニーラントが自立した行動を取っていれば変わる可能性のあるイベントも存在している。だが、自分の意思で取った行動だと思っていても、抑制力に操られてシナリオ通りになる可能性もある。イベントが強制的に起こることもあるかもしれない。
「それはおそらく……私たちには逃れられないものよ」
「……では、その抑制力でお嬢様が死ぬ可能性も……?」
「大いに有り得るわ」
いまのところ、ゲームのシナリオに沿った出来事は起きていない。いまおそらくヒロインはオープニングの最中。ベアトリスに関するイベントはない。この先、ヒロインと出会ったときにふたりがどうなるのかは、いまはわからない。ベアトリスは、なりたくなくても悪役令嬢になってしまう可能性もある。
「それを避ける方法はないのですか?」
「……わからないわ。ゲームのベアトリスは、どのルートでも同じように死ぬから……」
「…………」
ニーラントは唇をきつく結んで黙り込む。彼はベアトリスがゾンビ化するシナリオに、強い反発を懐いているようだった。従者として当然の感情なのかもしれない。
「……ニール。もし私がゾンビ化したら、躊躇わずに私を殺しなさい」
ベアトリスの言葉に、ニーラントは目を剥いた。
「そうしてもらわないと困るわ」
ニーラントは応えない。応えることができないのだ。
従者が主人を手に掛ける、それはあってはならない大罪だ。いくらゾンビ化し民の脅威となったと言っても、主人を屠ることに躊躇いを持たない者はいないだろう。何よりニーラントは従順を人型にしたような従者だ。ゾンビ化していたとしても、ベアトリスを討つことはできないだろう。
「……ゾンビ化を治す方法はないのですか?」
「残念ながら、少なくとも私はその方法を知らないわ」
「…………」
「……生き残ってね、ニール。私が死んでも」
酷なことを言っているのはわかっている。だが、これを頼めるのはニーラントだけだ。自分の転生のことを他の者に話すことはできない。もし自分が破滅のルートへ進んだとき、ニーラントだけでも生き残ってもらわなければ困るのだ。
「……私ひとりで生き延びても意味がありません」
ニーラントが強い口調で言い、顔を上げた。
「お嬢様も一緒でなければ」
「…………」
相変わらず、悪役令嬢に投げかけるには似つかわしくない言葉だ。まるで攻略対象がヒロインに向けて放つような、そんな雰囲気を思わせる。
もし自分がヒロインだったなら、ニーラントは間違いなく攻略対象だっただろう、とベアトリスはくすりと笑った。
「ゲームの抑制力が働かないことを願うわ」
いまは、それしか言えない。
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