いつか

@itizi_mick

第1話

 ガツンとこめかみに衝撃が走るとともに視界がぶれる。かいていたあぐらの右膝の横あたりに硬いものが落ちる音。

 瞬間的に沸騰しそうになった感情に一瞬で蓋をして、酸素を燃やし尽くして鎮火した。長めの息を吐き出した後、目の前に立ち尽くす息子にぼやけた視線をやって、ゆっくりと笑いかける。

「大丈夫だよ」

 息子は、きっと私が鎮火したものを空気で受け取っていた。困ったような心配そうな気まずそうな、5歳の表せる最大の複雑な気持ちを顔に浮かべている。その顔に、なんともないよという言葉をのせた笑顔で笑いかけ、右側に落ちた眼鏡を拾い上げた。右のつるがするりと床へ落ちていく。

「……めがね、こわれちゃった……?」

「うー……ん、こわれちゃったけど大丈夫」

 遊んでいただけなのだ。私の膝に乗って、おもちゃをちょっと振り回していたら楽しくなってしまって、加減を忘れて私の顔にぶつけてしまった。ただそれだけ。子供のそれに怒るなんて、大人げなさすぎるだろう。

 台所にいた夫が何やら異変に気がついたのか、こちらへ早足で歩いてくる。私の手元を見て、子供を見て、私を見て、「ちゃんと謝った?」と子供に真面目な顔を向けた。

「ごめんなさい」と素直に謝るその頭をぽんぽんと撫でる。

 怒ったって仕方がない。


 眼鏡のつるはネジの部分も含めて根こそぎ本体から外れていた。ネジのポケットが少しだけ欠けていて、これはもうダメかもしれないと思ったが、ネジを外してもう一度外側から締めてみたら変に緩みはするけれど外れることはなかった。顔にかけてみれば、若干視界が変な気もするけれどという程度の歪みだけで、いつか直しにいけばいいかとため息混じりに思った。いつか、いつか。このいつかが積もり続けると、それは未来永劫へすり替わっていく。

 眼鏡が壊れたのは冬の真っ只中の日曜日だったが、生来の怠惰さはつるのぶら下がった眼鏡に冬越しを許し、気がつけばもう暦が春に差し掛かっていた。そもそも外に出る時はコンタクト一択の生活の中、仕事と育児に追われる日々で、わざわざ眼鏡を直しに行く気力をどうやって起こせばいいというんだろう。

 

 初春とはいえ、いや、だからこそか、まだ時折雪が降ったりするような天気が続く。家から一歩外に出れば顔の皮膚をひんやりとした空気が撫で、息子を自転車で送れば体が芯から凍えていく。その分屋外と屋内の気温の差が激しく、通勤列車で決して居心地がいいとは言えない微妙な温度に揉まれたあとは、朝のオフィスでコーヒーを飲みながらぐったりとする日々だ。

 デスクトップでなんとなくマウスをぐるぐるさせながら、仕事を始めなきゃなとぼんやり思っていたら、隣から快活な挨拶が聞こえてきた。

「おはようございます!」

「おはようございます〜」

 春から席替えを行なって、あまり話したことのなかった同僚に周囲を囲まれた。そもそも入社したのがこの冬だったから馴染めていないのも当たり前だ。隣になったのは、焦茶の髪を今風にボブカットにした可愛らしい年下の同僚で、いつも美しく伸ばした爪を色とりどりなネイルで着飾っている。

 その彼女にふと違和感を感じた。何がと具体的に言えなくて横目で観察をしていたら、その視線をキャッチしたのか彼女自身が謎を明かしてくれた。

「見てくださいよこれ、寒暖差エグすぎ!」

 そう言って顔の横にその綺麗な爪を引き連れた指を持ってきて、彼女が「これ」と称したものを引っ掛けるようにして持ち上げた。

「……あ、今日眼鏡なんですね」

 一人時間と称して抜いていた力を密かに体へ戻し、椅子の上で姿勢を正しながら笑顔を浮かべた。そうか、違和感の正体はこれか。ちょっと曇っている縁の太いおしゃれメガネ。

「そうなんですよ!もう電車でもここでも曇っちゃって前が見えないったら」

「眼鏡あるあるだぁ。え、てかそれって伊達ですか?」

「違いますよ〜ほんとのメガネです。コンタクト切らしちゃって」

「……あ、たしかに厚みが」

「私けっこう目ぇ悪いんですよね」

 なんとなく、隣から伝わってくる心を囲う垣根が今日は低い気がした。隣の可愛らしい同僚からは、いつもはどことない境界線を感じるのだ。

 気持ち体を隣に向けて、さて何を喋ろうかと考えるが、せっかくのチャンスを逃すものかという前のめりな焦りが、思考を軟弱にして口を先走らせる。

「あれ、あの、普段コンタクトなのにいきなり眼鏡にすると視界がブレません?」

 同僚は一瞬虚をつかれたように黙ったあと、笑顔を浮かべてくれた。

「わかります〜!なんかいつもより物が遠いし、メガネのフレームが視界に入ってくるし、いいとこなしですよね?」

 どうやら彼女の関心に刺さったようで、いつのまにか詰めていた息を細く吐いた。膝の上で強く組んでいた手からゆっくりと力を抜く。

「ほんとに、すぐ曇るし、嵩張るし」

「あと目が小さくなるのもいやでぇ」

「わかります。私も分厚い眼鏡してるので、絶対外で眼鏡しないろうにしてますよ。あと、つるが広がってきてたまに落ちることもあるじゃないですか。だから私いつも地震のときとかが不安で、眼鏡もコンタクトも荷物に入れてるんですよね」

 途中から、脳からはやめておけという指令が鳴り響いていた。けれどそれは、伝達物質が足りないのか、何かに阻まれているのか、指令した先へ届くことなく口はいつも止まらない。

 最後の言葉を同意を求める終助詞で終わらせたのに、同僚からその同意の空気は伝わってこない。代わりになんともいえない表情を浮かべた彼女は一言だけ返事をしてきた。

「そうなんですかぁ」

 そういえば、この同僚の鞄はとても小さかったように思う。何もかもが心配で常にA4サイズの鞄がパンパンな私とは大違いで、コンパクトなB6くらいの四角い鞄には何が入っているのか。少なくとも眼鏡ケースとコンタクトは入っていないに違いない。

 貼り付けた笑顔でにこっと笑って、同僚は自分の椅子に腰掛けるとくるりと前を向いた。背が低くなったと感じた垣根はまた高く伸びて、彼女の横顔を覆っていく。それを見ていられなくなって、そっと自分も前を向く。段々と大きくなっていく心臓の音。それが喉のあたりに迫り上がってくる気がして、右手で宥めるようにゆっくりとそこを撫で、そうしてぱんぱんな鞄の中に入っている眼鏡へ思考を運んだ。安易に怒れない相手に壊されたもの。それを直さずに持ち続けている自分。

 デスクに伏せて置いていたスマホを取って、メッセージアプリを立ち上げた。今日は確か、夫は早く帰っても大丈夫そうな日だった。仕事が重い日なのかそうでもない日なのか、前日の夜の態度でなんとなくわかる。息子のお迎えに代わりに行ってくれないかというお願いに、案の定、昼頃に「是」という返事が返ってきた。


「……ねじが強引に取れちゃったのは、ここで直しても元通りにはどうしてもなりません……前よりも取れやすくなってますのでご注意ください。新しいフレームが届くのは二週間後です。また取りにお越しいただくことになりますが、その際はこちらの引換証をお持ちくださいね」

 煌々と白く輝く照明は、ディスプレイにも壁にもカウンターにも働く店員にも、よそよそしい固さを投げかけている。しかし、店員の女性の柔らかな笑顔がその全てを覆していた。

 同じメーカーではあるものの、以前眼鏡を買ったのはこの店舗ではなかった。会社の近くの駅ビルにあるこの店に駆け込んで、衝動的に新しいフレームを買っている。柔軟な素材でできていて、つると眼鏡本体もネジではなく直接繋がったそれは、変に衝撃が加わっても簡単には壊れない。焦茶色の艶とその壊れにくさに一目惚れして、店に足を踏み入れた数分後にはそれを手に取ってカウンターへと向かっていた。

 衝動は衝動だった。子供の迎えを夫に任せ、仕事を定時で退勤し、その足でここにきた。何がそうさせたかと考えてもよくわからなかった。生える場所を間違えた雑草みたいに、時折、自分に合う栄養なのか風なのか、はたまた日当たりなのか、何かが合っていないと思い知らされる。それがすこしずつすこしずつ積み上がっていくと、まるで雑草がなんとか生きようと根を伸ばすように、こうして動く自分がいる。

 カウンターを挟んだ向こうから届いていた、淡々と落ち着いた、けれど決して冷たいわけでもない、不思議と心をほぐしてくれる声。それがいつの間にかやみ、その手元では壊れたメガネが丁寧に拭きあげられていく。服の袖や裾で雑に拭われてきたレンズはところどころに細かな傷がついているが、プロの手で磨かれたら、その傷さえ元々の仕様であるかのようにその存在感を小さく潜めてくれた。

「このメガネもかなり頑丈でしたけど、次のはもっと壊れにくいので、お子さんの手があたっても大丈夫です。気兼ねなく暴れさせられますよ」

 私も子供がいるのでわかります、と笑いながら繋げられた言葉と共に差し出されたメガネを手にして、少しだけ唇が震えてしまった。


 地元の駅に着いたら雨がぽつぽつと降っていた。自宅のアパートまで歩いて徒歩10分だ。この程度ならコンビニで傘を調達する必要もないだろうと、周囲で広げられる傘の間を縫って歩き出す。

 顔の皮膚に雨粒がぽつりぽつりとあたって散る。気持ち悪さよりも心地よさが勝って、睫毛に乗った水滴越しの眺めを飽きもせず見つめた。

 体温よりも低い温度を伴う雨粒は、けれどその芯の部分には凍えよりも温もりがあって、ああ、春が来たんだなとぼんやり思った。

 

 

 

 

 

 

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