死ぬために生きるから死んでくれ
チチパパ
第1話
生きるために生きることの何と虚しいことか。いつの間にか空になってしまったハイボールの缶を片手に、谷地愛子はそう思った。
四月一日、職場に新入社員が配属されたその日、彼女は新人の指導を任されなかった。同期の中で担当の新入社員を付けられなかったのは愛子だけだ。それどころか、彼女の一年後に入社した後輩は既に新人指導を任されている。
どうしようもなく仕事ができないわけではない。ただ、あの人に教育は任せられない。そんな空気が職場に漂っているし、彼女もそれを感じ取っている。先輩に「ドジっ子」という、拒絶する雰囲気もなければ捻りを加える愛着もないあだ名を付けられたのは、いつの話だっただろうか。
いつもはバスで通過する道を、わざわざ歩いて帰った。
いつもは飲まないハイボールを帰路の途中で買った。行ったことのないコンビニだったから、酒の売り場が分からず店内を三周してしまった。恥ずかしい。もう二十七歳なのに。
生きるために生きることのなんと虚しいことか、と思う。
自分が何のために働いているのかと尋ねられれば、生きるためとしか答えようがない。趣味も恋人も、仕事に対するやりがいもない愛子にとって、仕事とは人として生活を成り立たせるための行為に過ぎないからだ。では何のために生きているかと尋ねられると、もう仕事のためとしか答えられない。毎日六時に起床し、二十四時に就寝する。それが週に五日。残りの二日は体力を取り戻すために夕方まで寝て、五日分の食事の作り置きを仕込む。外出は極力しない。当然人にも会わない。まったく、生きるために働いているのか、働くために生きているのかわからない。強いて言えば、生きるために生きている。ああ、虚し過ぎる。いくら金を稼いでも、彩らせるような人生はどこにも無いのだ。
ほろ酔いの頭でそんなことをグダグダと考えながら、愛子は空になった缶を捨てようと周囲を見渡す。さほど広くないその道には、自動販売機はあってもゴミ箱は無かった。いくつか道端にペットボトルが捨てられているが、愛子にポイ捨てをするような度胸はない。仕方なく、彼女は缶を弄び始める。様々な方向からへこませては、元に戻す。意味のない動作の繰り返しだ。しかしワイヤレスイヤホンの充電が切れてしまった彼女にとって、それしか暇のつぶしようがない。なにせ愛子には好きなアーティストもいないのだから、普段はイヤホンを充電する必要がないのだ。
何の取り柄もない谷地愛子の余生が始まったのは、その時だった。
「あの……、アイドルって興味ありませんか?」
少し震えた小鳥のような少女の声が、愛子を引き留める。彼女が思わず振り返ると、そこにはピンク色の衣装を身にまとった女の子が立っていた。こういうのって、ロリータって言うんだっけ、と考えを巡らせる。しかしその思考は一瞬にして停止した。少女に似合っていないフリフリの衣装より、彼女の顔に、目が釘付けになったのだ。
多香良たからちゃんだ、と思った。零れ落ちんばかりの大きな瞳に、控えめな唇。スッと通った鼻筋。丸く愛らしい輪郭。ヒロインになるべくして生まれたような女の子。名前の通り、皆の宝物。そして、私の大好きな幼馴染。
黙ったままの愛子に対して、少女はあからさまに慌て始める。そして、マイメロディが持っていそうな手提げかばんを漁ると、一枚の紙を愛子に差し出した。
「こ、これ。私たちのグループのチケットです。明日このビルの地下でライブをするんですけど……」
その時になってやっと、愛子は目の前の少女がいわゆる地下アイドルなのだと理解した。しかし、だとしたら声を掛ける人間を間違えてはいないだろうか。だってアイドルのターゲットって、小太りの男性のイメージだ。
愛子は差し出されたチケットを見やる。グループ名だろうか。そこには空元気なポップ体で「pure・Fruit」と記されていた。愛子は自分に付けられたあだ名を思い出す。何の捻りもないネーミング。この子たちはあまり期待されていないのかもしれない。失礼ながらそう思った。
いつもの彼女なら、少女を傷つけないようにやんわりと断わっていただろう。しかし今は、少しやさぐれていて、ほろ酔いで、目の前の少女はあの多香良ちゃんにそっくりである。判断力が鈍ったとしても仕方のない話だ。
いつの間にか愛子はチケットを購入していた。開演時間が仕事と丸被りしていることに気が付いたのはその後で、愛子は翌日、人生で初めて自主的に有休を使った。
死ぬために生きるから死んでくれ チチパパ @pomtarow
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