『その対、番に在らず』
『雪』
『その対、番に在らず』
「君は『比翼の鳥』って知ってるかい?」
彼女がそんなことを口走ったのは、茹だるような暑さが続く真夏のある日の事だった。毎月バカにならない電気代を少しでも節約する為、申し訳程度にしか効かない型落ちの空調機は電源を抜いたままにしており、遮光カーテンで日差しを遮った薄暗い室内は涼しくないと暑いの中間ぐらい、なんとも形容しがたい気温で辛うじて保たれている。
先程までの行為による疲労が尾を引き、身体を起こして真剣に話を聞こうとするだけの気力など彼にはあるはずも無く、気だるげにその視線だけを彼女の方へ移す。一方の彼女はと言うと、汗ばんだ肢体の上に脱ぎ捨てられていたオーバーサイズのパーカーだけを羽織り、テーブルに放り出されていたシガレットケースをさらってベランダへと向かう。浴室の衣類乾燥機がフル稼働しているこの一室では無用の長物と化したベランダは彼女の専用スペースであり、建て付けの悪い網入りガラスの窓をカーテンと共に引くと、むせ返る程強い煙草の香りが室内に流れ込む。
口を開くのも億劫らしく、だんまりを決め込む彼に対して、その意図を知ってか知らずか、何やら含みを持たせた笑みを浮かべる。ベランダの手摺壁に体重を預けたまま、咥えた煙草に安物のライターで火を灯し、紫煙を曇らせながら彼女は続けた。
「『天にあっては願わくば比翼の鳥となり、地にあっては願わくば連理の枝とならん』白居易の『長恨歌』、その一節に登場した伝説上の生き物を指す言葉だね」
無造作に伸ばした墨のように黒く艶やかな髪を鬱陶しそうに掻き上げて、再び煙草をその口に咥えた。
曰く、その生き物は雌雄の個体が共に一つの目と羽しか持っておらず、番となって初めて大空を羽ばたく事が出来るようになる鳥なのだという。
あまりにも歪で不可解な生き物だと思うが、それが一体何だと言うのか。まさか自分達と一緒だとでも言いたいのだろうか。半ば冗談のつもりで呟く彼の言葉に、彼女は僅かに驚いたような表情を浮かべた。紫煙を雲一つ無い澄みきった青空に吐き出して、室外機の上に置かれたワンカップの空きビンを再利用した柄入れに短くなった煙草を落とすと、意味深な薄ら笑いを絶やさぬまま大きく頷いた。
「……そうだね、一対で無ければ不完全な生き物だなんて、本当に私達とそっくりだと思わない?」
「そっくりかは兎も角、少なくとも比翼連理って柄じゃないでしょうよ」
楽しげな彼女の問いに対し、下らないと投げやり気味に彼は答えた。どう考えたって自分達はそんな綺麗な関係に成り得はしない。出会ってしまったあの時から今この瞬間に至るまで、互いの醜いエゴを押し付け合うだけの関係は、利害の一致の末に生まれたある種の契約に等しい。どちらかが大きくバランスを崩すまで続けざるを得ない果て無きチキンレース。ロマンティックに言うのなら比翼連理とでも、運命共同体とでも、自分達の都合が良いように呼べば良いと思うのだが、彼自身はこの関係があまりにもドス黒い欲望に染まり過ぎていたことも正しく知覚していた。
「だから共依存の方が近いって? どっちにしたって私達の本質は変わらないよ。傍目から見て称賛されるか否か。違いなんて誰でもない『世間一般』とやらの一方的な決めつけに過ぎないんだから」
彼女は遮光カーテンを後ろ手に引き、室内へ引き返す。そのままシングルベッドの上で寝転んだままの彼に覆い被さるように、彼女が倒れ込んで来る。ずしり、と感じる人の重みと女性特有の柔らかさ、そしてふわりと香る煙草と彼女の匂い。彼の視線の先に映る底無し沼のように暗く濁る彼女の瞳から目が離せない自分に気付き、思わず渇いた笑いが溢れる。成る程、彼女の言い分はある意味正しいのかもしれない。
そして彼女の指摘した通り、この関係は決して褒められたものでは無いのだろう。いずれ破綻する事が分かりきった、お互いに不幸になる未来が約束される見え透いたその場凌ぎ。どうにかしなければならないはずなのに、彼らは決してどうしようともしない。
どちらからともなく、互いに唇を合わせ舌を絡ませる。彼自身が煙草を止めてからは、彼女とのキスは苦いという前の感覚が戻って来たような気がする、と思うようになった。初めの頃は好きにはなれなかったこの苦味も、不思議と今となっては嫌いでは無い。彼女の背に手を回し、押し倒すようにして互いの位置を入れ換える。彼女から名残惜しそうに唇を離すと、そのまま耳元へ近付けて囁くようにその言葉を紡ぐ。それは彼らに残されたなけなしの理性を焼き切るには充分過ぎる殺し文句であった。
彼らは決して過去を憂うことは無い。過去は過ぎ去ったものであり、今を生きる彼らに取っては何の意味も持たないからである。そして、二度と未来へと想いを馳せることも無い。それは出会ってしまったが故、既に位置付けられた未来は破滅であり、この未来を変えることなど出来やしない。彼らはそれを知らずとも、朧気ながら認識している。
だからこそ彼らは停滞を選んだのだ。いつか辿り着くべき滅びの未来。それを限り無く引き伸ばすただ一つの方法。彼らはお互いの存在と在り方を言い訳にして、今日もまた欲望の海に溺れ、怠惰の底へと深く深く沈んでゆくのであった。
『その対、番に在らず』 『雪』 @snow_03
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