2

 まぼろし坂は、北品川 六丁目にある。


 五反田駅と品川駅の中間にあたり、御殿山という地名からも、かつてそこが山だったことがわかる。


 その上り勾配は都内最高の二十九パーセントであるから、十メートルを歩けば約三メートルのぼったことになる。しかし、雨にかすむ大崎の灯りを背中に、その坂をようやっとのぼりきった彼女には、ひと息をつくまもなかった。



 マンションの前に男の影がある。

 それは傘もささず、この風雨のなか、濡れるがままこちらを見ている。


 しかし近づかざるを得ない。裏口から……とも考えたが、あちらのほうが暗く、狭く逃げ場がない。彼女は傘の中で目を伏せた。そして念のため、首からさげているペンダントスイッチをなかで引き出して、柄を持つ両手のなかで胸の前にしっかりと握りこんだ。


 そうして無事に、歩みを早め、目を合わせぬよう傘に隠れ。彼女はその横を通りすぎたが、



「由里子先輩…… ですよね」


 それは、背後から、彼女の名を呼んだ。



 ふりかえると、申し訳なさそうに会釈したそれは、会社の部下の夏目なつめ 慎太郎しんたろうだった。


 この雨の中、いつから立っていたのだろう。彼は濡れた笑顔を震わせて、それでも嬉しそうに歯を見せた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る