暗渠

第一章 黒い傘の女

黒い傘の女

1

 関東地方は予報通り、夕暮れから大雨になった。


 バスの中、由里子はフォーマルバッグから折り畳み傘を取りだして、膝の上に準備した。


 まもなく北品川に着く。


 乗客は、喪服の由里子と最後尾のシートに親子連れがいるだけで、バスは路面の水たまりをものともせず運行している。


 五反田大橋から大崎方向にむけて目黒川にならぶビアガーデンの提灯は、雨粒に立つ狐火の行列のような不思議として、あの女児の目にきっと輝いている。


 異世界に向けてひらいたその小窓を保つように、ひっきりなしに窓ガラスをぬぐっては額をつけて外をながめている彼女を見て、由里子は頬をゆるめた。



 こんな瞬間さえ由里子には奇跡であって、たまらなく愛おしい。


 本来なら自分は、もう、ここになかった命なのだ。








 湘南の瑞泉寺の帰り、途中下車した由比ヶ浜で奇跡のような虹をみてから、雨雲と彼女の追いかけっこは始まった。


 列車が東に向けて由里子を運び、追うように雲は厚みを増した。


 傘をひらいた由里子を残し、バスは去る。後部に少女の赤いフードの影を見送り、傘の内から見上げる自宅マンションは、いつものまぼろし坂を川へと変えた雨雲の下にある。


 黒いパンプスのつま先が決意を固め、躊躇まよわず踏みこむと、冷たい水が中まで満ちる。


 しかし、誰にとなく ――しかし傍にいる伴侶にむけるように── 由里子は苦笑して、


「……わかってる。たしかに今日は長靴だったね」


 そうつぶやいた。久しく無かったその内なる邂逅かいこうが由里子に嬉しくないわけがない。


 その鼓動は熱く、重なるようにして今、彼女の心臓のなかにある。



 はてなく続く鼓動いのちの螺旋が交わることを奇跡とよぶなら、それはあの時ふたりが出会った最初から、そして今でも、彼女を内側から生きよと押す。


 その心臓の暖かさを風から護るように、傘をつよく握り、両の拳をおしあてて、ふたりであの中学校の坂を登ったときのように、一歩、そしてまた一歩、傘を盾にした女が風に逆らい、傍目にはひとり雨のまぼろし坂を登った。


 





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