何でも起こるこの世界で
@yagiden
第1話 電車の夢
揺れる座席。流れる景色。一定の間隔で鳴る音。
気がつけばここは電車の中。高校生の頃、通学に利用していた電車の内装だ。
切符を買った記憶はない。定期券もとっくに失効しているし、持ち歩いてるわけもない。というか、改札を通ってさえないはずだ。まして、家も出てない気もする。歯磨きとか洗面とか、朝支度もまだだ。
そうだ、つまりこれは夢。特有のもやがかかった感覚もある。そうと認識できたから明晰夢というヤツだ。働いていた頃によく明晰夢を見ていたのが懐かしい。
経験上、明晰夢はこれが夢だと自覚できた時から始まり、視界が真っ黒になり意識が覚醒した時に終わる。昔はこの特別な瞬間をなるべく長引かせようと色々工夫していたけど、仕事を辞めてストレスから解放された今となっては焦る気持ちはない。この電車の揺れに身を任せるのも良いと感じていた。
周囲に目を向ける。二両編成で進む電車の乗客はあまりいない。先頭車両にいるのは私を含めて二人。ガラガラなのにすぐ隣にセーラー服を着た女の子が座っている。次に後部車両を覗くため身を起こそうとした。けど、身体が動かない。首と目が少し動く程度だ。まるで首から下に神経が通っていないかのように微動だにしない。不思議な感覚だ。今までにない体験。
私は半分動く事を諦めて目を閉じる。大抵、夢の中で視界を遮断すると意識の覚醒が早くなる。その起きるか起きないかの境目で閉じた目を開けると夢の場面を変える事ができるけど、それを応用してこの金縛りを解く事ができるんじゃないか、という狙いがあった。
目を開ける。どうやら成功したようだ。身体は動くし立ち上がることもできた。こうなってしまえば、その気になれば空を飛ぶこともできるし壁抜けもできるだろう。いつもの夢の中だ。ただでも、今回はゆっくりしてみたい。思えば明晰夢の中でゆっくりするのは初めてかもしれない。いつも、十全にこの時を楽しまなくちゃいけない、と思っていたからだ。
私は座席に浅く腰掛け女の子の肩に腕を回した。肩の細さを確かめながら風景を眺めると、
「あれ⋯⋯?」
気がかりがあって声が出た。明晰夢の中で声が出ること自体珍しいことだったけど、それよりもおかしなことが起きていた。
流れていく田園風景の中にちらほらと猿がいる。点々とあちらこちらにいて、その全てがこちらを見つめていた。電車を目で追っているというより中に座る私達を見ているような気がする。よくよく見ると笑っていた。人のように表情で意思を表している感がある。
あれには意味がある、そういう直感があった。何か役割があって存在しているのだ。付け加えて、隣の女の子も異常なほど震えている。見てみると顔が蒼白になり涙まで浮かべている。他の乗客は眠っているかのように虚ろだ。
電車と猿、そして夢。私はある単語を思い浮かべた。
『猿夢』
車掌である人形の猿に、夢の中で惨殺されるという都市伝説。猿夢の中で死ぬと現実でも死ぬ。今、私はその中にいるのかもしれない。———というテイストの明晰夢。
今、この電車の中で一番前に座っているのは隣で震えている女の子。つまり次に殺されるのはこの子で私はその次か。本気にしてはないけどなんだかんだ怖い。
私はとりあえず立ち上がった。ただ何をしていいかはわからない。目を覚ましてここから脱出することはいつでもできるけど、そうしたらこの子は殺されてしまうだろう。それはちょっと後味が悪い。いつもなら怖い夢を見た時はすぐにめを覚まそうとするんだけど、しばらくは流れに乗ろう。
「た、す、けて⋯⋯」
涙に濡れた眼と眼が合った。
私は強く頷き、女の子の唇にキスをした。女の子は動き出した。
「え? え? ⋯⋯え?」
訳がわからないといった様子。瞳に溜めた涙をそのままに私を見たり、自身の口を触ったり、周りを見たり。
「まあまあ、とりあえず落ち着こう」
「あ⋯⋯。はい」
金縛りが解けて良かった。じゃなかったら私はただの変質者だ。
「自己紹介しよう。私は望月真奈。この風景の街に住む人です」
「⋯⋯私は、って、い、今、私にキスしましたよね?」
「したね」
「え? したねって⋯⋯。それだけ?」
「まあまあまあ、金縛りを解くためだったから。それは置いておいて。その制服、北高のだよね。てことはこの街の人?」
「そうですけど、そんなことどうでもいいんです! ココやばいんですよ。猿夢なんです! 私、昨日も同じ夢を見て、人が殺されたんです! 今日は私何です!」
「あーやっぱり、そんな感じなんだ」
「ひ、他人事じゃないですよ! 次はあなたですから!」
溜まりに溜まった感情を吐き出してる感じか。女の子に大声で詰め寄られるのって、何か新鮮だ。
「き、聞いてますか! ホントに、人が殺されてたんですよ! 猿夢わかりますか!? ねえ!」
切羽詰まって一度引いた涙もまた流れている。流石に可哀想だな。とはいえ現状をなんとかする術を知らない。
「ここが猿夢の中ってことはわかるよ。本当だとしてもただの夢だとしてもね。それは理解してる。でも、多分今の状況はその本筋からはズレてると思うよ」
「⋯⋯?」
「ここから抜け出したいよね? じゃあ二人で協力して脱出しようって話し。だから落ち着いて」
「き、協力って、無理です。無理ですよ! だって、あんな⋯⋯っ」
「落ち着いて。またキスするよ?」
「え、あ⋯⋯、はい」
落ち着いてくれた。ここで大人しくならなかったら、またキスできたんだろうか。
「よし。じゃあ昨日のことを聞きたいんだけど、君は人が殺されてる所を見たの?」
「み、見ました。そっちの、斜め向かいに座ってた人が死んだんです。前の運転席から猿が出てきてその人の前まで行って、長い釘みたいなのを何度も刺してました⋯⋯」
「その人は無抵抗だったの? 金縛りにあってたとか」
「多分そうです」
「なるほど。じゃあやっぱり猿夢の本筋とは違うね」
「違うってどういうことなんですか」
「だって動けるじゃない。それに二人もいる。抵抗できるってことだよ」
「それはそうですけど⋯⋯」
腑に落ちない様子。言いたいことはなんとなくわかる。
「楽観し過ぎって思う? でもそれでいいと思うよ。ここは夢の世界だから、きっと思い込みが一番の敵であり味方だと思うんだよ。金縛りが解けたのだって感情を動かしたからだしね」
何かしらの思い込みのせいだ。
「思い込みですか」
「見てもらうのが一番かもね」
明晰夢の中では何でもできる。ここもそれに似た空間なら、普段夢の中でできていたことも可能なはずだ。
私は軽く握った右手を背中にやり目を閉じた。その手にナイフの柄の感触があるのを想像する。
ぼんやりとした熱が発生したのを認識できたので目を開けた。これで半分。次に『熱』を握った手を視界に入れないようにして掲げ、座席に向かって振り下ろした。
「できたかな」
右手と座席を確認する。『熱』は確かなナイフの柄になっており刃もしっかり付いている。であるなら当然ナイフは座席を切り裂いていた。
「それ⋯⋯」
女の子は控え目に指を差す。
「うん、今作った。想像でね」
「そんな事が⋯⋯」
改めて手に持ったナイフを視認する。何もない所からナイフを出す技はよく夢の中でやっていたことだ。と言ってもいきなりパッと出すことはできなくて、視界の外で『ある』という感覚を掴む、という工程を踏まないと私はできない。それに自分で知っているものしか出せないので、例えば拳銃を出すにしてもその見た目だけのものは出現させることはできても、実弾が出て行くのは滅多にない。見た目は想像できても引き金の硬さは想像できないからだ。
「これで反撃もできる。あとは猿が来るまで座って待ってようか」
「そんな悠長な」
そう反応しつつも、女の子は隣に座ってくれた。
「名前、教えてよ」
「⋯⋯⋯⋯、水上夏帆、です」
「そう、夏帆ちゃん」
完全に警戒した様子だ。さっきまでの取り乱した感じからは変わって大人しそうで自信なさそうな風貌。これが素なんだろう。
そんな夏帆ちゃんの肩に腕を回す。
「⋯⋯はあ」
訝しみと困りと疑問が混ざったため息を吐かれたけど、振り解かれはしなかった。
その肩は時折震えている。死の恐怖というのはそう簡単に拭い去ることはできないようだ。
「夏帆ちゃんは北高の何年生?」
「二年です」
「じゃあ十七歳?」
「はい」
「学校は楽しい?」
「⋯⋯まあ、はい」
「そっか。じゃあ、まだ死にたくないよね」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯⋯まあ、はい」
最後の問いには、長い間の後に特に消え入りそうな声で答えてくれた。
死にたくないという切な想いがある間、というわけでもないように私は感じた。いや、それはただの私の願望というか理想のようなものかもしれないけど。
「そういえば、昨日はどのくらい時間が経ったら猿が来たの?」
「昨日は終点に着いて電車が止まったら来ました」
「なるほど」
電車の外を見ると、田園風景は抜けて広い河川敷が見える。到着までは大体十分弱といった所か。田んぼ区域の所に無人駅があったけど停車しなかったから、この先ある二つの中間駅にも停まらないだろう。と考えると時間はもう少し早まるか。⋯⋯いや、どっちにしろ学生の頃の体感時間から来るものだから、正確な時間は求められない。ここは夢の中だからね。ちなみに河川敷にも猿は居て、キャッキャという声が聞こえてきそうなほど楽しそうに遊泳している。
「随分楽しそうにしてるよね」
「え? ああ、あの猿⋯⋯」
「私ね、子供の頃猿と本気の喧嘩をしたことがあるんだよ」
「はあ」
「強かったんだけどさ、初めて闘うってことをしてすごく興奮したのを今でも覚えてるんだ。夏帆ちゃんは何かと闘ったことはある?」
「闘うって⋯⋯、ないですよ、そんなの」
「別に殴る蹴るみたいなことだけじゃなくて、ゲームの対戦とかでもいいんだよ、勝ち負けを決めることなら」
「ないですね。⋯⋯⋯⋯自分にだって勝てないですから」
「ふうん? その猿はさ、幼少期の私と互角だったんだよ。互角の勝負ってのは、やっぱり楽しいんだよね。どんなにくだらないことでも、意味があるんだよ。夏帆ちゃんもそういう経験をするとわかるよ」
「そうですか」
面倒くさそうに返答した夏帆ちゃんを最後に、しばらく無言が続いた。夏帆ちゃんはどこか不満気に口を曲げていて、私は外の景色を眺めながらもたまに横目にそれを見ていた。
猿夢の中とはいえ、こうも何も起こらないと普通に電車に乗ってるだけなんだと錯覚してしまう。女の子を横に侍らせて電車の揺れに身を任せているのが、どこかデートでもしてるかのように感じた。
ちらりと横を見ると、夏帆ちゃんはムッとしている。何か言いたげで、それを言おうか迷ってる、そんな感じ。それも相まって、非常時だけど日常の中にいるかのようだった。
沈黙が続いたのち、夢ならいいか、と夏帆ちゃんの唇からそんな音が聞こえて、
「⋯⋯今、何か偉そうなことを言ってましたけど」
と、私を一瞥してから前を向き言葉を続ける。
「それって何かに役立つことなんですか。ただ優越感に浸る為だけの経験談でしかないですよね」
とげのあるその物言いが嬉しい。
「⋯⋯だとしたら?」
「他人を使うのはやめてください。そんなに誇れることなら、自分で思っておくだけでいいですよね」
夏帆ちゃんは独り言のように言い放つ。私のことを、言葉を話す体のいい機械かと思っているかのような、他人に気を遣わない態度だ。これが夏帆ちゃんの本調子なら、それでいいと私は思う。
「私はただ、お勧めしただけなんだけどな」
「余計なお世話ですし、その上から目線が鼻につくんですよ。⋯⋯あなた、何歳何ですか?」
「二十四歳だよ」
「大学は?」
「行ってないよ?」
「だったら社会人六年目ですか。嫌なこと、沢山あったんですよね? だから私みたいな社会を知らない高校生を下に見て自分を慰めようってわけですか。自分が嫌な思いをしたから、お前も同じ思いをしろって、そういう精神なんですよね。自分で自分を嫌にならないんですか?」
「会社はちょっと前に辞めたからそんな風に思ってないよ」
「ああ、脱落者だったんですか。その癖私に偉そうなこと言ってたんですか? 恥ずかしくないんですか?」
「全然恥ずかしくない。むしろ気持ちいいよ」
「意味がわからないんですが」
「夏帆ちゃん、急に饒舌になったね」
「別に、これが素ですが」
「もしかして、自己を否定されたと思った?」
「余裕ぶってますけどね。何も無いのはあなたなんじゃないですか? だから会社を辞めちゃったんですよね?」
「かもね」
「なら偉そうにしないでください」
随分言葉の応酬をしてしまった。今の私だから夏帆ちゃんの言葉を気持ちいいと思えるけど、働いてた頃の私だったら夏帆ちゃんの言葉は結構傷ついてたと思う。社会経験もないのに割と芯にダメージを与えられる言葉の選択をできるのは、よほど想像力が高いのだろう。もしくはたまたまか。
なんとなく、この子は社会に出てから苦労するタイプに見える。こんなことを言ったらまた、偉そうなことを言うな、とか言うんだろうか。
「ちょっと、スッキリさせてもらいましたよ。ありがとうございます」
礼の言葉も独り言のように呟かれた。
ずっと、本音を隠して生きてきたのかもしれない。隠すから個性が無になる。周りの人からも軽んじられる。安易な想像だけど、そうだとしたら共感できる悩みだ。だからかわいいし暴言が気持ちいい。
「頭なでてあげる」
「やめてくださいよ」
ぴしゃりと言いはねられ、夏帆ちゃんは私の腕を枕にして座り直した。これはつまり触ってもいいということだろうか。そう思ったら睨まれた。
「こんなこと、夢の中で、赤の他人にしか言えないことですから」
「そう」
言いたいことはわかるから、深くは聞かない。夏帆ちゃんは猿夢の中だというのに目を瞑り、深く息を吐いた。
「今から話すのは、諭そうとかじゃないから聞いたり聞かなかったりしていいんだけど、私が会社を辞めたのは私の素をそこで出すことができなかったからなんだ。今にして思えばなんだけど、素が出せなかったのは社会だからじゃなく、その場の世界に飲まれてしまったからだと思うんだよ。重く見すぎてた。要は自分の意識次第? 取り繕わないで接してみれば案外上手くいく、みたいな、そんな感じ」
まとまりが悪いか。ただまあ雑でも夏帆ちゃんには伝わるだろう。
「赤の他人にいきなり肩を回す人は、どこにいても上手くいかないと思いますけどね」
「ええ? そんなことないよ。高校生の頃まではそれで上手くいってたし。むしろそれを封印したから社会でダメになっちゃったからね」
「変な人ですね。⋯⋯じゃあ私も独り言を言わせてもらいますけど、素を出すにしても保険が必要なんですよ。あなたのは見方を変えれば面白味がある素ですけど、私のはただの捻くれたガキですから、嫌われて終わるだけなんです。素を出すにしても、それ以上は落ちないっていうストッパーが必要なんです」
「ストッパーか」
「⋯⋯⋯⋯あなたのような、変な人が友人にいたなら、思い切って素を出せるかもしれないですね」
たとえ素を出して嫌われたとしても、その変な友人だけは嫌わないでいてくれる、という保険、ストッパー。中々居ないだろうね。
「まあなんにせよ、ココを出てからだね」
「そう、ですね。⋯⋯そろそろか」
中間駅は全て通り過ぎた。後二分もしないうちに到着するだろう。
ポーン、と車内に音が鳴り渡る。ビクッと夏帆ちゃんが震えたのが回した腕から伝わってきた。
『次はぁ終点、抉り出しぃ、抉り出しぃ』
特有の間延びした声で聞きなれない言葉が放送された。
「抉り出し⋯⋯、昨日は串刺しでした。この後到着したら猿が出てくるんです」
夏帆ちゃんは気丈に振る舞っているけど、その声は震えていた。
「ど、どうします? 立って待ちますか?」
「座ってようか」
「は、はい⋯⋯」
膝を震わせ、汗が出ている。結構参っているようだ。
「夏帆ちゃん。落ち着いて」
「で、でも」
夏帆ちゃんの頭を私の肩に寄せる。
「大丈夫だよ。夏帆ちゃんは全部私に任せて、ここに座ってるだけでいいから」
「なんで⋯⋯、こ、怖くないんですか」
「ぜんぜん、大したことないよ。だから私を信じてて、ね?」
優しい声を作って言うと縋るように頷いた。
電車が停まるまで夏帆ちゃんを抱いて待つ。車外には街中だというのに、道路や家屋の屋根に相変わらず猿がいる。皆こっちを見て笑っているのでこちらも微笑んで返した。
電車がホームに突入する。その速度は遅くなっていき、遂には停まった。
『到着ぅ、終点、抉り出し』
車両の先頭には、いつの間にかそいつがいた。
人のような顔つきの猿だ。身体は完全に人、車掌の格好だ。想像通りの猿夢の猿。
「違うよ。ここは広並駅だ」
私は立ち上がって言う。存外怖くないのは夏帆ちゃんがいてくれるからか。猿も窓から見てるけど。
『おやおや、動けるのですか。貴女も、貴女も』
杖ほどに長い真っ黒の釘の先を向けて猿は言う。昨日の『串刺し』で使った得物はあれだろうか。
『そちらの貴女。昨日は随分と良い表情で泣いていましたね。殺りがいのある獲物だと、どう苦しめてやろうか、とそんなことを考えているとわたくし、一睡もすることができませんでした』
丁寧な言葉遣いでもその言動は残虐そのものだ。
「うぅぅ⋯⋯」
「でもできないんだよね、それ」
怯える夏帆ちゃんを庇うように、ナイフの切先を猿に向ける。
『貴女は明日の⋯⋯。この世界で動ける人間ですか。しかも武器持ちとは珍しい。ですがこれまで動ける人間と出会わなかったわけではないのですよ。動ける人間は、皆貴女のように抵抗してきましたがね、その全てをわたくしは殺ってきました。どうやったかわかりますか?』
猿が言い終わると、プシュー、と空気が抜ける音と共に片側のドアが全て開いた。その後小猿たちが数匹車内へと入り込んでくる。
『動ける人間というのはね、そう珍しくないのですよ。そのような人間に出会したときに出番となるのがこの子らでしてね。まあ簡単に言ってしまうと、数匹がかりで物理的に人間の動きを止めるのです。さあ、お前達。あの人間の動きを止めなさい』
その言葉を受け、弾かれたように猿は私に向かってきた。手や脚、首に猿は組みつく。
『さあ、これでもう、貴女は動けない。まずは貴女からサクッと殺りましょう。そしてその次は貴女だ。貴女は念入りに殺りますから、覚悟はしないで待っていなさいね』
「も、望月さん! 大丈夫なんですよね!?」
「大丈夫だよ。だって——猿はそんな力持ちじゃないから」
私は何のことはなく、猿を一匹ずつ引き剥がす。その際引っ掻かれはするものの、大した痛手にはならない。痛みはあるけど、経験した通りの痛みだ。
『え⋯⋯?』
「えって、あなた猿なのにわからないの? 猿に人を抑え込めるほどの力は無いんだよ」
そんなことは身に沁みて分かっている。
「夏帆ちゃん、さっき言ったでしょ? 私、猿に勝ったことあるって」
「だ、だからなんだって言うんですか」
夏帆ちゃんも、そこまで怖がってないかもしれない。怖いという演技、っていう言い方は語弊があるかもしれないけど、それに似た、場にあったリアクションをする、という常識に囚われた感情でさっきは怖がってた、そんな感じ。まあ、ゼロか百じゃなく、それぞれ持ち合わせての反応だと思うからどっちとも言えないけど。けど、夢の中じゃ怖がったら負けだ。きっと怖いと思うほどに、こいつは強くなる。
「もしかしたら、この猿たち、嫌々人間を襲ってるのかも? ホントは嫌だけど仕方なく命令を聞いてるとしたら?」
「何ですか急に」
「急じゃないよ。もしそれが本当なら、私たちが優勢になった瞬間から、この猿たちはこっちに寝返るってことだから」
「⋯⋯ホントに?」
そんな事はない。そんな都合のいい話はない。でもここは夢の世界。思い込みで悪い事も起これば良い事も起こる。
「ま、そうでなくても、私があの猿を殺せばいいだけだよ」
『よく言いますね。貴女人間でしょう。人間はこの猿どもより大きい存在を殺さない。忌避するようにできている。それがどんなに自らに危害を加える者でもね。禁忌、というものです』
「猿のことを知らなければ、人間のことも知らないんだ。人は人を殺すよ」
私は猿に向かって歩く。殺すぞ、という目つきで、目は逸らさない。死へのカウントダウンのつもりで、速度は緩めない。安っぽさや作り物っぽさ上等で、自分の士気を高める。
他の猿は黙って私を見つめていた。窓の外の猿もじっと状況を見守る。
意識を尖らせる。気をつけるのは猿の持つ釘。突き以外は怖くなく、突きをするなら相応のモーションがあるはずだ。その動きは見逃してはいけない。
そろそろ相手の間合いに入ろうという頃。一歩で相手の間合い、二歩で私の間合い。そこで私は立ち止まる。
『⋯⋯来ないのですか』
「いつ行こうかな、って思って。あ、怖かったらそっちからきてもいいけど」
『何がしたいのやら』
猿は人のように肩をすくめた。
一メートルほどの距離を取ったまま互いに見合う。
「夢って言うのはさ、いつの間にか終わってるものなんだよ。だから張られた伏線が回収されないまま、てことがよくあるんだよね。今で言うと猿が寝返る、とかさ」
『⋯⋯それが?』
「ううん、それだけ」
なんだこいつ。そんな風に言いたそうな顔だ。視界の端に映る猿もそんな顔。
「あ、もう一個あった。あなたって名前とかあるの?」
『⋯⋯ありませんが、それが?』
めんどくさそうに息を吐く猿。他の猿は不思議そうにしていた。
「まだあるよ——」
『なら、それが最後の問答です。貴女の問いが終わった後、わたくしは動きます。覚悟して口を開きなさい』
「そう。じゃあ最後に、指を鳴らします」
私はナイフを持っていない方の手を掲げ、パチンと指を鳴らした。
『⋯⋯?』
動くと言いつつ、呆気にとられている。
「私はね、夢の中だと指を鳴らすだけで対象を動けなくすることができるんだよ。———ほら問いが終わったら動くって言ってたけど、動いてないでしょう?」
『何かと思えばくだらな———っ?』
目の前の猿は言葉の途中で息を呑んだ。
車内が騒めき立つ。猿たちが猿のような鳴き声で互いに見合って反応している。
「え。本当に動けなくなったん、ですか?」
夏帆ちゃんがおっかなびっくりに聞いてくる
「見たところ、ね」
猿夢の猿は顔だけは本気で驚いたような反応をしていた。
「指を鳴らしただけで⋯⋯?」
「うん、それ説明しちゃったら、また動き出すかもしれないから、先に殺しておくね」
猿が持つ黒釘を奪い取る。ナイフよりこっちの方がいいだろう。
『や、やめろ⋯⋯』
「やめないよ。ここでやめたらあなたはまた人を殺す」
釘を構える。それほど忌避感はなかった。日頃から明晰夢を見たら嫌いな上司を殺していたからかもしれない。
腹部の中心へ照準を見定める。そして突き出した。
『ああああああああああ!!!』
思うよりもすんなりと釘は身体を貫き、猿は声にならない声で叫ぶ。周りの猿からは歓声が上がった。
衝撃のまま真後ろに倒れると釘は抜け落ちる。それを見た猿たちは駆け寄った。
「⋯⋯うわ」
心配でもしたのだろうと思っていたらどうやら違った。皆で、傷口をほじくっていた。抉り出し、対象が何であれ実行はされる、というわけだ。
「後ろ行こうか」
「え? はい」
夏帆ちゃんに呼びかけて後部車両に向かった。群がった猿で見えないだろうが、流石に夏帆ちゃんには見せたくない。
連結部を通り過ぎ、後部車両の中央部の座席に二人で座る。
「あの感じだと直に猿は死ぬから、夢が覚めるのは多分その後かな」
「そう、なんですか」
「色々と、どうやったか聞きたい?」
「もう聞いてもいいなら、はい」
あの車掌が登場してから一連のこと。振り返ればすんなり終わったけど、私なりに気を遣った部分はあった。それを説明する。
「ココは、どこまで行っても所詮は夢だから、私や夏帆ちゃんが思った通りのことしか起きないんだよ、多分ね。殺されたら現実でも死ぬのがホントなら、あの猿の意思も夢に作用するのかもしれないけど、こっちは二人分だから、単純に考えるとこっちの思惑が優先される、と私は考えたんだ」
「作用⋯⋯。さっき、ナイフを作り出したのと同じような? 一連の、流れを作った、とかですか?」
夏帆ちゃんはゆっくり咀嚼するように、その考えを言葉に起こす。その言いたいことは合っていた。
「そうだね。私ってよく明晰夢を見てたんだけど、内容が物語仕立ての夢だったときは、よく作戦を立ててたんだ。その作戦はストーリーの展開を左右するぐらい重要なものになって、まあ、なんだかんだ上手く行ってオチに突入するか、途中で夢が覚めるかするの。演出って言うのかな? それをさっきもやったってわけ」
猿が寝返るだとか、殺し合いだというのに歩いて近づいたとか。
「後は意味もなく伏線を張ってみたりとか、到着する前も色々試したりもしてたんだ、実は」
「な、なるほど」
意表を突かれたような、驚いたような、そんな顔。
「どう? 私のこと、信頼できてた? 夏帆ちゃんがココが怖い世界じゃないって思い込むのも重要なことだったんだよ?」
「⋯⋯そっか、そういうことか。じゃあ、もう終わったってことですね」
「そうなるね。解決だよ」
自慢げに言うと、夏帆ちゃんは噛みしめるように息を吐いた。そして少し寂しそうに俯き、また直ぐに向かいの座席を見据えて口を開く。
「さっきの言い合いとかも、意味があってのことですか」
その顔は日常に戻った顔。平時のそれだ。完璧に取り繕った当たり障りのない表情。きっとこの子はこんな顔で日々を過ごしてきたんだろう。そして寂しそうな顔を作って見せたのは、取り繕い損ねたんじゃなくわかる人には見せたいから。そんな直感が働いた。働いたのは、私もそうだったことに気付かされたから。
「夏帆ちゃんは部活とかやってる?」
「? なんですかいきなり。やってないですけど」
「そう。じゃあ学校から出るときは裏じゃなく正門から?」
「⋯⋯まあ、そうですね。どういうことですか?」
「ううん、聞いただけ」
怪訝な顔をされたけど、それを聞ければ十分だ。
「あ、私、そろそろ夢が覚めそう。視界が見えなくなってきた」
「ホントだ、私もです。こうなると覚めるんですね」
「うん。本眠りに入るか目が覚めるかするよ」
「⋯⋯やっぱり、詳しいですね。望月さんのおかげです。命を、助けていただきました。本当に、ありがとう、ございます」
声が消えていく。音が消えていく。目が見えなくなっていく。どんどん意識が消えていくのは夢の終わりが近いからだ。
夏帆ちゃんは、右手を自身の身体の横に力なく置いた。ちょうどその下には私の左手があり、手を繋いだ形になる。感覚が辛うじてまだあった私にはそれを感じとることができた。偶然かはわからないけど、軽く握られたので私も握り返す。すると途端に夏帆ちゃんの手からは力が解けていった。
そして、いよいよ意識さえ手放そうとしたとき、最後にまた手を握られた気がした。
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