夜明けを手向けるアンドロイド

一葉 小沙雨

第1話 夜という悪夢、あるいは怪物。

 月夜と言うには暗すぎる。

 だからと言ってと闇夜と言うには街の明かりが皓々としすぎていて、ここから見える夜の色はいつもない交ぜで一向にはっきりとしない。

 

あかねさま、休憩のお時間でございます」


 窓の外など見向きもしない主人へと私は声をかける。


――私は家庭用アンドロイド『ウィリー』。“家族を愛し助けることが使命です”。


 機械として生まれた私の、最初の持ち主でもあるその女性は、私の声かけにこちらの声を聞いているのかいないのかわからないような生返事を寄越した。

 彼女はそうやってひどくいい加減な返事を放って、そのまま私の声をすぐに忘却してしまったようだった。

 視線はちらりとも外の風景にも、部屋の壁にかけられた時計の表示にも、私の方へだって向くこともなく、目の前のモニタを見つめたままで、ひたすらに忙しなくその細い指でキーボードを打ち続けていた。

 主人の机は壁に向かって配置されているので、私の方からは主人の顔を窺うことができない。私の視覚カメラに映るのは、今回の仕事に合わせて新調したというデュアルモニタの、どこか青白い光に縁取られた後ろ姿だけだ。

 ……私は、このモニタの放つ青白い光が嫌いだ。この光はいつだって、主人の目の下にひどい隈を作らせる。

 紙というものに絶大な信頼を抱きがちなここ日本でも、昨今ようやく様々な公的申請におけるペーパーレス化が推進され、それにともなって民間企業の間でも一気に書面の電子化が普及した。同じくして主人の机の上を書類が積み重なることはなくなったが、その代わりに覚醒作用や滋養強壮の成分を多分に含んだ市販飲料のほか、疲労除去を謳うタブレットの容器が無法地帯のように並ぶようになってしまった。

 机から離れる様子のない主人へと、私は再度休憩を促す声をかける。この時間に休憩の声をかけるように指示したのは紛れもなくこの主人だから、私は指示通り声をかけなければならない。それでも私の声に対してようやく返ってきたのは、先ほどと変わらない生返事だけだった。

 私はそこで、再三になる自分の声を主人へ放つのを止した。今のように主人が指定した時間に休憩を取らないことは、じつによくあることだったからだ。

 どうしても集中を切らしたくないという気分になってしまった、というところだと思う。彼女自身が以前教えてくれたのだが、人間にはいわばに意図せず陥ってしまうのだそうだ。彼女の場合はとくに、もし自分がそういうときだとわかるようだったならば『なるべく放っておいて欲しい』とも教えられた。

 正直そんな不確かな気分の波に合わせるよりも、適切な時間に休憩を取った方がたいていの人間の作業効率は上がる。そんなことはこの主人が生まれるよりも、もちろん私と、それに私と同じシリーズのアンドロイドが作られるよりもずっと前に立証されている。無論、主人だってご存じのはずだ。この方はそこまで浅識な人ではない。

 それでも、知っている上で出来ないことさえも、人にはよくある事例なのだそうだ。

 部屋には相変わらずカタカタカタカタと、キーボードを叩く音が続いている。

 ……しかしだからと言って、この人はいつもこうと言うわけではない。どちらかというと他者には優しすぎるような、そんなお方だ。だがそんな主人がこうなってしまうのは、決まっていつもより仕事が立て込みすぎてしまったときだ。

 主人の頭の中では恐らく、今の時間には仕事にだいたいの一区切りがつく予定だったのだろう。でもそんな主人自らが指定した時間通りには上手く仕事が運ばないことはままあって、そういう時はいつもこうやって私の『声かけ』は手応えなく終わってしまう。反対に忙しくしていない時はすぐに私の声に反応してくれて、その疲れた顔をパッと明るくさせてこちらを向いてくれるのだが……。

 今日はよほど仕事が立て込んでいるのだろう、いつもより声の調子も弱々しかった気がした。

 あまり仕事の邪魔をしてもいけないと思い、主人が振り返るのをしばらく待っていた私はそれを諦めてキッチンへ向かった。湯を沸かして主人のお気に入りのマグカップを用意する。そして珈琲メーカーに豆をセットしておく。

 主人は珈琲が好きだ。だから、私はいつもこういう時、珈琲メーカーをセットする。主人がふらりと休憩に入った時に、すぐに珈琲が飲めるようにしておくためだ。

 本来ならば、私が自ら主人へ珈琲を淹れてあげたいのだが、私にはそれができない理由があった。

 映像情報として認識された私の視界の端に、赤色の電池マークが点滅している。

 そのすぐ上には『残量わずか。充電をしてください』と警告のように文章が表示されていて、自分の手の甲を見ると同じような電池マークと文章が浮かび上がっていた。

 私は、多少の無理を押して動ける人間でもなければ、三日に一遍の充電で稼働できる最新型でもなかった。かれこれ二年前に発売された旧型の家庭用アンドロイドで、一日一回のペースで充電をしなければならない。充電には専用の充電椅子に座らなくてはならず、そのままスリープモードに入るの私はまるで本当に眠っているかのようになってしまう。

 充電によって一旦スリープモードに入ると、今度は充電が完了するか、もしくは外部から起動ボタンを押してもらわなければ私は再び目を覚ますことができない。充電に要する時間も約八時間と最近のアンドロイド機種にしては長めの時間を要するので、今からでは何にせよ私は主人に起動ボタンを押してもらわない限り、主人の仕事上がりには立ち会えない可能性が高いのだ。

 私は机にかじりついている主人を、今一度見る。

 最後に、もう一度だけ声をかけていこうか。

 私は逡巡するが、必死に仕事に向かっている彼女に悪い気がしてそれも止した。

 

(さすがにもう一時間もすれば、いつもの様に疲れを自覚して休憩に入ってくれるはず……)

 

 先ほど返事をしたということは、少なくとも時刻は把握しているはずだ。窓の外や時計表示など目にせずとも、今はすでに日が沈んでしまった時分だと彼女は理解していると思う。

 そんなことを私は推測して、音声として生成されかけた自分の声を飲み込んだ。

 彼女は朝からずっと机に向かっている。今日はとりわけその時間が長い。午前中に一旦休憩をわずかに取ったが、しかし以降はお手洗いに立つ以外は机の前を一切離れていない。

 今日机に向かい続けた時間は十二時間をとっくに越え、時計はそろそろ十三時間を示す時刻を表示しようとしている。

 いくら何でも、彼女がこれから一時間後もこうして机に向かい続けてはいないだろうとも思う。先に彼女の疲労がピークに達して、身体の方が音を上げるだろう。

 まさか、それさえも無視して机に向かい続けることはしないだろうし、そもそも彼女だって至って一般的な人間だ。

 機械ならば電気を送り続けていれば動き続けることも可能な種類もあるにはあるが、人間にはとても無理だし、不可能だ。

 そこまで考えて、私はそうやって懸命に自分の気持ちを抑え込もうとしていることに気がついた。

 

――……本当は。

 

 本当は、私だってもっと声をかけたい。振り向くまで名前を呼び続けたい。

 茜さまのお顔をきちんと見て、その顔色を確認したい。

 次々と胸のあたりに浮かんできたそれらを、私は今ある身体中の電力を総動員するくらいの気持ちで強く押さえ込んだ。

 ……私の主人は、今とても頑張っている。

 主人いわく、今の仕事は『ずっとやりたかった仕事』なのだそうだ。

 頑張りたいと、言っていた。だから応援してくれと、私は言われたのだ。アンドロイドの私は、指示には従わなくてはいけない。

 もちろん私自身の意思としても主人を応援したい。今回の仕事のために主人がどれだけの努力を重ねたか、私はよく知っている。仕事の邪魔はいけない。だから、邪魔にならないように、できる限りの手伝いをする。

 家庭用アンドロイドとして。私はできる限りのことをする。

 だから、今は声をかけるべきではないのだ。むやみにこちらを意識させて、気を遣わせてしまっても悪い気がする。

 でも。

 

(……今日は一度も、茜さまとまともにお話しをしていないわ)

 

 最後の最後にふと浮かんでしまったその気持ちを、私は主人から背を向けることでかき消した。

 視界の端の電池マークも、いい加減点滅のスピードを速めてきている。

 ……そう、私が今行うべき行動は主人へ声をかけてその顔を確認することではなく、自分の充電が切れる前にこの部屋を退出して、せめて主人の手を煩わせないようにすることだ。

 私は足早に充電椅子が設置してある部屋へと向かう。

 主人の邪魔にならないよう、休憩に入った際、目につく場所にメッセージを残しておくことだけは忘れずに。

 

『茜さま。お疲れさまです。二十時五十五分、充電に入らせていただきます。珈琲豆はセットしてあります。何かございましたら、いつでも起動してお申しつけください。 ――ウィリー』

 

 何か気の利いた一言も添えようと思ったが、視界の電池マークの点滅に急かされてしまって上手く思いつかなかった。結局、いつもと同じ文言だ。

 私が夜の充電に入る前に残す、いつも同じメッセージ。

 私の充電が完了して戻った時にはいつも、このメッセージは消えている。だからこのメッセージは、毎回きちんと主人の目に触れているのだとは思う。

 それでも主人が、私の充電中に起動ボタンを押したことは今まで一度もなかったのだけれども。

 私は別室に設置されてある充電椅子へと腰かける。充電のケーブルを繋ぎ、スリープモードへ入るよう体勢を整えた。

 ケーブルが電気を運び始めると、途端に私は意識が遠くなり、体から力が抜け始める。

 胸の前に『充電中』の文字が無機質に灯っているのだけが、わかるようになる。

 次に目覚めた時、私は主人が「おはよう、ウィリー」といつものように笑顔を向けてくれるのを思った。

 それか、仕事が明けて仮眠をとっている主人の安らかな寝顔と、飲み干された珈琲のマグカップを思い浮かべた。

 それらの光景をどこか心待ちにして、私は意識をスリープモードの闇の中へと沈み込ませたのだった。

 

 ……しかし、そんな私のひどく幸せで、あまりにもお気楽すぎた想像は、次に目覚めた時にあっさりと打ち砕かれてしまった。

 充電を終えた私を待っていたのは、主人の笑顔でも、愛しくなるような安らかな寝顔でも、ましてや珈琲のあとのついたマグカップでもなかった。


「茜、さま……?」

 

 私は震えそうな声で主人の名を……堅い床の上に倒れて少しも動かない主人の名を、口にした。倒れた主人からの反応はなく、夜明け前の静けさだけが部屋の中に蔓延していた。

 私はすぐさま救急センターへ連絡を入れ主人を病院へと送り込んだが、その時にはすでに何もかもが遅かった。

 

 ……私の主人は、命を落としてしまった。過労による心筋梗塞が原因だった。


 私は主人の指示通りに動いていたという記録があったことと、また、彼女が倒れた当時は、指示時間内での充電中でもあったことなどが考慮されて、主人の死について咎められることはなかった。

 

 主を失った私はその後、主人の親戚にあたる男性の家へ引き渡される予定だったが、しかしなぜかその頃から私におかしなエラーが出るようになってしまい、結局リサイクルショップへと売られることになってしまった。

 売られた私は展示ケースの中に入って、ケーブルの繋がれていない充電椅子に座る。

 私は左胸あたりに『難アリ』のシールを無造作に貼られた。

 店員の話では、来月までの間に買い手がいなければスクラップ工場行きになるらしい。

 私はすでに半分以下ほどの充電しか残っていなかったので、展示ケースの中ですぐにバッテリー切れとならざるを得なくなった。

 視界の認識も意識の確立も危うくなる中、私は明日にでもスクラップにされてしまいたい気持ちになっていた。

 

(……茜さまは、私が死なせてしまった)

 

 砂嵐の混じる視界の裏で浮かぶのは、自らの主人の死を防げなかったあの夜の景色ばかりだった。

 窓の向こうの暗い空。昼間より眩しさが強調されているような室内。

 鳥も寝静まった深夜に蔓延る大型運送車の音と、昼間の喧騒とは違った煩雑な声……。


(私が……、あの時、茜さまを放って充電に入ってしまったから)


 あの時。……あの夜。……あの、あのが!

 夜がいけなかった。私はあの時、すでに夜がだと認識していたはずだ。

 あの夜を、私は何としても見張っていなければいけなかった。


――だから、まんまと奪われた。


 夜がいけない。あれは、あまりにも危険だ。

 だって私の一番大切な人を。


 ……こうもあっさりと、飲み込んでしまったのだから。

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