卵が割れたら

仁矢田美弥

卵が割れたら

 心の中にたくさんのたまごがある。

 「感情のたまご」。

 親ガチャに失敗した私が物心つくかつかないかの頃から身に着けたやり方。

 嫌な感情、もっというなら、ヘドロみたいに溜まって消えない感情は、そっと殻に包んで心の奥にしまい込む。それも瞬時で。

 でも、その感情はなくした訳でも忘れた訳でもない。ここが肝心。

 とりあえず表層から隔離して、あえて言えばずっと温めているだけ。

 いつかはそれを爆発させる日が来ることも予感しながら。


 「美菜ちゃん、お母さんから、お迎えにいけないって連絡があって」

 保育園の先生は私を心配するような表情を浮かべる。

 でも、それは本心じゃないということはもう当時の私には分かっていた。

 すっと感情をたまごにする。

「先生、気にしないで」

 先生は『早く帰りたいのにあの女』って、お母さんのことを思ってるんだよね。その気持ちは当然だよ。先生は慈善事業をやってるんじゃなくて、お金のためのお仕事をしているだけ。

 うちの母は、勘違いしている。不当に先生の時間を奪う権利はない。

 本当は、お迎えなんていらない。

 だけど、幼なすぎる私はこの場所から勝手に消えるわけにもいかない。そうしたらもっともっと、先生の時間を奪うことになる。

 まだ幼子の自分がもどかしい。

 そういう思いもすっとたまごにする。

 私は小学5年生になっていた。

 クラスメイトのマリはいつも私を導くように一緒についてまわる。

「美菜ちゃん。また一人でおそうじやってるの」

 お掃除当番は順番にまわる。

 私が誰もいない校舎の裏庭にほうきをかけて、ちりとりでとったゴミを焼却炉のフタを開けて捨てようとしているとき、声をかけられた。

「今日のここの掃除当番は、他にアッキーとかマサヤンとかもいたはずでしょ。あいつら、教室以外のそうじは全部さぼって美菜ちゃん一人にやらせてるんだよね」

「忙しいんじゃない。アキちゃんは塾があるし、マサオカくんはサッカークラブやってるし」

「そうやっておとなしいから、あいつら調子に乗るんだよ。先生に言いつけなよ」

「別に構わないの、私は。一人の方が捗るしね」

 そうなのだ。甲高い声でうるさいアキや体が大きくて威張っているマサオカがいると本当に迷惑なのだ。彼らはいなければそれでいい。彼らに「たまご」の必要もない。

「私がこっそり先生に言ってあげようか。美菜ちゃん、従順すぎるよ」

 むしろ私が「たまご」の用意をするのはマリにたいしてだ。

 学級委員の彼女は、自分のためにこの私を利用しているだけなのが透けて見える。従順すぎるのはあなた。先生に対してはとても素直なよい子になる。

 自分を弱い子の味方に見せかけるために私を利用しようとするのはうっとうしい。

 おため顔のマリの表情をすっとたまごにする。

 高校は県下一の進学校だけれど、私は友人はつくらず、いつも図書室で本を読んでいた。だからといってイジメられていたわけでもない。何一つ他者に対して積極性を持たない私に、絡みつく人間はいなかっただけだ。そういう意味では、これまでの人生でいちばん楽な時期だった。一人が許される場所。たまごをため込まなくてもいい場所。

 いつも放課後はクラブもやらずに図書室で本を読んでいるのは、家になるべくいたくないからだ。父の出世とともに専業主婦になった母がいつも家にいる。私はなるべく自分の部屋に閉じこもるけれど、母は『お茶でものまない、美菜』などと甘えた声を出して私を身近に置こうとする。

 リビングで聞かされる母の噂話はもううんざり。耳にタコができるほどだ。そして次に始まる父への悪口。

 『私に甘えないでください、お母さん。私はあなたの心のゴミ捨て場ではありません。あなたも自分の「たまご」を用意するくらい大人になってください』

 父も母も、一人娘に甘いと近所の評判になっていることは知っている。外面のいい彼らは表では仲の良い夫婦を演じ、ことさらに出来の良い娘を世間に見せつけようとする。

 その実は面倒を避けて仕事人間を装う父と、そんな父を恨んでいる母。とりわけ幼児性の強い母は私にすがらなければ自分の存在意義さえ保つことができないのだ。

 私はすでに彼らもたまごにしている。

 大学1年生の夏休み前、洸士郎に告白された。彼は語学クラスのクラスメイトだった。

 大学のクラスはいつも一緒なわけでもないから、私は妙な気を遣わずに、おとなしいけれど物腰のやわらかな女の子を演じていた。学部柄、男女比は女のほうが圧倒的に少なく、女の子にも男の子にもよく話しかけられた。私はいつも朗らかに返事をして、教科書を忘れた男の子が隣に座るのも許した。後で思えばそれは彼の計算づくだったのだけれど。

「お礼に帰り、奢るよ。4限で終わりでしょ」

「本当? じゃあご遠慮なく」

 私は素直で邪気のない女の子を完璧に装えるようになっていた。

 大学の近くのパスタ屋さんに入った。

「ここのカルボナーラ、絶品だよ」

 言われるままにそれを頼んだ。

 私だって、彼の下心に気づかなかったわけではない。けれど、彼は『本当、すごく美味しいね』と言いながらカルボナーラを食べる私を少し意味ありげに見て、こう言った。

「君ってさ、誰のことも信じてないでしょ」

 フォークとスプーンを持つ手が止まった。

「なんかさ、ちょっと分かるんだよね、俺。そういうの」

 私は動転した。正直に言うと、動転する自分に動転した。

「一度、付き合ってみない、俺たち」

 私はその場でイエスと言ってしまった。


 高校のときとは違う意味で私は自由になれた。たまごにするような感情を持たない日々が続いた。それでも一つだけ、どうしても封じるべき感情はあった。洸士郎との体の関係だ。

 どうして世の中の男女はこういうことをするのが当然だと思うのかは分からない。私にとっては少しもよくはなかった。それでも私は演技した。洸士郎は満足そうだった。

 やがて私と洸士郎は卒業後の結婚を約束し、それは現実になった。

 就活もそれぞれ無事に済み、私たちはマンションで一緒に暮らし始めた。

 私にとっては、洸士郎が私という人間を理解していることが何よりも安心だった。母のことがあるので、自分の嫌な感情を彼にたいして言うことはほとんどなかったが、たまごの数が増えることもなかった。

 そうか。

 理解されないから、私は感情をたまごにしてきただけだったのだ。

 そう思うと、嫌な感情に対処する必要もなくなった。

 私はようやく自由になれた。たった一人でも理解者がいればそれでよかったのだ。信じられる人間がいればそれでよかったのだ。

 でも、そうやって洸士郎とうまくやっていたはずの私は見てしまった。

 最近仕事が遅めで忙しいのだとばかり思っていたのだが、たまたま自分も遅くなった日に、彼が見たこともない女性と一緒に連れ立って歩いているところを。

 そのときすでに私はたまごにする方法を忘れかけていた。

 はしたなくも二人を追いかけ、ホテルに入るところまで見届けてしまった。


 ばれていたのだろうか。

 私が男女の行為を少しも喜んでいなかったことが、どんなに演技しても分かってしまっていたのだろうか。

 不思議と怒りは起こらなかった。だから、たまごにする必要もないと思っていた。

 家に帰ると、洸士郎の好きなビーフシチューを作って、彼の帰りを待った。

 コンロの大なべはぐつぐつと煮立っている。

 なかなか洸士郎は帰らない。

 ようやく鍵を開ける音がして、私は笑顔で彼を出迎えた。

「ただいま。今日は大変だったよ。取引先からクレームが入って、この時間まで対処」

「そうなの。大変だったのね」

「早く着替えて。今日は洸士郎の好きなビーフシチューよ」

「うお、ありがたいな」

 私は炊き立てのご飯を茶碗に盛りはじめた。不思議と心は乱れていない。彼がスウェットに着替えてテーブルに着いたときのうれしそうな顔を、私は微笑んで眺めた。そのまま何事もなく済むと、その瞬間まで思っていた。

「彼女とは、良かった?」

 洸士郎はきょとんとした表情をした。でも、それが計算済みだということに私はいち早く気づいてしまった。大学1年の夏、持っていたテキストをかばんに隠して私に見せて、と言ってきたときと同じ。

 私は自分を誤解していた。感情のたまごは消え失せたわけでは全くなく、むしろこのときを待っていたのだ。本当は、ずっと私はそれらを温めつづけてきていた。

 洸士郎の罪は、不倫なんかではない。私に「信じる」幻想を与えてしまったこと。

 気がつくと、私は煮立ったビーフシチューの中身を洸士郎の顔に投げかけていた。

 一瞬の間の後、野獣のような叫び声。

 それを聞いた私のたまごは全て割れた。

 この野獣め。

 さっき使ってシンクに置いてあった肉切り包丁を思い切り洸士郎の喉を狙って突き刺した。

 声帯がやられたのか、野獣の声は止んだ。

 包丁を左右に力まかせに動かすと、ついに鮮血が吹きだした。

 床の上にあおむけに転がったまま、ひくひくと動く姿は人間ではない。

 ほっとして私は死にゆく彼の残骸をずっと見守っていた。

 もう、たまごにするべきものは一切自分にはない。本当の自由を得たのだと。

 一筋、自分の頬を涙が伝うのが感じられた。


(了)

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