第4話 愛と幸福を得るために


 受験勉強をしなければ。

 朝早くアパートを出て、高校へたどり着く。

 靴箱から上履きに履き替えて廊下を歩いていると、繁崎と遭遇した。


 また何か言われそうな気がして、私は彼から避けるように窓際を歩いた。挨拶はしないと注意されると思い、小さな声で声を発する。


「おはようございます」


 それから足早で逃げようとしたが、繁崎がわざと前に立ちはだかった。彼がいきなり大きく移動してきたせいで、繁崎の胸に激突する。


「っ……あの、何か用ですか?」

「お前、その額どうした? 赤くなってるぞ」


 繁崎は私の前髪を掻き分けた。

 義理の母親に缶ビールを投げられて、額に当たったなどと言えるわけがない。私は言い訳を考えながら後退りするも、繁崎は腕を掴んで私の額に手を当てた。


「それに熱もある。昨日、何かあったのか?」


 物理的にも精神的にも距離が近い。先生だからといって、踏み込んでいいところと悪いところがある。なぜこうも繁崎は私に絡んで来るのだろうか。


 前も階段から転げ落ちた時、繁崎は私を抱き上げて保健室まで運んでくれた。時々、驚くほど優しい一面を見せるが、他の生徒にはそれを見せない。


 なぜかわからないが、彼は私には良くしてくれる。

 

「何もありません。雪が積もってたので、転んだんです。それでは、失礼します」


 繁崎の手を払うと、足早でその場を去る。去り際に彼は私に小さく呟いた。


「萩本。無理をするなよ」


 まただ。

 冷酷教師と言われた繁崎から発せられる優しい言葉に驚き、つい振り向いて彼を見てしまった。


 他の教師に怒られるんじゃないかと思うくらいの長い髪を一つにまとめ、口元は薄く、つり目がさらに性格の冷たさを引き立ててる。

 

 それでも今日の繁崎は心から心配しているような瞳をしていた。


「ありがとうございます」


 さっとお礼の言葉を言って、教室へと入って自分の机に鞄を置いた。

 

 無駄だとはわかっていても、受験勉強をしなければ心が落ち着かなかった。勉強をしていると無心になれる。あの人のことも、ジェンダーのことも忘れてひたすら問題を解くだけで心が安らかになっていった。


 もう一度、あの人にお願いしよう。

 これは私の今後の人生に関わってくる問題なのだ。そう簡単に引くことなどできない。


 いつの間にか教室にクラスメイトが集まり、私は問題集を片付けてホームルームを待った。


 ***


 授業が終わり、荷物を鞄にまとめて学校を出る。


 雪は少しだけだが解けており、アスファルトがかすかに見えている。男子生徒たちは積もってるところを雪玉にして投げて遊んでいた。

 

 あの人がビールを飲む前に帰って、話し合いの第二ラウンドを始めよう。研究者になればお金はかなり貰える。お金を送るという作戦でつっていくしか方法はない。


 お金の力で説得するなど、子供がすることじゃない。空しい気持ちがこみ上げ、楽しそうに雪玉を投げている男子生徒を恨めしく思った。


 愛されたい。

 最後まであの人は私を愛してくれなかった。

 どんなに頑張っても、頑張っても頑張っても突き放される。


 血が繋がってなくてもかまわない。

 そこに愛があれば、血の繋がりは関係ない。


 まだ甘い夢物語を、考えている。

 情けない。

  

 早く帰ったため街灯の明かりはついておらず、ジェンダーもいなかった。


 部屋に入ると、母親の靴と男物の革靴が綺麗に並べられていた。

 

 珍しい。

 今日は仕事をお休みしたようだ。

 ビールの空き缶やコンビニ弁当で散らかっている部屋は、綺麗に掃除してある。


「あら、アキ。お帰りなさい。紹介したい人がいるの」


 いつもと違うあの人の声色と態度から、この男性が誰か察した。


「アキさんですね。はじめまして。磯田潤です」


 藍色のスーツを着こなして、きっちりと髪を固めていた彼は、立ち上がって私に礼をした。

 あの人はにっこりと微笑んで、私に言う。


「私たち付き合ってたんだけど、この度結婚することにしたの。あなたが高校を卒業したら、私は彼のところへ引っ越すつもりなの」


 突然目の前が色褪せてきて、少しだけ後ずさりをする。彼女が初め何を言ってるのかわからなかった。脳内で何度も彼女が言った言葉を再生して、我に返る。

 

 私は鞄をギュッと握りしめた。

 磯田さんは何も知らないのか、きょとんとした顔であの人に尋ねる。

 

「アキさんは来ないのかい?」


 彼女はあははと笑いながら返した。

  

「この子は、自立したいって言ってるの。高校卒業したら働くって。私に迷惑かけられないからって言うのよ。優しい子よね。ここまで育ってくれて良かった」


 違う。違う違う。

 あの人は彼と結婚するために私を早く追い出したいんだ。

 

 私を大学に行かせないのは全てこのため。

 

 邪魔なものを排除していくためなんだ。


 彼はトイレを借りると言って台所を出る。

 手から鞄がするりと床に落ちる。

 私は放心状態のまま、あの人に言った。


「全ては自分のため? あの人と結婚するために私を追い出すんだ」

「新しい家族の中に、あなたは必要ない。やっとよ、やっと私に幸せが訪れた。お願いだから邪魔だけはしないでちょうだい」

「私が何をしたと言うの……? 私が悪いことしたの? 私はお義母さんの顔色ばかり伺って生きてきたのに。どうしたらこの関係がよくなるか毎日毎日考えてきたのに。お義母さんはいつだって私を邪険にする」


 あの人は蔑んだ目で私を見て、言い放つ。

 

「生まれてきたことが間違いだったのよ。はっきり言っておくけど、あんたはいらない子だった。いらない子はね、自分は一人で生きないといけないんだということを自覚してさっさと出ていくものよ」

「私が父親の愛人の子だから。だからいらない子だと言われるなら、私は生まれたくなかった」

「だけど、生まれてきた。図々しいにもほどがある」 


 私は徐々に息が苦しくなり、アパートから出た。

 

 階段を少しだけ降りて、力無く座り込む。

 膝を抱えてはぁと深くため息をついた。


 私はいらない子。

 図々しく生きようとする、ひとりぼっちで惨めな子。


 愛と幸福。

 私は決して手に入らないもの。


 深くため息をつくと白い息が出て、熱い涙が溢れてくる。


 冷たい風が私の横を通りすぎていく。

 膝に顔を埋めて風の音を聞いた。


 愛と幸福。

 決して手に入らないもの。

 

 いや。

 

 決して手に入らないわけではない。


 私は勢いよく顔を上げて立ち上がり、アパートの階段を急いで降りる。

 

 辺りは既に暗くなり、アパートを出て左側を見ると古びた街灯はいつもどおりの枯れたオレンジ色の光で雪道を照していた。


 まだ、愛と幸福を手に入れる術がある。


 私は裾で涙をきゅっと拭い、ずんずんと街灯の方へ歩いた。


「ジェンダー!」


 街灯にすまう亡霊、Motherの従者であるジェンダーがニタァと微笑みながらこちらを見つめていた。


「待ってたよ。アキ」

「私、受けるわ。Motherの愛と幸福を手に入れる!」

 

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