僕も自意識の始まりについて考えてみた
森下 巻々
落書き
カクヨムで、或る方による自意識の始まりについて考察された文書を読んで、僕も考えさせられました。科学的知識はありませんので、素人の僕が何の資料も見ずに、書き散らしたものに過ぎません。しかし、それでも、一人の人間が反省したものとして無価値ではないかも知れないとも思っています。
僕という意識とは何でしょうか。
この問題を考えるには、記憶というものが重要だと思います。
記憶を通して現在(それが眼に入り通信する過程でも時間が経過しているので既に過去です)を視ることによって、僕が生成されているのではないでしょうか。
白い電球が黄色に光るのを僕が視るとします。
電球が黄色く光ったとき、電球が白かった状態を頭脳が覚えているから、黄色く変わったと思える訳だと思います。
そうやって、現在という瞬間、しゅんかんを続けて視ていること(記憶が蓄積されていくこと)で僕が生成されているのではないでしょうか。
肌に太陽光が当たるとします。
それまでの皮膚に比べて熱くなったことを感じるはずです。
熱くない状態から熱くなったという記憶が残ることで僕が生成されているのではないでしょうか。
誰かがママと言ったとします。
ママという音が耳を通して入ってきます。
音を感じなかった状態からママという声を聴いた記憶が残ることで僕が生成されているのではないでしょうか。
過去と現在のズレが重要な働きをしているのではないかと思うのです。
それでは、考えるとは、どういうことでしょうか。
何か食べたいものがあるかと訊かれたとします。
その質問が耳を通して入ってきます。
記憶(過去の経験)から、その言葉の意味が分かります(そして、それがいま食べたいものは何かと考えるトリガーとなるのではないかと思います)。
おいしかったものの記憶から、何か食べ物を思いつくのではないでしょうか。
以上が、いま僕が考えたことです。
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