冰華繚乱

 その怪物は、地球上の如何なる生物とも異なる起源を持つとされる、八本脚の異形。

 太古の地層からも過去の歴史からも認められていなかったその存在は、今より二十九年前の西暦一八五九年、新大陸の北部にて初めて確認された。


 旧約聖書になぞらえてネフィリムと名付けられたその異形は、それまで知られていたどんな生き物とも違う異様な骨格構造と身体能力を持ち、他の生物を圧倒。一体の女王個体から無数に兵隊が生み出されていくその生態は蟻と似たような社会性を持ち、ひとたび繁殖を許せばその侵攻の波を止めることは叶わず。地球上の生物は皆一様に、ネフィリムの前では無力であった。

 そしてもちろん、万物の霊長たる人類でさえも、その例外ではなかった。


 初確認からわずか一年で新大陸は半分以上をネフィリムによって制圧され、更にベーリング海峡を渡りユーラシア大陸にも新たな女王個体が現れたことで、人類はこれが存亡の危機であることを理解した。

 いや、思い知らされた。

 最早この脅威は一つの大陸程度では収まらず、やがて惑星そのものを脅かすのだと。


 人類史上最大の危機に瀕し世界中で何よりも軍備増強・国力増大が叫ばれる時代の潮流の中、アルベルニア連合王国もまた、独自の防衛戦略を構築した。

 ネフィリムの脅威が欧州全体にまで広がるのは時間の問題であると見越し、欧州へ面する沿岸一帯に広大な防御陣地を形成。

 空から飛来するであろう怪物の本土上陸を断固阻止するため、備えられる全てを積み重ねた。


 海岸線沿いに大口径の高射砲を配備すべく、車砲主線・複線と呼ばれる線路の敷設と、列車砲の開発。

 新大陸で散った者達がその命と引き換えに得た、ネフィリムは水分により一定の運動能力を阻害されるという情報の下、大気中に蒸気機関によって排出される水蒸気を散布し国土を覆う防衛排煙計画。

 海軍においても対空砲火に特化した艦船の設計・建造を盛んに実施。

 そうして王国は、アルバニア島の要塞化に成功した。

 飛翔能力を持つ女王個体の本土上陸さえ阻止すれば、圧倒的脅威である兵隊の大攻勢も防止できるというのは、島国の利点であったと言える。


 そして現在、極東部から始まったネフィリムのユーラシア大陸侵攻は遂にその手が西端にまで達し、王国も直接ネフィリムの脅威に脅かされるようになっていた。

 満を持してその力を発揮する、王国の防衛戦略。

 侵略者を海上で撃ち落とし決して寄せ付けない毅然としたその島国は、滅亡寸前の各国から政治家・軍人・民間人を問わず亡命を受け入れ、名実ともに人類最後の砦となった。

 しかし、緒戦こそ防衛戦略が見事に機能し女王個体の上陸を防いでいた王国ではあったが、やがて新たな問題が浮上する。

 一個体で急速な進化を遂げる女王個体の中に、人類の埒外である特殊な能力を持つ個体が現れ始めたのだ。

 陸軍の列車砲も、海軍の対空砲も、あらゆる備えが特殊個体の侵攻を阻止するには足りなかった。

 故に現在においては、防衛戦略の主軸はそれらではない。異形たるネフィリム侵攻の脅威により見出された存在――王国の命運は、人類の異能である魔女達に託されていた。


「でりゃああぁぁぁぁッ!!」


 その雄叫びは火薬の炸裂音と共に、ドーバーの沿岸上空へ現れた。

 黒を基調とした装甲が陽光を反射し、時折にび色に光る騎体。

 背部から吹き出す蒸気に包まれるその姿は、霧の中に佇む中世の騎士のようでもあった。


 ――魔鎧騎、ブラックロード・リベレータ。


 地上でネフィリム迎撃の任にあたっていた兵士達が不意を突かれたように空を見上げる。


「騎士の増援!? いくらなんでも早すぎるが――」

「あれは……、見ない騎体だな」

「なんだっていい、援護するぞ! 列車砲一番から四番、弾種を徹甲弾に切り替えろ! 装填次第、全力斉射ァ!!」

「了解ッ!」


 伝信魔法を使えないアイラにはそんな彼らのやり取りを聞くことはかなわないものの、彼女は眼下の状況を見下ろして、幸いにも被害がまだ拡大していないことを確認する。


「ひとまずは間に合ったという感じか……。それじゃリベレータ、ドーバーでの初陣だよ!」


 口元に薄い笑みを浮かべて、彼女は眼前のネフィリムに向き直る。

 黄土色の体表は鱗と外殻が入り交じって複雑に隆起し、見るからに頑強そうだ。

 八本の脚のうち四本は翼へと進化しており、その二対四枚の翼で羽ばたいている。

 嘴のように尖った口先からは、鋭利な牙が覗いていた。


 アイラはそんな怪物へ向け、機関銃の引き金を引く。

 魔鎧騎用に開発されたそれは人間が扱うライフルよりも遙かに巨大。口径こそ列車砲に劣るものの、強力な連射性能を持っていた。

 絶え間の無い炸裂音と、弾丸がネフィリムの甲殻にぶつかる鈍い音。

 数十発は当てただろうか――しかしそんな攻撃をまるで意に介さないかの如く、アイラ目掛けて一直線に突進する怪物。

 太く鋭い爪を備えた豪腕が、リベレータへと振り下ろされる。


「単調ッ!」


 この程度なら、飛行魔法による騎体操作は必要無い。

 背部と脚部から一斉に蒸気を噴かして得た推進力で僅かに魔鎧騎を翻し、ネフィリムの背中を転がるような動きで攻撃を躱す。

 そしてそのまますれ違いざまに、至近距離から再度、機関銃をぶっ放す。


「おらおらおらおらおらァッ!!」


 弾丸は全て命中、しかしネフィリムは身じろぎ一つせず、後方へ回った彼女に向けて太い尻尾を叩きつける。


「わっ――ちょおーいッ! あっぶないなぁ!」


 咄嗟に魔鎧騎の右腕でそれを防御し、一旦後ろへ距離を取る。


「まったく……。岩でも削ってる気分だぜ……」


 投げやりな呟き通り、機関銃による攻撃は大して効果が無いようだ。

 おまけに弾薬も既に残り僅か、所詮は騎体移送のついでに持ってきていた程度の武装なのだ。

 そして地上からの援護は続いているものの、有効打は望めそうにない。

 久し振りのネフィリム戦、最近のネフィリムはこんなに堅いのかと、アイラは魔鎧騎の中でため息をつく。

 そんな彼女へ、休む暇など与えないと宣言するかの如く。異形がその口を縦に大きく開く。


「おッ――!?」


 次の瞬間。

 開かれたその口から、燃え盛る紅蓮の炎が噴出する。

 火炎放射、まるで龍の息吹。

 生命の域を超越した、悪魔の如き力。

 放たれた炎は一瞬でアイラの魔鎧騎を包み込み、そのまま眼下の海へと直撃する。

 余りの熱に海水は一瞬で沸騰し、爆発を起こして白い飛沫を巻き上げる。

 突如として地獄が顕現したかのような光景。

 これこそが、女王ネフィリムが持つ埒外の特殊能力。


「――魔法、かぁ……。いやぁ、参った参った」


 海水の爆発で生じた水蒸気の靄の中。

 火炎に包まれたはずのその騎体は、未だ同じところを浮遊していた。

 しかしその前方には、先程までは無かった分厚い壁。

 白く無骨なその壁は――紅蓮の炎でも溶けることのない、分厚い氷の塊であった。


「そっちが、その気なら!」


 直後アイラのリベレータが急加速し、氷壁を両手で構えたままネフィリムの眼前まで迫る。

 そして壁の陰から飛び出した攻撃に、ネフィリムの反応が一手遅れる。


「こっちだってえッ!!」


 右の肩と肘の辺りから白い蒸気を噴き出しながら、鋼鉄の右腕がネフィリムの頭部を殴り飛ばす。

 その右拳はただの鋼鉄ではなく、青白い氷で覆われていた。


「まだまだァ!」


 気迫と共に更に数発、左脚、右腕、右腕、左腕と次々に叩き込まれる攻撃。

 リベレータの一挙手一投足と共に排出される蒸気が、周囲を取り巻いていく。


「おらぁぁああああああッ!!」


 そして右脚による蹴りで大きく蹴り飛ばされたネフィリムを、体勢を立て直す間も与えず、不可避の追撃が襲う。


 突如空中に生み出された巨大な氷柱の群れ。


 それがネフィリム目掛けて一斉に降り注ぐ。

 氷柱は硬い外皮に弾かれ次々と砕けていくが、その勢いはネフィリムの巨体を一直線に弾き飛ばしていく。

 先程の爆発によって生み出された、膨大な水蒸気の中心へと。


≪――縺弱c縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ≠縺ゅ▲縺!!≫


 そこで初めて、ネフィリムがその叫び声を上げた。

 ともすれば、それは断末魔であったのかもしれない。

 自らが辿る運命を、悟ってしまったが故の。


「――残念。そこはもう、私の領域だ」


 その宣告と共に。

 膨大な水蒸気が、丸ごと凍る。その中心に、ネフィリムの巨体を閉じ込めたまま。


 一瞬宙を浮遊した氷塊は、しかし何の支えも無くそのまま海へと落下していき、大きな水飛沫を上げる。


 ――凝花天結エリア・メノス


 応用属性・氷魔法による戦闘はアイラの常套手段であった。

 空気中の水分を予め過冷却しておき任意のタイミングで氷結させることにより攻撃や防御を行うその戦法は、水蒸気を振りまいて戦う魔鎧騎と相性が良い。

 まして今回のように敵が海を爆発させ膨大な水蒸気を生み出してくれたとなれば、勝利条件は整ったようなものだった。


「氷が溶けたとしても、大嫌いな海の中……。ま、悪く思わないでよね」


 眼下の景色を見下ろして、そう独りごちる。

 そして彼女は鈍い痛みを訴え始めた額に手を当てて、一息をつく。

 流石にネフィリムを丸ごと覆うほどの質量を凍らせるのは容易でなく、魔力を使いすぎてしまったようだった。


 まったくとんだ着任初日になってしまったものである。

 けれど騎士団への手土産代わりとしては、まずまずの戦果だろう。

 これで憧れの団長殿からのおぼえがめでたくなってくれれば、今後の軍務にもより一層身が入るというものだ。

 ともあれこれで、非常事態は一件落着――その、はずだった。


 一息ついていたアイラは不意に、未だ列車砲による砲撃音が止んでいないことに気付く。

 戦いに集中していたせいで意識の外へと追いやっていたが、目標を倒した今、その音はとっくに止んでいるべきで――


「――ッ!?」


 状況を認識するよりも早く、騎体を強烈な衝撃が襲う。


 頭上からの一撃。


 それだけを理解している間に、迫り来る海面。


 咄嗟に全力の飛行魔法、次いで風魔法による補助、そして蒸気噴射による姿勢制御で海面への激突だけはどうにかこうにか免れる。

 全身を締め付ける重力の束縛に意識を明滅させながら見上げた先に、それはいた。


「――……。いやはや、まさか二体目とは……。ちょっと困っちゃうなぁ」


 紅い、双翼のネフィリム。

 先程のものとは別個体。

 歪曲した二本の角を生やしたそれは魔王のような相貌で、遙か上空からアイラを睥睨する。


 新たな敵を視線の先に捉えながら、アイラは努めて冷静にリベレータの状態を確認。

 先程の格闘戦のせいで各部の機構には大分ガタがきているらしく、動作は緩慢。

 元々メンテナンス前で要調整の騎体であったことを考えればよく頑張ってくれたと褒めてあげたいところなのだが、生憎とそんな余裕は皆無。

 おまけに先程喰らった一発が効いている。

 騎体にも身体にもダメージをしっかりと残してくれた。

 唯一の武装だった機関銃は格闘戦の邪魔だったので先程の戦いで投げ捨ててしまったし、大技の連発で残り魔力も心許ない。


 想定外の連戦。

 勝算は低いと言わざるを得ず、まだこんなところで死にたくないアイラとしては、許されるならば撤退したいところだったのだが。


「……ま、逃げるわけにはいきませんよね」


 恐らく、通常の防衛戦力ではあのネフィリムは止められない。

 この辺りの軍備は数ヶ月前のダンジネス暗野戦で受けた被害から回復しきれていない。

 こうして空中でネフィリムと渡り合い行く手を阻む者がいなくなれば、その結末は想像するだに恐ろしい。

 このドーバーでまで上陸を許せば、今度こそ全てが終わるだろう。

 そうであるならば、進むべき道は一つだけ。


「ようやく人生登り調子かと、思ったんだけどな……」


 思わず苦笑が溢れるが、仕方が無い。

 せっかく念願の騎士団へ入団が決まり、昇進し給与も上がり地位や名声にも手が届き始め、これから全てが始まると思っていた矢先のこの事態。

 この世の出世街道というのは想像以上に険しいらしい。

 しかし泣き言ばかり言っていられない。

 ここを越えれば夢にまで見た騎士団生活が待っているのだ……と、発想の転換を試みる。

 己の精神を奮い立たせ、今一度眼前のネフィリムに向き合うアイラ。

 リベレータのボイラーに火と水魔法で動力を与え、同時に飛行魔法を強化する。

 覚悟は決めた。

 まさか、着任早々これを使とは――


『――……』


 ?


 不意に、頭の中に誰かの声が聞こえたような。

 いや、それは気のせいではない。

 誰かの思念と、直で繋がる特徴的な感覚。


「これは、伝信魔法……? もしかして――」

『――そこのブラックロード、近付くな。巻き込んで殺さない自信は無い』


 突如として頭へ直接響いた端的な警告。


 そしてその直後。


 列車砲の砲弾よりも巨大な何かが視界の端からネフィリムを直撃し、その身体を穿った。


 火薬の炸裂とは違う轟音と同時に放たれたそれは、音を置き去りにしながら、標的の胸部から首にかけてを破壊する。

 胸に大穴を空け頭部と身体を分断された怪物は、断末魔を上げる間もなく、そのまま力を失い落下していく。


 瞬き一つの時間の中に目の前で起こった余りにも衝撃的な出来事。

 アイラは言葉を失った。

 しかし状況だけは不思議なくらいはっきりと理解できていて、彼女はゆっくりと、海岸線の方へと目を向ける。

 大陸に最も近く、王国防衛戦略において最重要とされるドーバー海峡。

 荘厳な白亜の崖を背負って飛ぶ、その一団は――


「――白鳩騎士団……」


 その名を表すが如く磨き抜かれた純白の魔鎧騎が、ドーバーの空から見下ろしていた。


 その鼓動が、時を止めた。

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