第2話「夏が煙る」
夏休みに入る直前、小学校からつづけてきたサッカーを辞めた。
きっかけは一瞬。
学校から帰る途中、曲がり角からやってきた車に轢かれて脚がダメになった。
「スポーツ選手になりたい」なんて夢があるわけでもなかったけど。
それにしてもあまりに呆気のない終わりで柄にもなくしんみりした。
周りには「来年は受験だし案外いい機会だったのかもな」なんて言っておいたものの、自分でも意外なほどに喪失感は大きい。
友達が勧めてくれた本を読んだり遊んだりする時間は増えたけれど、それだけではどうにも補いきれなかった。
サッカー部の奴らは気のいい連中で、退部した俺に以前と変わりなく接してくれる。
今日も部内で仲のいいユウキから「部活が早めに終わるから帰りに遊ぼうぜ」と誘われていた。
「どうせなら見学していくか?」とも聞かれたが、「気分がイマイチだから」と断った。
部内に顔を見せるのはまだ気が引けるから、なるべくは避けたい。
ユウキとの約束の時間までどうしようか考えた末、俺は屋上で涼むことにした。
気温が三十度を超える炎天下。
グラウンドでボールを追いかけて走る皆を眺めながら、ソーダ味のアイスを齧る。
シャクシャクした食感を味わいながら、建物の影でひんやりとしたコンクリートに
棒に残っている一欠片を咀嚼して、ちょうどユウキのシュートを目撃したとき。
屋上への扉がガチャンと開く音がした。
「すげえ。屋上がキレイになってる」
「創立周年の記念に工事したらしいよ」
二人分の声とともに足音が通り過ぎる。
一人は知らない男性の声。
もう一人の声は今年の春に赴任してきたクラス担任の
「こうしてるとさ、たまに二人でサボってた時期が懐かしいな」
「そうだね。でも、今はもうそんな不良な子いないよ。皆真面目だから」
「ふーん。まあユーガが先生やってるくらいだからな」
「どういう意味だよ、それ」
相手とかなり親しいのか、冗談を交わしながら会話している。
普段は物静かで大人しい印象の先生からは想像のつかない快活さが滲んでいた。
サッカー部の練習より先生たちの会話が気になってしまい、引きつづき聞き耳を立てる。
「俺、教員辞めるよ」
瞬時に、聞き間違えたのではないかと疑った。
「免許取って今年に着任したばっかだろ。いいのか」
「うん」
「そっか。・・・・・・理由は?」
目を閉じ、耳にすべての神経を集中させる。
「なんというか、上手く言えないんだけどさ。皆が俺のことを「先生」って呼んでくれるんだ。それに本当にいい子ばっかりで」
「それじゃダメなのか?」
「全然ダメじゃないよ。俺がひねくれてるだけ」
板書は折り目正しい字を書くし、教科書を読む時は朗々としていて聞き取りやすい。
授業に遅れたことは無いし、点検したノートには必ず赤ペンで短いコメントを返してくれる。
ひねくれてる所なんて見つけようのない、どう考えても俺の知る先生は教師の
「ユーガは頑固だから。一度言い出したら聞かないよな」
「うん。意思は変わらない」
「・・・・・・わかった。なら応援する」
「ありがと、フウタ」
「おう。五分くらい美術部の顧問に挨拶してくるから、ちょっと待ってろ」
フウタと呼ばれた男が屋上から出ていき、入れ代わりで俺は先生の前に立った。
「先生、辞めるって本気ですか?」
「・・・うん」
間髪を入れず一思いに口走る。
「俺が現国のテストで一番になったら辞めないでください」
自ら発した突拍子もない言葉に俺自身が驚いていた。
アイスで得た清涼感はすでに消え失せている。
とくんとくんと脈打つ己の鼓動が、今にも聞こえてきそうだ。
俺の感情とは反対に、先生は驚くでもなく涼しい表情で金網に
先生は考えるような仕草を見せて、スラックスのポケットから煙草とライターを掴んだ。
慣れたような手つきで一本取り出して口に
「これ吸えるなら乗ってもいいよ」
自分の咥えた煙草に火をつけた後、こちらに一本差し出してきた。
先生の手元を見て、保健の教科書で見たグロテスクな肺の写真を思い出す。
別に怖いわけじゃない。それなのに、手は先生の方へと伸びない。
先生は、俺を
「冗談」
夏休みが終わり、明けて九月。
始業式で、
屋上で話したあの日を最後に、先生は煙のように消えてしまった。
あの時、俺が差し出された一本を吸えていたら。
先生は先生でいてくれただろうか。
父の部屋から一箱だけ取ってきた外国の派手なパッケージの煙草。
俺は取り出してみた一本に、未だ火をつけることすら出来ない。
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