虎を飼う
空峯千代
第1話「虎を飼う」
ユーガは汗を吸った白いシャツを脱ぎ、そのままベッドでうつ伏せになった。
まるで日焼けを知らない真っ白の背中は、今から質の良いキャンバスになる。
「これから長丁場になる。楽にしてていいから」
「ありがと。よろしく頼む」
ユーガはにこりと微笑んだ。
彼は、さながら昼寝でもはじめるように目を閉じる。
もう何度目かの施術になるが、今日も緊張していないようだった。
俺は遠慮なく彼の背中にカミソリを当てる。
きっかけは水泳の授業だった。
「
夏になると、水泳は必ず見学することに決めている。
どいつもこいつも好奇心は旺盛で、あらぬ噂を立てたり冷やかしたりするやつはいた。とはいえ、面と向かって聞いてくるやつはさすがに初めてだった。
「なんでだと思う?」
「・・・・・・泳げないから、とか?」
「はずれ。俺、翼が生えてるんだ」
俺はシャツのボタンを外した。
袖は通したままで、背中側だけはだけるようにしてそれを見せる。
「・・・・・・刺青?」
「そう。左半分と右半分にひとつずつ彫ってもらった」
俺の背中に生えた翼の刺青。
目の当たりにしてさすがに恐がられるかと思いきや、まじまじと見詰めたあとただ一言。「綺麗だ」と言って褒めたのがユーガだった。
教室でだれかと話すでもなく休憩時間に1人で本を読んでいる。いかにもなくらい大人しい地味なタイプ。
そんなうっすらとした印象だったからだろうか。
刺青を見て怖がらなかったばかりか、俺に「自分にも入れてほしい」と頼んできた時は驚きを隠せなかった。
実際、刺青を彫るまえに「本当に入れるのか」と繰り返し聞いた。
けれど、ユーガは見た目の割に意外と頑固だ。
結局、俺は頼みを断りきらないまま今日を迎えてしまった。
すでに彼の背中には、まだ完成途中の絵が入っている。
細身の身体、透けてしまいそうな白い背を覆うかのようなそれ。
少しずつ針を入れて仕上げていった絵柄は、もうすっかりキャンバスに根付いている。
予め相談して決めたデザインは、背中一面を覆うサイズの虎だった。
相談、と言ってもほとんどはユーガの希望通りだ。
細部だけは俺が提案する形を取り、最終的に決定した。
「カラーは入れずに大きな虎を彫って欲しい」
ユーガの希望は、至ってシンプルだった。
要望のとおりに、カラーのインクは使わずブラック&グレイで仕上げた。
線もシャープで、それでいて雄々しい風格のある虎をイメージした。
下絵を転写した背中をスマホで撮って見せると、ユーガは機嫌よくOKしたことを鮮明に思い出せる。
まだ下絵だけで、墨の入っていない部分に触れる。
線を手で軽くなぞり、いよいよ針を入れた。
棒の先端についた針。
柔らかい皮膚に刻むよう、繰り返し突き立てて動かした。
棒を親指のしわに沿わせるようにして、素早く、何度も動かす。
念のため、ユーガが寝ている枕元に、数個の飴玉と香水を吹きかけたクッションを置いておいた。多少は痛みをごまかせるだろう。
お袋のドレッサーから拝借したバニラフレーバーの香水。
何も考えずに選んだはずだが、どことなくユーガに似ている気がする。
やはり針を入れ始めると痛むらしい。
ユーガは、枕元にある飴玉を1つ口に入れたようだった。
「痛いならクッション掴んどけ」
「ん、大丈夫」
虎を描くあいだに、何度か堪えるような小さな声を聞いた。
痛いだろうに、どうにも我慢強い。
本人の努力もあって、ユーガの背中には着々と獣が根付いていた。
シェーディングの前に体力を懸念して、休憩を挟ませる。
自分から音を上げないとはいえ、相当な無理をしているだろう。
一旦手を止めて針を置き、様子を窺ってみる。
視界にとらえたユーガの表情は、疲労と苦痛がわずかに滲んでいた。
ゾッとする程に扇情的だった。
「フウタも疲れた?」
「いや、俺は大丈夫。あともうちょっとで終わるから耐えろよ」
「うん。任せた」
再度、針を持ち命を吹き込むように虎を描いた。
お袋の彼氏の一人が気まぐれに教えてくれた刺青の技術。
こんな形で使うことになるとは思わなかったが、この虎の描き手が自分であることを誇りに思う。
想像どおり、ユーガの白い肌に這うブラックはこれ以上無いほどによく映えた。
ところどころ見える青い
なぜ、ユーガが虎に拘ったのか。
聞いた時に、あいつは「強そうだから」と答えた。
「俺、高校卒業したら自立したいんだ」
「強そうな絵柄なら、龍も人気だし描けないことはないけど」と提案したときだった。唐突な独白に戸惑いながらも、俺はつづく言葉を待った。
「龍も強そうだけど、飛んでいっちゃいそうでしょ? 険しい場所でも地に足つけて歩ける虎がいいんだ」
「・・・・・・モグリだからあんまり期待されても困るけど、なるべく立派なの描いてやるよ。」
ユーガが虎を望むまで。
それまでの間に、一体何を考えて生きてきたのか。
俺は知らないし、知ったからといってできることもない。
あくまでただのクラスメイトで。友人のひとりで。俺に出来ることはこれくらいだけど、それでも。
「・・・・・・できた」
ゆっくりと立ち上がり、背中を合わせ鏡で眺めたユーガは静かに呟いた。
「綺麗だ」
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