第5話 夜
ある日、真夏の日差しに焼かれ、乾ききって固くなった土の上を、ほぼ丸一日、走り通した。激しく呼吸するようになり、空気を吸い込んでいるのだか、砂埃を吸い込んでいるのだか、高鵬は分からなくなっていった。
日が暮れて、砂が作っていた半透明の黄土色の幕がゆっくりと見えなくなっていく頃、ようやく進軍が停止された。部下の中で体力の一番ない宇俊が落伍してしまうのではないか、と高鵬が心配し続けるほどの強行軍だった。
敵陣が近いらしい。
払暁にその敵陣を攻めよ、との命令が下ったのだ。そのために、早めに食事を取り、早めに就寝するようにとも命令された。
歩哨を残して、全軍が眠りに沈んだ。
疲れもあって、高鵬は横になった途端に正体を失った。
どれほどの時間が経ったのか、遙か遠くでざわついているような音が聞こえた。
少しずつその音が大きくなっていく。いや、高鵬の意識が少しずつ覚醒しつつあったのだ。
起きなければいけない。何かとんでもないことが発生している予感がする。しかし、瞼の重さは尋常ではなく、なかなか彼の意思を反映してくれない。
その時、大地が揺れるような感覚がした。しかし、それは高鵬の体が揺すられているせいだった。
「伍長さん、伍長さん」
ようやく目を開けると、楊然のいつもの顔があった。
「どうした」
高鵬の方は、まだ眠りから完全に覚めてはいない。
「大変だ。敵襲ですよ、敵襲」
「そうか、みんなも起こしてくれ」
敵襲、と聞いても意外に冷静でいられた。何かしらの音を聞いてから起き上がるまでの間に、徐々に予想できたことだったからか。
「へえ」
「それで、何か命令はきたのか」
命令がなくては、高鵬には何をして良いのか分からない。
「それが、とにかくこの騒ぎで。お偉い方々も、命令なんか出している余裕なんてねえんじゃないですか」
その時になって、ようやく高鵬の耳に現実が聞こえてきた。戦っているような音ではない。敵は黙って一方的に攻め、味方は眠ったまま殺されるか、叫び声を上げながら、ただ逃げ惑っているかに違いない。
夜襲か。
高鵬は、楊然とともに、宇俊、洪昌、陳濤を起こしながら、決心を固めた。
「逃げるぞ」
そう宣言した。
「それは……」
宇俊がそれだけ言って、あまり強いものではなかったが表情で抗議した。
見ると、洪昌と陳濤も似たような顔をしていた。
楊然だけは、いつもと変わらぬ様子だった。
しかし高鵬には、こんな修羅場で戦うような覚悟はなかった。それに、この状況なら逃げ出したところで、後で咎められるようなことはなさそうだとも思えた。
たとえ後日に処罰を受けるのだとしても、死ぬよりはましだ。いま戦えば、五人は確実に死ぬ。そのことだけは分かる。
戦うか逃げるか、ではない。死ぬか逃げるか、だ。幸い、敵襲は彼らの寝ていた場所から最も遠いところで開始されたようだ。
「懸念は分かる。しかし命令は下されていない。戦えという命令に逆らって逃げれば、それは罪だが、命令がない以上、己の判断で行動するしかない。どうやら我が軍は敵に裏をかかれて夜襲を受けた。準備も構えもできていない。自分が指揮官でも逃げることを命じると思う。それでも敵に背を向けてはならないのは、ずっとずっと偉い将たちだけだ。幸い、我々五人は、それほど偉くはないからな。だから、逃げるぞ」
高鵬は笑顔を四人に向けた。
四人は肯いた。
陣に火が放たれ、辺りが明るさを得た。
その瞬間、楊然が身を低くした。高鵬たち四人もそれにならった。その姿勢のまま、とにかく走った。大事だったのは、一刻も早く、一歩でも遠くへ逃れることだった。
気付くと、陣からかなり離れたところまで来ていた。辺りの様子が少しずつ見えてくる時刻になっていた。
意外に味方の兵が多い。半数くらいは、その場にいるように見えた。逃げる方向が限られていたせいかも知れない。
あれだけ走っても、相変わらず楊然は平然とした顔をしていた。その表情を見た瞬間、高鵬は生理現象のように嫌な気持ちになった。
もしや、この騒ぎは、この小男が原因なのではないか、と直感が告げた。
あくまでも直感だ。はっきりとした根拠があるわけではなかった。しかし、いくら足自慢と言っても、あのような夜襲に遭って逃げ出して来たのだ。いつものようなわけにはいかないのが普通ではないか。考えてみれば、全員が泥のように眠っている時に、いち早く目を覚ましたのも楊然だ。そもそも、事態に備えて起きていたのかも知れない。疑いの目を向ければ、それを裏付ける状況証拠はいくつも出てくる。
高鵬はそのような目でじっと楊然を見つめる。
楊然は目を合わそうとしない。少なくとも、高鵬にはそのように見えた。
結局、武器や食料などは大量に失ったものの、人的被害は奇跡的に最小限だったようだ。時間が経つにつれ、前日とほぼ変わらない陣容が高鵬たちの周辺に現れた。
しかし、武器も食料も補充がないのでは戦にならない。そこで最も近い兵站基地の近くまで兵を引くことになった。
静かに、そして素早く全軍が撤退した。
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