第2話 飯
真夏の日が暮れて、高鵬にはいったいどのくらい自分の村から離れているのかも分からない場所で野営することになった。野営の準備をしている彼のところに、上官から呼び出しの伝令がやってきた。
高鵬は伍長に昇進した。
彼にはどういうことだか理解できなかったが、上官が彼の働きを過大評価してしまったとしても無理はない。真実はただ泣き叫んでいただけだが、事実としては、大きな体と大声で敵を寄せ付けず、小隊長の首級まで挙げたのだから。
その夜から、支給される食事の量が少し増え、四人の部下ができた。なぜだかあの小男が含まれていたが、あとの三人は知らぬ顔だった。みんな型通りの礼をしながら、暗い目を彼に向けてきた。妬みや嫌悪なのか、尊敬や怖れなのか、高鵬には判然としなかった。
「どうも、旦那」
あんた、と呼んでいたものが、今度は旦那か、と苦笑する気分にもなったが、小男の馴れ馴れしさが、この時は救いに思えた。
小男は
「旦那はよしてくれ。高鵬でいい」
ほかの三人に聞かせるために、なるべく気軽な声で応じた。
彼は、自分の食事と部下四人の食事を合わせて、五等分した。
食べ物の恨みは恐ろしい。つい前日まで高鵬の直属の上官である伍長が、自分よりも多く食べているのを見て、嫌な気分になっていたばかりだ。当然だということは知っていたが、それでも不公平を感じた。将ともなれば、自分とは別世界の雲の上の人間だから何とも思わないが、その伍長が、特別だとはどうしても考えられなかった。身分が違うわけではない。自分と同じように寝起きし、同じように走り、同じように逃げ、ただ、毎日食べる量だけが違うとしか思えなかったのだ。
きっと、高鵬が同じように行動したら、彼の部下たちも同じように思うだろう。先ほどの暗い目の理由の中には、食べ物のことも含まれているかも知れない。
部下から見れば、たくさん食べているように見えるかも知れないが、実際伍長になってみれば、さほどの増量でもない。それなのに恨まれては割に合わない。どうせ、それでも腹いっぱい食べられるわけではない。特別うまいものにありつけるわけでもない。自分の村にいた時と変わらない。いつも腹を空かせながら、必死に生きていくだけなのだ。
少しくらい偉くても、偉くなくても、それは、みんな大差ない。それを忘れまい、と高鵬は心に決めた。
楊然以外の三人の部下はそれぞれ、
「ところで、伍長さん、鎧の下に着けている、そりゃあ、何だい?」
楊然が食べながら尋ねる。
兵士が鎧を脱ぐことは、特別な命令がない限り許されていなかったのだ。
高鵬は、そう言えば、と、走りながら質問されたのを思い出した。
「ああ、これか。これは母が作ってくれたものだ。矢が当たっても、怪我が軽くて済むようにと、
「へえ、お母上が。そりゃあ、大事にしないといけませんなあ」と笑顔で宇俊が言った。
宇俊は、高鵬と同じくらいの背丈だったが、細身で、あまり筋肉を感じさせない、学者のような風貌だ。兵士には不向きだ、高鵬は自分のことを棚に上げて思った。
「うちのおっ母も、似たようなもんで」と笑いながら、鎧の下の黒っぽい布を引っ張って見せたは洪昌だった。
楊然と同じような体格の洪昌は、やはり俊敏そうな印象を持っている。どうやら、五人の中では一番若そうだ。
「洪昌のは地味だから目立たねえけど、伍長さんのは、随分と派手だねえ」と陳濤。
一番年上と思われる陳濤は、背は高くないものの、叩いても痛みを感じないのではないかと思えるほど、がっしりとした体躯だった。
「だから、母に嫌だと言ったのだ」
高鵬は笑顔で応じた。
五人の食事は和やかだった。
高鵬の家は貧しかった。この時代のこの国では、およそ農民は貧しいものと決まってはいたが、その中でも彼の家は貧しい方だった。父と母、男ばかりの四人兄弟で、痩せた畑を耕しては日々の糧を得ていた。
そんな貧しい生活の中にあって、しかし父は気位の高い男だった。自分の出自が卑しくないことを、何かにつけて強調した。が、これこれこういった家の出であるというような、具体的な家柄についての話は、誰も父から聞いたことがなかった。母も兄弟たちも、父のその言葉を信じていなかった。
それを察してなのか、父はどこかで聞いてきた話を木や竹に書いては、息子たちに渡して読ませようとした。父は文字を知ってはいた。そこに書かれた字は、ところどころ読めなかった。もちろん、手渡される話には一貫性も何もない。共通していたのは、どの話も高尚とは言えないものばかりだったことくらいだ。だから実際の自国の状況やほかの国々との関係など知ることはできなかった。それでも、兄弟はその話で文字を覚えたし、言葉を学んだ。
高鵬は三男だったが、兄二人が次々に戦で死んだ。弟はまだ幼い。父も母もすでに老いていた。兄二人の死は、口減らしになったことも確かで、一家はどうにか貧困の窮みで生きていた。しかし高鵬を失えば、それはほとんど唯一の働き手を失うことになる。母親としては、愛情もさることながら、そのような切迫した事情から、端布を縫い合わさずにはいられなかったのだろう。
彼にもそれは良く分かっていた。死ぬわけはいかない、という思いは、自分一人の命よりも重いものだった。
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