其の弐拾玖 衆合地獄

「おい、なんだこれ!? どういうことだよ!?」


 白蛇御前が、呆気に取られたように叫んだのも道理。

幸せそうな表情で、葉がことごとく鋭い刃物になっている樹木に、無理やりよじ登り切り刻まれて行くその男。

 片目は潰れ、血の縞で顔の判別はしづらいが、霊衛衆の複数には見覚えのある顔だ。


「えっ、ちょっと待ってくださいよ、高橋二郎さんじゃないです、この人……!?」


 紫乃若宮が流石に気を呑まれたように指摘したのも理の当然。


 霊衛衆は、地獄道にはびこるモノを倒しつつ、その幾つにも分かれた地獄を下層へ下層へと降りてきている。

 足が止まったのは「衆合地獄しゅうごうじごく」、性的逸脱が過ぎた者を罰する地獄である。

 巨大な岩山に挟まれ圧殺されたり、あるいはこのように、縁が刃物になった葉を持つ樹木を、我慢できないほど心惹かれる美男美女の幻を追って上り下りして切り刻まれる……といった地獄が展開しているのだ。


「あの木の上にいる幻の女は、榊姫ですよ。見た記憶があります。ああいう風に、榊の枝を髪に挿している人なんです」


 息を呑んだ様子で、綾風姫がそう指摘する。

 確かに、霊衛衆がいる岩棚の上から見下ろした刃の木の梢にいるのは、榊の枝を長い綺麗な黒髪に挿した、打掛姿の美貌の若い娘……榊姫に間違いない。

 どう考えてもそんな細い枝先に登っていられぬだろうというぎりぎりの梢から、榊姫の幻が、高橋二郎を差招く。

 すると、既に傷だらけで半裸の高橋二郎が、それはもう幸福そうな表情を浮かべて、勢いよく刃の木に突進していくのである。

 理の当然、登るたびに尖った刃の葉に全身を切り刻まれてズタズタの酷い有様になるのだが、高橋二郎はそれを意に介さない。

 榊姫の幻を追って、梢に着く頃にはもう人相の判別さえ難しいくらいにズクズクの肉くずになっても、まだ榊姫を追う。

 梢に着いて、榊姫の幻が消えると、か細い声で呼ぶのだ。


「榊姫様……いずこへ……」


 黒耀は、その光景を淡々とした目で見降ろしながら、主に見ているのは、凄惨そのものの高橋二郎ではなく、幻として出現している榊姫である。


「……なるほど。これが榊姫か。顔は覚えた」


 黒耀は、追い詰めて倒さねばならぬだろう敵の顔を記憶しておきたかったようだ。

 確かに、地獄の亡者が追いまわすにふさわしいほど、榊姫は美しい娘である。

 前情報がなければ、黒耀とてこれほど壮絶な事件への関与を疑ってしまうほど、清らかに美しい娘だ。

 真面目で熱心そうな目の輝きは、天性の天女のような美しさを引き立てている。

 尋ねれば十人中十人、そんな酷い事件に関与しているとは信じられぬと口にするだろう。


「そんなアナタ黒耀さん。そんなにのほほんとしていないでくださいよ。おかしくないですかこれ」


 紫乃若宮が、黒耀の袖をつんつん引く。


「そうですね……」


 綾風姫が、灼熱の炎に炙られて焦げたような赤い地獄の空を見上げる。


「高橋二郎は、明らかに『呼ばれざる者ども』の一党。死ねばモノになり永遠に邪神に仕えるのであり、仏法の地獄へ組み入れられる訳はない」


「でも、あれ高橋二郎と榊姫だろ? 榊姫は幻だとしても、高橋二郎は本物じゃないのか?」


 白蛇御前が八つの武器をしゃらりと鳴らす。


「それより、わたくし、高橋二郎が榊姫にそんな恋情を抱いていたのが気になってますよ。いつの間にそういうことに? まあ、わかりますけどね。綺麗なお姫様ですし」


 紫乃若宮が何かが引っ掛かっていそうな調子で呟く。


「ええと、この場合はですね」


 綾風姫が解説を始める。


「この地獄、衆合地獄の趣旨からすれば、高橋二郎の榊姫への恋は道ならぬものだってことなんじゃないかと。そりゃそうですよね、榊姫が一連の指図をしている首領なら、榊姫が高橋二郎の主。高橋二郎の恋は、主への道ならぬ恋……ということになりますからね」


「それで衆合地獄堕ちかあ? でも、こいつら『呼ばれざる者ども』なんだから、六道の地獄へは堕ちないはずだろ? 何だって衆合地獄に」


 白蛇御前は剣を持った腕を軽く翻し、薄い軽やかな袖がふわりと揺れる。

 地獄の熱気を押しやって、涼やかな弁財天の司る良い香りが広がる。


「……違う……」


 不意に、黒耀は呟く。

 目が鋭く、無限に愚かな追いかけっこを展開している高橋二郎……ではなく、地獄の刃の木に注がれる。


「え? 何が違うんですか、黒耀?」


 綾風姫が振り返る。

 紫乃若宮も、白蛇御前も。


「……あの刃の木、元から地獄にあったものではない」


 黒耀は、印を結ぶ。


「オン・アボキャ・ベイロシャノウ・マカボダラ・マニハンドマ・ジンバラ・ハラバリタヤ・ウン」


 光明真言だ。


 その途端に、霊衛衆の目の前の地獄の木は掻き消え。

 血みどろの、高橋二郎だけが残ったのである。


「えっえっえっ……!! ちょっとなんですか、どういうことですかこれ!!!」


 紫乃若宮が悲鳴のような声を上げる。


「あの地獄の木は本物じゃなかった……!? 榊姫だけじゃなくて木の方も、『呼ばれざる者』が作り上げた幻だったってことですか」


 ようやく得心が行ったというように、綾風姫は手を打ち合わせる。

 しすっかりダマされた自分が情けないらしく、ああ、と片袖で顔を覆いはしたが。


「あ、逃げる!? ちょっと締め上げて来るわ」


 白蛇御前がきょろきょろしながらものろのろ逃げ出そうとしている高橋二郎を、岩棚から駆け下りて、素早く突き転がす。

 霊衛衆はそれぞれ軽やかに岩棚から舞い降り、白蛇御前が押さえる高橋二郎の元へ駆け寄ったのだった。


「高橋二郎。執権様が次男、北条時実様の御命を奪い、御首を掻き切って逃げたのはお前だな」

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