其の拾壱 餓鬼道と推論

「ううう、変なニオイがしますよ~……鼻を洗いたい、どころか、綺麗な水で全身洗いたいですよ~……」


 紫乃若宮がその薄暗いどこかで、泣き言をこぼす。


 奇妙な場所である。

 空は分厚い雲が覆い、夜の入口のような暗さ。

 周囲は荒れた野原だ。

 妙に貧相な、曲がりくねって表面のぼろぼろになった樹木がところどころに見え、地面は何だか薄汚く湿った土が剥き出しで、わずかに枯れ切った草が病人の毛のように生えている。

 紫乃若宮が嘆く通り、淀んだ大気は饐えたようなのと糞尿に似たおかしな臭いが充満しており、彼ほど潔癖症でなくとも、その迫って来るような不潔感に身震いする。


「こんなところに綺麗な水があるかい。餓鬼道だぞ?」


 白蛇御前が、周囲を警戒しながら戟をゆっくり振り回す。


「早いとこ帰りたかったら、さっさと高橋と時実様の御首を見つけるんだよ」


 そっけない言い方の白蛇御前の言葉にうなずき、綾風姫が翼の神通力で宙に浮きながら口を開く。


「基本的に、餓鬼道って餓鬼だけがいるところなので、我々が知っている世界みたいに、米を売り買いしたり、魚を焼いてお腹いっぱいに食べる……なんてことはできません。そういうのがないから、いつも餓鬼は飢えているので」


 綾風姫も澄んだ理知的な目で周りを見回す。

 何かわかっている目。


「……つまり、ここから這い出すこともできない餓鬼は、常に飢えて凶暴なんです。ふざけていると、思いもかけない目に遭いかねませんから、気を付けてくださいね」


 紫乃若宮がまた嘆く。


「こんな汚いところで、もっと汚い人たちに食いつかれるかも知れないってことですかあ。嫌すぎます。どうしたらいいんですか」


 っていうか、と紫乃若宮が涙目で何かに気付く。


「ここに逃げ込んだ高橋さんとやらだって、食われるかも知れないでしょう? なんでそんなことを?」


「……恐らく、高橋はこういうことに備えていたのであろう」


 黒耀が、静かな声で呟き、周囲を見渡す。

 大気より更に嫌な臭いの風が、幽霊の手のように彼と霊衛衆を撫でる。


「恐らく、一人で餓鬼道に入り込んだのではない。それに加え、何かしらの備えを与えられていたのやも知れぬ。餓鬼を退けるなり、手なずけるような何かを」


 霊衛衆の残り三人が顔を見合わせる。


「一人で入り込んだんじゃねえっつうと……」


 白蛇御前が考え込む。


「そういえば、あの屋敷の主のはずの、見紫兼徳の遺体は見かけなかったような気がしませんか? 奥方らしきご遺体はあったのに」


 綾風姫がぎゅっと眉をひそめる。


「……ちょっと待ってください、託宣を……」


 気を取り直した紫乃若宮が、意識を集中する様子を見せる。


「……結構な数を引き連れてますよ。見紫」


 一瞬の後、紫乃若宮の神威は、その事実を見抜く。


「何でしょう。全く、餓鬼に害されていないような……えっ、何か持ってますね」


 やはり、というように、黒耀がうなずく。


「『呼ばれざる者』の神威を利用した、外法の神物であろう。餓鬼はじめ、外道どもに害されない効果のある神物をあらかじめ用意していたようじゃな」


 綾風姫が、はあ、と溜息をつく。


「それだけ周到に用意していたということは、もちろん我らのこの動きも最初から予想していたということですよ。高橋と奴に指図した何者かは。……もしかして」


 綾風姫は、一瞬生唾を飲み込む。


「我ら霊衛衆も、この餓鬼道のどこかに誘い込んで始末する計画だったのかも知れませんね」


 そうすれば、「呼ばれざる者ども」対策は、完全に振り出しに戻りますのでね。

 綾風姫の推測に、霊衛衆の面々は顔を見合わせる。


「でもさ、あたしらが餓鬼ごときに、始末されるか? 御仏の力を手に入れてんだぞ、こっちは……」


 ずいぶん、雑な計画なんじゃねえか?

 白蛇御前が、フン、と鼻を鳴らす。


 が。

 その時。


 地響きが、彼らの周囲を揺らしたのだった。



◇◆◇



「おい、ありゃあ……」


「わー!! だから嫌だったんですよぉ!!」


「やはり、高橋は餓鬼を自在に操れる何かを持っているようですね……それが何か気になるところです」


「……ふむ。多いな」


 白蛇御前、紫乃若宮、綾風姫、そして黒耀が、その蠢く一団を見やってそれぞれに反応する。


 霊衛衆の周囲一帯を、海のように蠢くものが包囲し、じりじりと彼らと距離を縮め、埋め尽くそうとしつつある。

 それらを仔細に見るなら、どれも一体残らず餓鬼だ。

 体の大きいもの、火を噴くもの、顔のないものなど、様々な餓鬼が地響きを立て、津波のように迫って来る。

 その数はにわかには数えられないほどに膨大。

 どこからこれだけの数を、一時に集めたのか。

 まるで千年も見ていなかった上等な料理をにわかに目にしたように。

 目のあるものは目を血走らせ、怒号と共に突進してくる。


「オン・マカキャラヤ・ソワカ」


 朗々とした大黒天の真言が響き渡る。

 大黒天神印を結んだ黒耀の周囲から、夜空を切り取ったような輝く闇が、異世界から解き放たれたように、一気に広がる。

 それは殺到する餓鬼の群れを、黒い玉の中に封じるように、一瞬で飲み込む。

 億年の時の彼方からの溜息のような不可思議な音。


「あー!! 久々みたいに綺麗なものを拝見しましたよ!! ずっとそのままで!!」


 紫乃若宮が心底ありがたそうに歓喜の声を上げたのも道理。


 清浄なる暗黒に洗われた餓鬼の大群は、すでに一匹たりとも見えなくなっていたのである。

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