つばき

楠 悠未

 

 手折った椿の花から赤い液体が流れる。静雄は自身の手が汚れていくのを見つめながら悦びの微笑を抑えられなかった。

「……美しい」

 静雄は感触を楽しむように、花をぐしゃりぐしゃりと握りつぶす。そして潰れた花を金魚鉢の中へポトリと落とした。赤い液体は水の中でドレスの裾のようにふわりと広がっていく。金魚は尾を優雅に揺らしながら狂ったように踊り回る。潰れても美しさを失わない花は、水底へゆっくりと沈んでいった。


 ある夜、静雄は重苦しさで目が覚めた。腹の上に冷たい“何か”がうごめている感覚があり、静雄は慌てて体を起こそうとした。しかし、体はぴくりとも動かない。声を上げようとしても苦しげな吐息が漏れるだけであった。得体の知れない“何か”が自分の腹の上にいる。静雄は恐怖した。しかし、払い除けることも、逃げ出すことも、助けを呼ぶこともできない。

 腹の上の“何か”は次第に上へ上へと這い上がってくる。水分をたっぷりと含んだ布が擦り合うような、ぬちゃぬちゃとした音が響く。やがて静雄の前に、濡れた長い髪が現れた。髪の隙間からは白い女の顔が覗いている。毛先から滴る磯臭い雫が静雄の胸を濡らす。その不快さも恐怖すら忘れて、静雄は女を見た。目を逸らせなかった。女の色のない唇がニィと持ち上がる。

 静雄はその顔をよく知っていた。美しい美しい、女の顔。死して尚、美しい女の姿。細く艶かしい女の首に残る傷痕を見つけ、静雄の手に生々しい感触が蘇った。

 女の冷たい指先が静雄の首に触れた。

 完璧なまでの美しさだと静雄は思った。恐怖を感じた自分の愚かさに呆れもした。

「あなた」 

 冷気のような女の声が耳に触れた。

──つばき。

 静雄が女の名を胸の内で呼ぶ。と同時に、女の指先に力がこもった。その瞬間、静雄の意識は途絶えた。

 女はポッキリと折れた静雄の首にそっとくちづけた。そして、静雄の顔を両手で包み、胸元に手繰り寄せる。すると、頭部と胴体は綿飴を割くかの如く、いとも容易く離れた。

「……あなた」

 女は静雄の頭部を抱いて闇の中へと姿を消した。

 


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つばき 楠 悠未 @hanamochi_ifu

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