第五章 約束の暁
第二十三話 ある娘の願い
蝉時雨が絶えた山道を、洒落た装いで歩く女がいた。
久江、と呼ばれている少女だ。もう夜、しかも祭りの日に相応しい晴れ着だというのに他には誰も連れていない。
つまらなさそうに歩く彼女の頬には、赤い個所があった。しかしそれは傷跡ではない。ましてや口紅の痕でもない。
平手打ちの痕だ。
『色気づく暇があるなら、もっと店を手伝いなさい!』
祭りを友達と共に心ゆくまで楽しみ、夕暮れに勝手口から帰宅したあと。久江はそう頭ごなしに怒鳴られた。母の許可を得て遊びに行っていたのだが、母と仲が悪く厳格な祖母はそれを認めなかったのだ。
このとき、さすがに久江は腹が立った。
『なんでそんなに怒るの? 昨日はちゃんと家のことしたんだから、今日と明日くらいはいいじゃない。今日と明日はお祭りなんだよ?』
説教を聞き終える前に祖母を睨みつけ、久江は言い返した。
『それに、これのどこが色気づいてるのよ。晴れの日の恰好なんだから、このくらい普通でしょう? 色街の人たちみたいな服を着てるわけじゃない』
『っ生意気をことを言うんじゃありません!』
いつもは大人しい孫娘の反撃が癇に障ったのか。久江の祖母は眉を吊り上げ、久江の頬を平手打ちした。
乾いた音が部屋に散り、奇妙な静けさが広がった。口を挟めずにいた若い下男が息を飲む音が、いやに大きく聞こえた。
我が身に何が起きたのか理解した瞬間、久江の心が熱く燃えたぎった。
『おばあちゃんのわからずや! 私はおばあちゃんのお人形じゃない!』
『まだ言いますか!』
そこからもう修羅場としか言いようがなかった。女中に呼ばれたらしい母が助けに来てくれたが、そうなるといつものように久江をほったらかしにして二人で口論なのである。父と姉もうんざり顔でやってきて仲裁に入ってきたが、頭に血が上った母と祖母が聞くはずもない。
しかし、何度も繰り返されるこの馬鹿馬鹿しい状況に嫌気がさしているのは父や姉だけではないのだ。
『もういい加減にしてよ! こんな家、大っ嫌い!』
そう怒鳴りつけて、久江は帰ったばかりの家を飛び出した。そして今夜の寝床を探して山へ飛びこんだのだ。
今までならこんなときはと、久江はまず高台の屋敷へ向かっていた。町長を頼るといい顔をされないし、友達の家に突然上がりこむのも気が引ける。その点高台の屋敷は気楽だ。
それに今は登与が滞在しているのだ。彼女と話していれば、あっというまに嫌なことも忘れられる。朝早くに出て家へ帰ればいい。
けれど山道を途中まで歩いたところで、久江の脳裏にある情景がよぎった。
登与を河原に案内し、変わった形の貝を見せた日。色々考えながら帰路に就いていた久江は家へ帰るのが嫌になってきて、高台の屋敷を目指すことにした。泊まるつもりはなかった。ただ、登与に愚痴を聞いてほしかったのだ。
何故か嫌だと感じる風が吹いてきたのを不気味に思いながら早足で歩き、屋敷と登与の背中が見えてきて久江は心底ほっとした。早く登与に気づいてもらおうと、声をかけようとした。
そのとき、登与が男の名を呼んだ。久江はぎょっとして声をひっこめ、慌てて木の影に隠れた。
登与は屋敷にいる誰かに抗議しながら屋敷の中へ入っていき、久江に気づくことはなかった。
それで久江はもう閉じられた門を叩く気になれず、憂鬱な気持ちで家へ帰るしかなかったのだ。
またあんな場面に出くわしたらどうしよう。もっと踏みこんだ一幕だったら。そんなふうに考えだすと止まらなくなって、登与に慰めてもらうつもりだったのに久江は高台の屋敷へ行けなくなった。そうしてあてもなく歩いているうち、道を外れてしまったのだった。
目を凝らし首をめぐらせてみても、周りには木々の深い影が夜闇に変わろうとしている山中の風景が見えるだけだ。行く先を決める手がかりなど見つかりはしない。
自分はどこへ行けばいいのだろう。高台の屋敷へも幼馴染みたちの家へも、神社や町長の家へも行けない。かといって手持ちはないから宿に泊まれない。野宿なんて絶対嫌だ。
どこへ行けば――――。
やがて逃げる場所を考えることにも疲れて、久江は近くに見えた石に腰かけた。
家へ戻ろうか。疲れきった久江は思った。明日も幼馴染みたちと待ち合わせをしているのだ。勝手口から戻って、奥へ行かず女中たちの部屋にでも入れさせてもらえたらきっとどうにかなる。
そして明日は祖母と顔を合わせないようにして、幼馴染たちと合流すればいい。
――――でも。
「しんどいなあ……」
計画を成功させるために気をつけなければならないことの多さに、思わず久江は呟いた。
店の手伝いが嫌、というわけではない。実家の商売を久江は面白いと感じてはいる。継ぐことはできなくても、何かの形で服飾の仕事に関われたらいいとは思う。
でも祖母が久江に店の手伝いをさせるのは、孫娘のそんなぼんやりした夢を応援してではない。将来、どこかの店の御曹司に嫁がせたあとのためだ。祖母の命令口調も嫌になる。
久江は嫁いだあとなんて遠く感じることのために、習いごとや店の手伝いで毎日が埋め尽くされることに嫌気がさしているのだ。大人たちが自分の教育方針について言い争うのも、聞きたくない。
かといって、家出して一人で生きていく覚悟があるわけでもない。そんな技量もない。だからこんな甘ったれた現実逃避しかできないでいるのだ。そんな自分にも久江は溜息を吐きたくて仕方ない。
木立の向こうを映していた久江の目が来た道のほうを向いた。祖母の鬼女のような形相が脳裏をよぎる。
だからか、登与が門の向こうに消えていく情景が再び久江の瞼の裏に浮かんできた。
登与が声をかけていた辰臣というのはきっと、昔話で女天狗と夫婦になった刀鍛冶だ。名は伝わっていないけれど、今あの屋敷に住んでいるのは登与だけなのだ。術が少しだけ使えるのだと、屋敷へ押しかけた夜に言っていたし。そんな人なら、天狗の夫になった刀鍛冶が姿を見せたとしても不思議ではない。
――――あるいは、登与こそがその女天狗なのか。
「…………だったらいいのに」
久江はぽつりと呟いた。
登与が女天狗であるのなら。人間のふりをするのをやめて、隠している天狗の翼で外の世界へ連れていってくれないだろうか。少しばかり商売や家事の手伝いをすることしかできないけれど、教えてもらえればきっと小物作りを手伝うくらいはできるはずなのだ。
そうして腕を磨いて、いつか登与の元を離れて。登与がしていたように、自分が作ったり仕入れた品で行商をしながら一人で生きていく。――――なんて自由だろうか。
あの日、戸を叩けばよかったのかもしれない。夜道を歩きながら久江は思った。登与はさっぱりした気性の良い人だ。きっと快く迎えてくれる。人間嫌いだという刀鍛冶のほうは怒るかもしれないが、登与が上手く宥めてくれるだろう。
けれどあとを追いかけて戸を叩くことが久江にはできなかった。今もできない。登与の、むくれた様子を見せながらも誰かのあとを追いかけていく背中が忘れられない。
久江にはそんな人はいないから。
自分はどこへ行けばいいのだろう。
自分はどこへ行きたいのだろう――――。
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