第十話 彼は今日も花を待つ

 ……去ったか。

 玄関の戸を閉める音がして、人ならざる男――刀鍛冶は集中を途切れさせた。

 墓前に向かっていた意識が一度外へ向きだすと、一気に蝉の声が刀鍛冶の耳に入ってきた。とはいっても離れた場所で鳴いているので、それほどやかましくはない。屋敷のそばを流れる小川の水音と大差ない程度だ。

 よそ者の娘がこの屋敷に滞在するようになってしばらく。彼女が朝の支度を整えて外出する音を聞いてから墓前を離れるのが、刀鍛冶のこのところの習慣になっていた。

 手早く食事を済ませて母屋を出た刀鍛冶は、術札が戸に貼られた建物の中へ入った。

 刀鍛冶が一歩室内に足を踏み入れると小さな炎が薄暗い部屋の四隅にいくつも生まれ、隅々まで照らしだした。いくつもの道具が整然と棚に置かれ、あるいは壁の吊り具にひっかけられた様子が明らかになる。戸は刀鍛冶の手を借りず勝手に閉まった。

 術によって埃一つなく保たれた、刀鍛冶の仕事場――――鍛冶場だ。

 素襖の袖を邪魔にならないようたすき掛けにし、刀鍛冶は必要な道具を用意していった。水も普段鍵をかけてある勝手口から外へ出て、川の水を必要な量だけ術で球体として引き上げ桶に流しこむ。

 そうして刀を打つ準備を整えていくと、鍛冶場の片隅にしつらえられた神棚に柏手を打って一礼した。それから、炉の近くの棚に保管しておいた刀身を手にとる。

 この屋敷に引き籠るようになってからも刀鍛冶は、山奥にある天狗の里からの依頼を時折引き受けていた。というより、幼馴染みの白天狗が玉鋼を持ってきては仕事を押しつけにくるのだ。放っておけばいいのだが刀鍛冶の性格では、玉鋼を放置しておくことはできなかった。

 ふた月ほどかけて玉鋼の鍛錬や火入れをおこなって、刀身の形を整える作業まで終えた。本来なら複数の手が必要な作業ばかりだが、術を行使すればどうとでもなる。そのため昔から刀鍛冶は、鍛冶場に人間を入れようとしなかった。

 残るは刀身に文様を施す焼き入れの作業のみ。これも昼間のうちに粘土を刀身に塗ってあるので、あとは刀身を火に入れるだけだ。

 炉に術で火を灯した刀鍛冶は炎の様子を観察し、適切な温度になるまで待った。それから道具で掴んだ刀身を炎の中に入れて平らに、あるいは傾けて、闇を照らす炎に刀身を焼かせる。

 このくらいか……。

 刀鍛冶は刀身を炎の中から出すと、そばに置いてある土の水槽に入れた。熱された我が身を急激に冷やされた刀身が激しい音をたて、絶えない小川の音をかき消す。

 だが、鍛冶場に満ちる音と熱が鍛冶場の外に漏れることはない。戸と窓の格子に貼った術札が、そうしたものを外へ逃がさないのだ。人間のふりをやめたあとも己の存在を人間に知られることなく仕事をするには、このような小細工は不可欠なのだった。

 さらに隣の小部屋へ行き、研いで、術で灯した明かりの下で刃紋の出来栄えを確認する。波打つような紋に、焼けた部分に浮かぶ斑の目。どちらも刀鍛冶が亡き父から継いだ刃紋だ。

 光の下でつぶさに観察し、これなら銘を刻むことができると確信し、刀鍛冶は長い息を吐いた。達成感、満足感。熱が失せない身に充満する疲労感の中、それでも満ち足りた気持ちが刀鍛冶の胸を満たす。

 銘を刻むのは、明日でもいいだろう。片付けを済ませた刀鍛冶は、疲れた身体を引きずるようにして母屋へ入った。茶の間を通り過ぎ、縁側へ足を踏み入れる。

 するとばさりと聞き慣れた翼の音と共に、中庭に影が落ちた。

「――――おや、ちょうどいいところに」

 雅やかな響きの物言いと共に、空からばさりと音が降ってきた。

 刀鍛冶が見上げると、見慣れた男――天狗が穏やかな笑みを浮かべていた。緩く風を巻き起こしながら庭に降り立つ。

 刀鍛冶は迷惑そうに眉根を寄せた。

「何の用だ」

「もちろん君の様子を見にきたんだよ。君の周囲が近頃騒がしいらしいって、風の噂で聞いたものだからね。ああこれは私からの差し入れだよ」

 と天狗はにっこり笑いながら手にしていた風呂敷を軽く持ち上げて示すと、無造作に刀鍛冶に向かってひょいと落としてきた。刀鍛冶は仕方なくそれを受けとる。

「君の新しい素襖だよ。まったく、いつまでそれを着るつもりだい? 君は本当に昔から外見にこだわらないよね。物を長く使うのはいいことだけど、限度があるよ」

「……」

 肩をすくめられ、刀鍛冶は天狗を睨みつけた。しかし天狗はどこ吹く風で、涼しい顔をするばかり。何を探しているのかきょろきょろと辺りを見回す。

「それで、あの行商人の子はいないのかい? この屋敷に滞在中と聞いたのだけど」

 ……目的はやはりあの娘か。

 刀鍛冶の眉間にしわが寄った。

「どこかへ行った。行き先は知らん」

「おや、行き違いか。じゃあ町へ行商をしているのかな。あとであちらへ行ってみようか」

 顎に指を当て、天狗はうんうんと頷く。

「このあいだ賽の河原と重なる時間に河原で見かけたから声をかけたけど、面白そうな子だよね。元気いっぱいで、素直そうで。……陰気な君の手をぐいぐい引っ張っていきそうなところが‘彼女’に似ている」

 天狗は墓石に顔を向け、言った。表情だけでなく、呟くような声音にも懐かしさがにじむ。

 刀鍛冶の視線は冷たいものになった。

 天狗が言う‘彼女’とは、刀鍛冶のもとに押しかけてきた女のことだ。石雪の町では刀鍛冶を連れ去った女天狗と言い伝えられている、面倒な女。

 天狗があの女の名を呼ぶことはない。それが彼なりの考えあってか、そもそも名を知らないからか。聞いたことがないので刀鍛冶は理由を知らない。

「用はこれだけならさっさと帰れ。刀はもうすぐ仕上がる」

「つれないなあ」

 刀鍛冶が冷ややかに退去を命じると、天狗は肩をそびやかした。

「私が今日ここへ来たのは、君があの子に対して、今までこの屋敷に滞在した人間とは違う態度のようだと聞いたからだよ。ほら、ここには色々な植物や風の精がくるから。君には怖がって近づかないようだけど、私には色々と話をしてくれるんだよね。殺気を向けられても君にちゃんと謝るなんて、すごい度胸の子だよねえ」

 にっこりと天狗は笑った。

「気に入ったなら留め置けばいいじゃないか。少なくても、他の人間とは違うとは思ってるんだろう? まあ無理強いするのはよくないけれど」

「……この屋敷を荒らさないから放っておいているだけだ」

「自分から話しかけてるくせに、よく言うよ。最近またあの術者集団がうろついてるのに、術者避けの結界を張ってないし。彼女が術者の素質持ちだからだろう?」

 刀鍛冶の釈明を天狗は楽しそうに一蹴した。

「私としてはどういう形であれ、君が外の世界に関心を持つのは嬉しいことなんだけどね。君は元々陰気な性格だけど、‘彼女’が死んでから一層磨きがかかっているし。ある日ここへ来てみたら君が死んでいたなんてありえそうで、心配はしているんだよ」

「……」

「君もいい加減、屋敷の外に出てきなよ。もうすぐ石雪の町で祭りがあるんだろう? あの子とでも行けばいいじゃないか。たまに来ている町娘のほうはお気に召さないようだし」

 ……この男を賽の河原へ送ってやろうか。

 刀鍛冶は本気で思った。堪忍袋の緒がどうにも切れそうだ。

 だが不穏な考えを実行しようと刀鍛冶が意識したのを、一体どう感知したのか。天狗は翼を羽ばたかせて宙へ飛んだ。腕を組んではああ、と溜息を吐く。

「物騒だなあ。せっかく背中を押してあげようとしているだけなのに」

「くだらないことを言ってないで、さっさと帰れ」

「はいはい。刀はもうすぐ仕上がる予定だよね? 十日後にまた来るから、忘れないでくれよ」

 刀鍛冶をこれ以上怒らせてはならないと悟ったのか。天狗は残念そうな顔をして身をひるがえした。ばさりと白い羽根を一つ落として、木々の影の向こうへと飛び去る。

 その影を見届けもせず、刀鍛冶は長い息を吐いた。

 何故あいつと話すとこうも疲れるんだ……。

 幼い頃からそうだ。あの天狗はどういうわけか刀鍛冶に絡んでくる。仕事の依頼をしてくるだけならまだしもこうして差し入れと何かしら放りこんでくるし、酒を持ちこんで一晩騒いでから帰ることすらあるのだ。まったくもって鬱陶しい。

 心配しているというのもどこまで本当か……。

 胸の内で舌打ちし、刀鍛冶は奥座敷へ向かった。あの人をからかい倒すことにばかり全力を尽くす幼馴染みの腹の内なんて、考えるだけ無駄だ。

 いや、向かおうとした。

「……」

 意識に触れるものを感じ、刀鍛冶の秀麗な面がゆがんだ。眉間にしわが寄り、目元に不快が刻まれる。

 屋敷のそばにある小川を誰かが通り過ぎた。しかしこれはあのよそ者の娘でも、町人のものでもない。

 術者だ。この屋敷の静寂と安寧を乱す、招かれざる客。

 刀鍛冶は足早に土間へ向かった。素足のまま土間へ下り、母屋の玄関の戸を開ける。

 その途端、刀鍛冶を取り囲む空気が変わった。術と冷たく張りつめた気配に満ちていく。

 玄関の門が開くと前庭に四人の人間が雪崩こんできた。

 その中の一人に刀鍛冶は見覚えがあった。

 ……先日、この屋敷に侵入してきた術者か。仲間を見捨てて逃げたのが一人いたな。

 他の仲間を集めて懲りずにまたやってきたようだ。刀鍛冶の胸の内に溜まる不快感に怒りが混ざった。

 術者たちがあの白い花を狙う理由は刀鍛冶はわかっている。だが何故諦めないのかは理解できない。手に入れられないものをどうしていつまでも、多くの者の命を犠牲にしてまでも手に入れようとするのか。

 人間の術者ごときに結界を破られるほど、刀鍛冶は弱くはない。だが、こうも繰り返し襲撃をかけられるのは不愉快だ。

 四人は刀鍛冶を見るやぎょっとした。しかしそれも一拍だけのこと。憎々しげに睨みつける。

「この化け物め……! 今度は前のようにはいかんぞ!」

 若い術者は吠え、指を複雑な形に組んで言葉を紡ぎだした。

 その男を中心に、前庭に人間の通力の気配が生まれた。仲間たちも続いて詠唱を始め、通力の気配が存在感を広げていく。

「……」

 だが刀鍛冶はわずかも心を乱さなかった。

 ――――来い。こいつらを飲みこめ。

 半眼になった刀鍛冶が心の中でそう呼びかけた途端。

 刀鍛冶の影がぐにゃりとゆがんだかと思うと、弾かれたように勢いよく地面から飛びだした。鞭のようにしなやかに、矢のように敏捷に術者たちを狙う。

 しかもそれ一つだけでなく、術者の影自身からもずるりと影が何本も伸びたのだ。これには、どの術者も対応できない。目を見開き詠唱を一瞬停止させた状態のまま、たちまち影に拘束されていく。

 影の触手は地面へと術者たちを引きずりこんでいった。地面は地面でしかないはずなのに、まるで水面であるかのように影に波紋が広がる。

「やめろっやめてくれっ……!」

「放せぇ!」

「――――っ」

 恐怖に駆られた術者たちは、恥も何もかも掻き捨て無様にわめいた。まだ引きずりこまれていない腕をばたつかせるが、そんなもので逃げられるはずがないのだ。術を唱えようとした者も、影の触手に口を封じられてはどうすることもできない。

 術者たちの目に浮かぶ感情は身が沈むにつれ、恐怖から絶望へと変わっていく。

 ――――それからほどなくして、辺りは静寂に包まれた。遠くから蝉の鳴き声が聞こえてくる。

 刀鍛冶の眼前に術者たちの姿はない。いた痕跡すら存在せず、水面に石が沈むような音がしたり、黒い泡のようなものが生まれて宙に浮いては闇に溶けていく。

 それもなくなり、賽の河原が今ここに顕現していた証拠は完全に失せた。

 術者たちを排除した刀鍛冶は短く息を吐いた。

 ‘闇繰りの’。刀鍛冶は幼い頃からそう呼ばれていた。賽の河原から闇を招き、自在に操ることができるからだ。生来の才能で、物心ついた頃には操り方を刀鍛冶は理解していた。

 他の妖が持たない力を持ち、その性格もあいまって孤立しがちな息子をどう思ったのか。刀鍛冶の父親はある日、天狗の里からこの町へ移り住んだ。妖よりはるかに脆弱な人間のふりをすることを通して、息子に協調性を学ばせようとしたのかもしれない。そのもくろみは生憎、まったく成功しなかったわけだが。

 父の死後。天狗の里へ帰る気になれず、刀鍛冶は惰性で人間のふりを続けていた。種族を問わず求められるままに刀を打ち、時折現れる幼馴染みに絡まれ、気分転換を兼ねて落ちた星を探しに行く。単調で静かで満ち足りた日々だった。

 そんなある日に現れたのが‘彼女’だ。

『私を妻にしてください』

 刀鍛冶の断りもなく屋敷の戸を開いて、あの女はそう言った。あまりにも理解できなくて、これが思考停止というやつかと半ば冷静になったほどだった。

 根負けして仕方なく屋敷に住ませてやってからは、大変という言葉では片づけられない日々が始まった。一体何度、堪忍袋の緒が切れそうになったことか。

 中庭の奥――――崖から石雪の町や空をよく見ていた。この景色が好きだとほのかに笑んで。刀鍛冶はその儚くさえある横顔を幾度となく見つめた。。

 そして――――。

 ……思いだしてどうする。あんな腹立たしい女のことなど……。

 刀鍛冶は回想を打ち消すべく首を振った。

 ともかく、今宵の静寂はもう乱されることはないだろう。そう考え刀鍛冶は母屋へ戻った。中庭の墓前には向かわず奥座敷の一室へ入って、敷いたままの布団に寝転がる。

 鍛冶の疲れが一気に押し寄せてきて、刀鍛冶は瞼を閉じた。

 早く眠らなければ……。あの騒々しい小娘が戻ってきて、寝静まってから墓前に腰を下ろさなければ……。

 しかし声が聞こえてくる。この床で眠るたびに聞こえてくる女の声が、今日も。

『百年、待っていてください。きっと会いにきますから』

 この床の上で‘彼女’は言った。死の間際にいるとは到底思えない、いつもと変わりない声で。

 そしてあっけなく死んだ。

 その日から刀鍛冶は‘彼女’の誓いが果たされるのを待っている。人間のふりをやめ、時に愚者たちを賽の河原の闇に引きずりこみながら。

 あれからもう随分長い歳月が過ぎた。どれだけ過ぎたのかは数えるのをいつのまにか忘れてしまったから、わからない。五十年か、あるいは百年をとうに過ぎているのか。

 騙されてしまったのかもしれない、という考えはある。あの女は人をからかうのが好きだった。それにあの天狗の戯言が本当なら、本気で刀鍛冶の妻になるつもりでいたのだ。それなら己の死で刀鍛冶を縛りつけようとしたとしても、不思議はない。

 だが今更、墓石から離れられるはずもない。‘彼女’との再会を待つことは、もはや刀鍛冶の生活の基盤になっているのだから。

 だが、いつまで俺は待てばいいのか……。

 待つことに飽いた声が、心の奥底から聞こえてくるとしても。

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