あの夜に
北見崇史
あの夜に
駐車場からホテルまでの小道を歩きながら、四人は話をしていた。先頭の二人が男で、後ろ二人が女だ。
「しっかし、ホテルの駐車場なのに、けっこうな距離じゃねえか」
「これじゃあ荷物をもっていけないよな」
「だから、つぶれたんじゃないの」
夜道はよほど暗く、山間の温泉ホテルなので周辺に住宅というものがない。ところどころに設置されている外灯は、真っ黒いタールだらけの電柱に傘付きの裸電球がポツンとあるだけで、そこから降り落ちる灯はかえって不気味だった。
「それらしくなってきたな」
「いい感じだよな。おっと」
足元に大きな虫がいたような気がして、先頭の剛志が立ち止まった。すぐ後ろにいた昭雄が、その背中にぶつかりそうになる。
「ねえ、もう帰ろうよ。ほんとうに幽霊がいたらヤダよ」
最後尾でへっぴり腰のままついてくる真由美は、暗闇の中に消え入りそうな気弱声だった。
「ホントに出るの、ウソなんじゃないの。ぜったいそうだって」
もう一人の女である文子は、逆にあっけらかんとした表情だ。怖いものに耐性があるのではなくて、そもそも怪談話を信用していない。
「さっきのサ店に戻ろうよ。あそこ、朝までやってるし、インベーダーゲームもあるし」
「うるせえ。金欠なんだよ」
剛志は、さもうるさそうに言う。文子は「インベーダー、やりたかったのに」とぶつくさと文句をたれていた。
四人は幼馴染の同級生で、年のころは二十歳そこそこだ。ほかの土地に移ることなく同じ町に留まっていた。
「うわ、これはヤバそうだなあ」
真っ黒な闇を背景に廃墟ホテルがそびえていた。近くに渓流があり、その先は峻険な断崖である。ほのかな月明かりが廃墟の建造物をより薄気味悪く照らしていた。水が流れる音がやかましく、硫黄混じりの臭気が鼻をつく。
「ちょっとー、ちゃんと足元を照らしてよ」
「やってるじゃねえか」
「ぜったい、幽霊がいるよ」
「だから来たんだって」
彼らは肝試しにやってきたのだ。
「ここで殺人事件があったんだ。従業員同士のもめごとの末にめった斬りでさあ、けっこうひどかったらしい」
昭雄が、夜の廃墟にふさわしい話題を始めた。
「それって、ただのウワサじゃないの」
「噂じゃねえよ。オレのおばさんが仲居の知り合いで、くわしく聞いたんだって。そいつ、色恋沙汰のはてに頭がおかしくなって同僚の女たちを殺してしまったんだってよ」
説き伏せるように文子へ言い放った。
「そんなこと新聞にもテレビでもやってなかったよ」
相変わらずへっぴり腰の真由美だが、情報の真偽には妥協したくないようだ。
「とりあえず、中に入ってみるか。なんか出てきたら、俺がぶん殴ってやる」
「ああ、オレもだ」
剛志と昭雄が漢気を見せる。真由美はホッとしたような顔となり、文子もまんざらでもない表情だ。廃墟ホテルの中へ四人の姿が消え入ってゆく。
「しっかし、人がいなくなったホテルって不気味だよな」
「ニオイがするね。誰かいるみたいだよ。メシ食ってんじゃないの」
「フミ、ヘンなこと言わないでよ。ホントに出たらどうするの」
「出たほうがおもしろいって。なにもなかったら、サ店でインベーダーやってたほうが良かったじゃんか」
「あのサ店、ミートスパゲッティーが美味しいから食べたいな。おなかすいた」
「おまえら、はしゃぎすぎるなや。ちゃんと前向いてないとぶつかっちまうぞ」
女子二人の会話が気に入らないのか、剛志の口調はやや威圧的だ。
「自分が連れてきたんじゃないのさ。なに怒ってんのよ」
文子が先頭に出た。気分次第で歩いているためか、あちこちにぶつかっている。
「おい文子、酔っぱらってんのか。おっさんみたいに立ちションベンするなよ」
そう言って昭雄がゲラゲラと笑う。文子が振り向いて憮然とした顔で睨みつけていた。
「フミは酔ったら人が変わるから」
真由美の何気ない一言だったが、余計な一言でもあった。カチンときたのか、文子の口調が尖ってしまう。
「真由美、あんたが酔ったら男に抱かれにいくじゃないのさ」
予期せぬ友だちからの言葉に真由美の顔がこわばった。
「なにバカなこと言ってんの。そんなわけないでしょ」
「なんだ、どういうことだ、それは」
剛志と真由美は付き合っている。恋人同士だと、少なくとも男のほうは思っていた。
「さあ、どうなんだか」
すっ呆ける文子だが、なにかを含んだ表情だった。剛志の眉間にぶっ太いシワができた。
「真由美、おまえ、もしかして浮気してんじゃねえか」
「し、してない、してない。フミが、ふざけてるんだって。本気にしないでよ」
真由美は否定するが、心の動揺が態度にあらわれていた。
「なあ、痴話喧嘩は帰ってからにしろって。せっかく幽霊探しにきてるのよ」
肝試しのスリルにケチが入ってしまい、昭雄が不満顔だ。
「ああ、だったら行こうぜ。今日は徹底的にお化け探しだ。なにが出てくるかたのしみだな」
剛志は真由美を睨みつけていた。彼女は下を向いて目を合わせないようにしている。
「ねえ、こっち、こっち」
やや下りに傾斜がかかった細い廊下の向こうで文子が呼んでいた。三人が近寄ると、左側にある部屋に入った。
「ほら、これ見てよ」
文子の指さす先には、薄いピンク色の長細い袋があった。先端に白い液体をためて、べっとりと畳に貼り付いている。
「使用済みコンドームかよ。スケベだなあ」
「まだ新しいじゃないのさ。やりたてホヤホヤでしょ」
昭雄と文子は好色そうな目で見ているが、剛志は別のことを考えていた
「つうことは、誰かがいるんじゃねえか。いまもこのホテルの中に」
「ここは幽霊が出るって有名だから、カップルが一発ヤッてても不思議じゃないって」
昭雄は面白がっていた。
「真由美、裸になって走ってきなよ。男が寄ってくるからさ」
「どうして、わたしが裸にならなきゃならないの。おっかしいよ」
文子のふざけた言い草に、真由美はムキになった。
「だって、あんたは顔のいい男だったら誰とでもヤるじゃん」
「文子、テキトーなこと言うんじゃねえ。真由美は俺と付き合ってるんだぞ。なにいってんだ」
「あたし、知ってるんだ。真由美は信二とヤッたじゃんか。本人が酔っぱらって自慢してたって」
「ウソばかり言うの、いいかげんにしてよ。自分がモテないからって、ひがむな、ブス」
ふだんは大人しい真由美が激高していた。口を尖らせて、プルプルと両肩を震わせている。
「信二の話、ほんとうなのか。真由美っ、どうなんだ」
「だから知らないって」
「ほんとうだよ。信二に訊いてみればいいんだ。あいつ、すぐ自慢するからさ」
そう言いながら、文子はせせら笑っていた。
「おい、こっちの部屋にこいよ。布団があるって。まだあったかいぞ」
昭雄が隣の部屋に入った。敷布団に手をあててぬくもりを感じている。
「信二だけじゃないよ。三組の担任で大野っていたろう。真由美はねえ、卒業式の日にあいつともヤッたんだ」
「うるさいっ」
真由美の右手が文子の髪の毛をつかんだ。そして左手でゲンコツを作りボカボカと頭を殴り始める。見かけによらず、キレると狂暴な女だった。
「真由美、やめろ」剛志が止めに入った。
だが、火が点いた女の本能はおさまる気配を見せない。ワーワー叫びながら手を振り下ろし殴打を繰り返していた。
「おい、おまえ、まさか大野とヤッたのか」
恋人の本気具合に、剛志の疑惑が確信に成長していた。
「なんか、ホテルっていいよなあ。子供のころを思い出すっていうか」
テーブルに並べられた和食膳を眺めながら、昭雄は夢見心地だ。小鉢に鼻を近づけて、クンクンとニオイを嗅いでいる。
「ホテルの茶碗蒸しっていいんだよなあ。母ちゃんが作るよりも上品でさあ」
茶碗蒸しは出来立てのようで、美味しそうな湯気を立てていた。
「痛ぇっ」
真由美を羽交い絞めにして引き剥そうとした剛志であったが、ほどよく伸ばされた爪で頬をおもいっきり引っ掛かれた。出血はしなかったが、見栄えの悪い三本の赤い線ができてしまう。
「この、クソ女がっ」
彼女の腰を蹴飛ばした。つんのめった真由美は文子を巻き込んで床に転がった。
「クソが、クソが」
起き上がろうとした真由美の顔めがけて、重量感のある尖った蹴りが放たれた。何度も何度も、足裏の暴力が繰り返される。小さな顔がドス青く腫れあがり、やがてその血袋が破けて生臭くも鉄臭い汁が飛び散った。
「なあ、卓球やらねえか、卓球」
温泉ホテル定番の遊戯をしようと昭雄が誘っている。すでにエアーな素振りをやり始めていた。
「売女のくせに、よくもやったな」
暴力的な恋人の暴力によって、真由美の顔は手ひどく潰されてしまった。そこへ、今度は暴力を振るわれていた女が仕返しの暴力をする。しかも彼女は暴力に凶器を追加ことに躊躇うことはなかった。
「死ねっ」
湯沸かしポットが勢いよく振り下ろされた。小顔が可愛らしかった女の額に尖った注ぎ口がめり込んだ。不幸だったのは、その三角形が安物にありがちなプラスチックではなくて、硬いステンレス製だったことだ。
「ぎゃっ」と呻いた真由美の体が痙攣し始めた。口から泡を吹いて白目を見せている。
「文子っ、おまえなんてことするんだ」
「あんただって、さんざん蹴り入れてたじゃんか」
二人は罵り合いながら、虫の息となった女を見下ろした。
「オレさあ、このホテルを辞めようと思うんだ。だって給料は安いし休みはねえし、ヤクザに絡まれるし」
昭雄は疲れきっていた。預かっていた客の荷物を紛失してしまい、責任問題となっていた。具合の悪いことに相手は暴力団の幹部であり、内臓をえぐり取るような恫喝を受け続けていた。
「会社はなんもしてくれないさ」
ホテル側は、この意志薄弱な従業員を見捨てた。彼はすべての災厄を背負い、屋上の縁に立っている。
「俺は殺してねえ。おまえがやったんだ。俺は知らねえぞ」
「あんたも共犯だよ。あんたが殺せって言ったんだ。警察にはそう証言するんだから」
「おまえがやったんだ」
「あんたが殺せって言った」
「クソがあー」
ガタイのいい男の蹴りを喰らって、文子が後退りながら転んだ。すると、コンクリート片から突き出した鉄筋が後頭部に深々と突き刺さってしまった。瞬時に絶命し、ねっとりとした赤黒い血だまりが廃墟の床へ広がってゆく。
「母ちゃん、ごめん」
屋上から飛び降りた昭雄は、階下に寝泊まりしていた多くの客に目撃されながら地面に激突して、ひしゃげてしまった。手足が逆方向にひん曲がり、後頭部が縦に割れている。
「はい、フロントでございます」
その温泉ホテルのフロントへ内線電話が入った。時刻は真夜中をだいぶ過ぎた頃である。
「この時間になんですか、主任」
夜間勤務のフロント係りが眠そうな顔で訊いた。
「楓の間からで、へんなのが出たんだと」
「えーっ、また霊現象ですか」
「ああ。頭に棒が突き刺さった女が廊下を歩いていたって大騒ぎしてるよ」
「行くのやだなあ」
客を宥めるのはホテル従業員の職務だ。イヤイヤながら支度をしていると、また内線電話がきた。
「今度は408号室からだ。押し入れに手足がない女がいたって、子供が言っているらしい」
「ああ、バラバラのやつですか。楓の間が片付いたら行きますよ」
客から呼ばれたさいには部屋のマスターキーを持っていく規則なので、首からかけた。
「昭和の時代でしょう、旧舘で起こった殺人って。もう、かんべんしてほしいですよ」
「それも事実かウソ話か、結局わからんけどな」
「とにかく行ってきます」
フロントを出て食堂のキッチンへ立ち寄り、放置されていた出刃包丁を持ってきた。
「死体が見つかったらマズい。死刑になるのはイヤだ」
真由美の四肢を切断するのは骨の折れる作業だった。二人の女を処理しなければならないのだが、一人目でバテてしまう。
「なにもバラバラにしなくても、死体を隠せばいいんだ。俺はなにをやっているんだ」
血まみれの手で頭を抱え込んだ。傍らには手足が切断された女と、頭に鉄筋の棒が突き刺さった女の死体があった。
「だから、ここに来るのはイヤだったんだ。昭雄が死んだからって、こんなとこに来ちゃダメだったんだ」
二人を隠す場所を探さなければならないので、廊下をさまよっていた。
「ホテルの方ですか」
「ええ、そうです。ええっと、楓の間のお客様でしょうか」
「たいへんです。頭に棒の刺さった女の人がいたんです。もう怖くて怖くて」
「はあ」
どうやって説明するかを考えていた。お客さんが酔っていた、または気のせいですと、いつも通りに誤魔化すしかないだろう。
「こっちです、こっち」
「そんなに急がないでください」
楓の間は三階にある宴会場の隣の大部屋で地下室ではないのだが、なぜだか階段をひたすらに下っている。
「このドアです。早く開けてください」
言われるままにドアノブにマスターキーを突っ込んだ。普段、あまり使われることがないので、渋くて解錠するのに手間がかかった。早く早くと、どこかで急かされているので余計に焦る。マスターキーが柔らかく感じて、力の入れ過ぎで折れてしまうのではないかと不安になった。
カチッと鳴って、確固たる手ごたえがあった。ドアを押し開けると、肌に突き刺さるような冷気が吹きつけてきた。暗黒が広がる廃墟ホテルの屋上で、赤く錆びた給水タンクの中が気になって仕方がない。血まみれの出刃包丁を捨てて、タンクに付属する梯子に手足をかけるが、たいがいに腐っていて踏み外した。
どこまでも落下してゆく感覚が怖くて仕方がない。あの夜を後悔した途端、激しく激突したんだ。
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