瑞木由花 18歳 秋3

 連絡を受けた時、わたしとお父さんたちは、ライブを見終えた直後だった。すぐにお父さんの運転する車でおねーちゃんが搬送された病院へ向かうことになった。


 逸る気持ちを抑えきれない。到着してすぐに受付へ。わたしは手続きを待つ時間も我慢できず、部屋番号を聞くなり廊下を速足で通り抜けていく。


 病棟二つ分移動し、目標の病室の扉を開ける。ベッドは一つしかない。駆け寄って、おねーちゃんの顔を覗き込む。いつもより色が白くて、なんだかうすっぺらい。


「わ、由花。びっくりした」

「おねーちゃん……。どうしたの? どこか悪いの?」 

「そんなことないよ。お医者さんは、軽めの過労か酷い立ち眩みだと思う、って言っておられたし。ほら、点滴打ってもらってるし、ちゃんと休めばすぐに元気になるんじゃないかな」


 だと思うって、医者なんだから、中途半端なこと言わないでよ。


「じゃあ、明日のライブは休まないと」

「ううん、ちゃんと出るよ。せっかく来てくれる人たちに悪いし」


 部屋の隅の椅子に座っていた早桜さんがため息をつく。いたんだ。


「一週間後の第六公演までの、すべてのスケジュールをキャンセルしておいたわ。明日を乗り越えれば、しっかり休めるわよ」

「いや、こんな状態で明日のライブができるわけないじゃないですか。それに一週間っていっても、リハーサルや現地移動があるから休めるってほどじゃないですよね? それに第六公演が終わったらまた普通に仕事させるってことでしょ? 体が持つわけない!!」

「それを判断するのは、わたくしとエリカと、医者の役目よ。あなたじゃない。あと第六公演以降のスケジュールについては現時点では保留よ」

「由花、気持ちは嬉しいけど、これはワタシがやりたくてやってることだから」


 そう言われたら、止められない。けど、本当にそうなの? おねーちゃんを見つめる。倒れて、病院に運ばれて、点滴を打たれて。これがおねーちゃんのしたいことの結果なんだよ? それでいいの?


「……わたしはおねーちゃんを応援するよ。でもさ、元気なおねーちゃんじゃなきゃ応援できないよ。やりたいことなら、体が良くなってからやればいいじゃん。ファンだって、おねーちゃんのことが大事だから受け入れてくれるよ」

「でも、これは仕事だから、」

「仕事だから、やりたくなくても、無理してでも頑張らなくちゃってことでしょ?」

「……由花、あんまりワタシを困らせないで」


 困ってるのはわたしもだよ。矛盾したことを言ってるの、気づいてるでしょ? 本当はどう思ってるのか、教えてよ。


 遅れてきたお父さんたちが病室に入ってきて、早桜さんに挨拶し、わたしの隣にやってくる。廊下を走ったことを怒られた。二人はおねーちゃんが大丈夫だって言うと、ほっとした顔をする。なんでそれで納得できるの? おねーちゃんが無理してるのなんて、一目瞭然じゃん。


 四人は呑気に今日のライブの感想を話し始めてしまう。今はそんなこと話してる場合じゃないのに。


「ちょっと待ってよ。まだ話は終わってない!! 何かあってからじゃ遅いんだから!! おねーちゃんの歌は普通の人よりずっと体に負担がかかるって、みんな知ってるでしょ? 倒れた日の翌日にそれを二時間もぶっ通しでやらせるの? そんなのただの拷問だよ!!」

「由花」


 いつもより厳しい顔をしたお父さんが、わたしをじっと見つめてる。


「恵里佳もお医者さんも大丈夫だって言ってるんだ。そんなに心配しなくていい。……飲み物でも買って、落ち着くまで少し外を歩いてきなさい」


 四人の目を見る。おねーちゃんが視線を逸らした。


「………………わかった」


 肩を落とす。わたしはおねーちゃんの力になりたいだけなのに。


 わたしの想いは、いつの間に余計なお世話になってしまったんだろう。






 病室を出て、壁にもたれかかる。深呼吸すると、消毒液の臭いがわたしの心を少しだけ穏やかにしてくれた。のどがカラカラになってる。取り合えず受付に行って、そこで自動販売機か売店の場所を聞いてみよう。


 気持ちが落ち着いてくると、徐々に自分を客観視できるようになった。ああ、これは疎外感だ。お父さんもお母さんも早桜さんも、おねーちゃんのことが大切で、応援するって気持ちは同じ。おねーちゃんだって、それをわかってくれている。


 なのに、同じ想いを持ってるはずなのに、どうしてわたしだけみんなと意見が違うんだろう。でも、わたしは自分が間違ってるとは思えない。


 廊下を歩き始めてすぐ、向こう側から男性が近づいてきた。この病棟で知り合い以外の人を見るのは初めてだ。この先には、おねーちゃんの病室しかない。


 ソイツはわたしを見ると、優しく微笑みかけてきた。


「やあ、由花ちゃん。久しぶりだね。元気にしてた?」


 わたしのことを知ってるの?


 まじまじと顔を見る。男の人は、なよっとした雰囲気があるけど、二十代後半くらいで、けっこうイケメンだ。身長も高い。スーツもピシッとしてていかにも仕事ができそうで、合コンだとモテそうだ。


 でも、こんな知り合いどこに。記憶を遡る。遡る。さかのぼ、


「――な、」


 ぞわあ、と。


 体中をウジ虫が這いまわったような気色悪さ。全身に鳥肌が立ち、手足がビクリと痙攣する。ちょっと待って、わたしが見ているのは現実なの? 意味がわからない。声が震える。


「なんで、アンタが、ここに、いるんだよ。――キヨにい」

「覚えていてくれたんだ。嬉しいよ」


 声がベッタリと鼓膜に張り付いて、気持ち悪くて剥がしたい。落ち着けって何度も自分に言い聞かせる。なんとか動揺を押さえると、今度はふつふつと怒りが湧いてきた。


「うるさい。なんでここにいんのかって聞いてんだ。答えて」

「それは、僕がエリカのパートナーだからだよ」


 わたしかキヨにいの頭のどっちかがおかしくなってるんだと思った。


 でも、キヨにいの外見はあの写真の男とぴったり重なる。重なってしまう。


「いや……いやいやいや、あり得ないでしょ。おねーちゃんがお前みたいなクソ野郎を人生のパートナーに選ぶわけない」

「本当のことだよ。僕たちは互いに必要とし合っている」

「嘘だ!! アンタは何かでおねーちゃんを騙してるんだろ? 何が目的なの!?」

「恵里佳のことが大切だから。それだけだよ」


 ふざけんな。おねーちゃんの名前を口にすることすら許しがたいのに。


「そんなわけない。だってアンタ、ロリコンじゃん。昔ならともかく、今のおねーちゃんには用がないでしょ?」

「……知ってたんだ」

「ちゃんと証拠も見たからね。わたしはアンタなんかに騙されない」


 言い訳がましく否定するかと思ってたのに、キヨにいは悲しそうな笑顔で受け入れた。なんだその顔、まるで自分は苦しんでます、って言いたそうに。


「……アンタが傍にいたってことが、わたしをどれだけ不安な気持ちにさせて、苦しみ続けているかも知らないくせに」

「確かに僕はロリコンだ。けど、君が恐れているようなことは何もしていない。もちろん恵里佳にも」

「ロリコンのくせに、信じてもらえると思ってんの? 答えてよ。何が目的?」

「……僕は、昔の恵里佳を愛していた」


 キヨにいは、大切な思い出を慈しむように、胸に手を当て語り出す。はたき落してやりたい。


「恵里佳はとても魅力的だった。控えめだけど無垢な笑顔も、お姉さんぶって背伸びした仕草も、ふとした時に見せる洞察力も、理想の女性だった。けど、あの時の彼女は、もういない」


 そうだ、だからアンタがここにいる理由はない。


「僕の愛情は絶対に社会に受け入れられないし、受け入れられてはいけないものだ。理由なんて言うまでもないよね。相手が子供だから、どんなに紳士的に振る舞っても、必ずどこかで搾取が生まれる。何もしなくたって、今由花ちゃんが言ったように、ロリコンだとバレただけで人を傷つけ、不安にさせてしまう。それくらい許されないし、罪深い」


 そうだ、だからアンタはそこにいるだけで罪なんだ。


 キヨにいは、一転して笑顔を浮かべて。


「でも、今の恵里佳とならデートをできるし、結婚もできる。一緒にいることができれば、恵里佳の中にある昔の恵里佳の残滓を見て、かつての最愛の人との最高の日々を思い出すことができる。いつだって思い出を反芻できる。僕は愛する彼女と永遠にいられる。だから、彼女と共にいることにした」

「……………………は?」


 おねーちゃんの下着を口に含んで何度も咀嚼する姿を見せつけられたような、そんな、異常な気持ち悪さ。


 それは、おねーちゃんの過去を弄び、凌辱するのと、何が違うんだ。


「つまり、昔のおねーちゃんしか見てないってことじゃん。それで共にいるとか、あんまりふざけたこと言うと、殴るぞ」

「本気だよ。そのために僕は強くなった。名門私立大学を出て一流IT企業に就職し、社会的地位と収入を得た。世間に影響力のある人物と友人になった。外見も恵里佳の隣に立つに相応しくなるよう努力した。僕はかつての恵里佳と過ごした日々を守るためなら、今の恵里佳との生活を失わないためなら、何だってする。それが社会や世間だって、立ち向かってやるさ」


 理解できないことばかり。脳が軋む。


「……おねーちゃんがお前を好きなわけない」

「確かに恵里佳には恋愛感情がないらしい。でもだからこそ、今の恵里佳に恋愛感情を抱かず、恵里佳を支える覚悟がある僕が、パートナーに相応しいと思っているよ」


 ああ、ダメだ。どうしよう。そんなはずがないのに、言い返せない。


 とにかく、コイツをおねーちゃんの傍にいさせちゃダメだ。


「そんなの、受け入れられるはずないだろ」


 睨みつける。キヨにいは困った顔で、子供に言い聞かせるように言う。


「仕方がないことだから、諦めるしかないんだよ。この社会では、僕たちは僕たちらしく生きることが許されない。だから、例えどんなに愛している相手がいたところで結ばれない。どこかで妥協し、折り合いをつけるしかない。だから僕は、今の恵里佳と共にいることを選んだんだ。君だって同じはずだ。だから今も妹のままでいるんだろう?」

「はあ? 意味がわかんないんだけど。ていうかロリコンと一緒にすんな」

「誤魔化さなくてもいい。君はロリコンではないけど、僕と同類だ。気づいても不思議じゃないと思うよ」


 話聞いてんのかコイツは。


 キヨにいは、憐れむような、いたわるような、そんな顔でわたしを見つめる。気色悪い。


「……まさか、まだ無自覚なのかい? 由花ちゃんは恵里佳を好きなんだろう?」

「そうよ。それが何?」




「そうじゃない。一人の人間として、恵里佳を愛しているんだろう?」




「――はあ?」


 どうしてそうなる。アホなのかコイツは。


 本当に無自覚なんだね、とキヨにいはため息をつく。


「恵里佳とキスをしたいって思ったことは?」

「……それは、あるけど」

「なら、それ以上のことをしてみたいと思ったことは? 恵里佳のためだけにお化粧して、可愛い服を着たことは? 一晩中恵里佳のことを考えて、胸が高鳴って眠れなくなったことは? 些細な仕草にときめいたことは? 恵里佳と結婚式を挙げるところを想像して、式場や結婚指輪はどんなのがいいか想像したことは? どんな時でもお互いに支え合い、日々の暮らしを大切にし、ずっと二人で生きていきたいと思ったことは? ……好きだよって言葉じゃ、物足りなくなったことは?」

「…………あったら、何なの。別に、普通でしょ」


 そうだ、普通だ。誰もがわざわざ口にしないだけで、みんなが思っていることだ。


「いいや。それが愛してるってことなんだよ」


 でも、キヨにいは否定する。


 嘘だ。それは、わたしがおねーちゃんを好きっていうのは、そういうのじゃない。


 だって、そんなのおかしい。わたしはおねーちゃんの妹なのに、おねーちゃんのことを愛してるなんて。そんなの許されない。狂ってる。


 ……でも。


 何かが、すとんと胸に落ちる。




 でも、おねーちゃんへの想いは、姉妹愛や家族愛とは何かが違うと思ってたんだ。


 いつからか、ずっとずっと前から、何かがおかしいような気がしてたんだ。




 わたしを見て、キヨにいは心の底から憐れんだ様子で視線を伏せる。


「可哀そうに」

「違う……違う。わたしは、そんなんじゃない」


 首を横に振る。なんて、頼りない否定の言葉。


「わかるよ。そうなりたくて生まれたわけでもないのにね。普通に好きな人ができて恋愛できるなら苦しまなくて済んだのに。何故こうなったのかもわからないから、どうやって治せばいいのかもわからないよね。でも僕たちは、いつからか、もしかしたら生まれた時からこうだったんだから。受け入れて、諦めて、どこかで折り合いをつけて、妥協するしかないんだよ」

「違うから」

「認めがたいだろうけど、今の由花ちゃんの気持ちが現実だよ。……君は妹のままでいるといいんじゃないかな。そうすれば、恵里佳と仲良しのままでいられる。どうせ叶わない愛を望むより、ずっと現実的で幸せだ。僕が諦めたように、ね」

「違うんだって」

「だって僕たちは、社会的に許されない、声を上げることも、人並みの幸せを望むことも禁じられた少数派なんだから」

「違うって、言ってるだろ……!!」


 コイツを倒さなきゃ。そう思ってファイティングポーズをとったのに、怖くて縮こまってるみたいにしかならない。なんだよわたし、怯えてんのか?


「おっと、全国大会で二位になったんだっけ。恵里佳から聞いてるよ。……受け入れるのは大変だよね。今日は帰るよ。もしも何か力になれることが合ったら、恵里佳経由でもいいから連絡してね」


 キヨにいは踵を返して戻っていく。


 わたしはその背中を、睨んで、睨んで、睨み続けて、


 ……何も、できなかった。 

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