瑞木由花 18歳 秋1
九月下旬、高校最後の全日本女子ジュニアボクシング選手権。二連覇をかけ、あれだけ気合を入れて迎えた決勝の舞台も、今のわたしはまったく集中できない。
絶不調だ。体のどこかに穴が空いていて、そこから力が抜けていくみたい。無理矢理いつものペースに戻そうとすると力んでしまって、パンチもガードもステップもすべてがギクシャクする。勝てる相手のはずなのに苦戦して、歯がゆくて、苛立たしい。
……おねーちゃん。約束、したじゃん。
エネルギーが消えていく。観客席のどこにも、おねーちゃんはいない。ガードを抜けた相手のグローブがわたしの胃を抉る。鈍痛。ああ、鬱陶しい。
「よそ見してただろ、バカ!!」
一ラウンド後のインターバル、コーチは化粧っ気のないわたしの顔をタオルで拭いながら怒鳴りつけた。
「いいか由花、次のラウンドで最後だ。今はあのニュースのことは忘れろ。目の前の試合に集中するんだ。二連覇するんだろ。お姉さんを喜ばせるんだろ。試合は生中継されてるんだ、今カメラの向こうで応援してくれてるかもしれないだろ!!」
唾が飛ぶほどの大声。でも、そんなこと言われても、忘れるなんて無理だよ、コーチ。
おねーちゃんの、熱愛報道なんて。
ネットにも上げられた、夜の街をおねーちゃんが男と歩いている一枚の写真。今や世界から注目されている歌姫のスキャンダルは、早朝から芸能ニュースのトップに取り上げられた。アセクシュアルを公表していたこともあって、あちこちから批判の声が上がっている。
……恋愛感情は持ってないって言ってたじゃん、おねーちゃん。
なんで。なにがあったの。
おねーちゃんのことなのに、わたし、なんにもわかんない。
ゴングが鳴り、二ラウンド目が始まる。集中できない。でも負けたくないからがむしゃらに打ち込んでいく。なのに、どんなに頑張っても、頭の中におねーちゃんの歌声が聞こえてこない。だから、わたしは無敵になれない。
それでも前回優勝者のプライドがあったから、得意なショートレンジに無理矢理飛び込み、打って打って打ちまくる。有効打にならず逃げられ続け、まるで闘牛の牛になった気分。完全に翻弄されてる。こんな奴、普段なら一ラウンドでRSCで判定勝ちなのに。
……決勝戦は、わたしの判定負けだった。
「見るからに絶不調だったが、調子が悪い時もあるのは仕方がない。けどそういう時は今の自分にできる戦い方を考えろ。頭がパーになってたぞ。試合運びがいつも以上に軽率で強引だったし、実際翻弄されて――」
試合が終わってクールダウンしたあと、空いた席で他の選手の試合を眺めつつ、コーチと一緒に反省会をする。空気が重い。勝てる相手に負けたんだから当然で、でもわたしは悔しさより、おねーちゃんのことが気になって仕方なかった。
どうしてこんなに動揺しているのかわからない。恋愛感情がないっていうのは、おねーちゃんの勘違いだったのかもしれないし、誰かを好きになってもおかしくない。今日来てくれなかったのは、記者に追われるのを避けるためだろう。
だから、それで納得は……全然できない。
もやもやして仕方がない。おねーちゃんに会いたい。直接話して理由を聞きたい。何度もメールしたのに、なんで一つも返信してくれないの?
「由花」
反射的に顔を上げる。コーチの真っすぐなまなざしに、ようやく自分がどこにいるのか思い出した。
「なあ、由花。お前はなんでボクシングをやるんだ? 守りたいものはなんだ? それを、もう一度きっちり考えてみろ。……ボクシングは、人生のすべてじゃない」
……わかるけど、わからないよ、コーチ。わたしはおねーちゃんを守りたくてボクシングを始めた。今だってその理由は変わらない。だから、いざという時この拳でおねーちゃんを守れるように、ボクシングはなくてはならないものなんだ。
首を縦に振ると、もう一度念を押された。考えるってば。
大会の翌日、月曜日。クラスメイトの視線がウザい。おねーちゃんの熱愛報道についてわたしに聞きたくて仕方がない、って雰囲気だ。生憎だけど知らないよ。だって、おねーちゃんは未だにメールを返してくれてないんだから。
「不機嫌オーラ全開ね」
昼休み。ネイルが文庫本と文庫本みたいなお弁当を持って、わたしの前にやってきた。睨みつけると、肩をすくめられる。促されるまま昼ごはんを片手に中庭へ行く。まだ暑いけど曇りだし、あの教室よりは百倍マシ。並んでもそもそ食べ始める。
「その様子だと、何も聞かされてなかったみたいね」
「……今思えば、予兆はあったんだけどね」
思えば五月にセカンドライブをやったあたりからおかしかった。月に二回くらいは週末に帰省していたのに、月一回になって、今や二か月も直接顔を見ていない。夜に電話しても、忙しいからとかで、話をする時間が全然取れなくなってた。仕事を頑張ってるからだと思ってたけど、まさかこんな理由だなんて。
「おねーちゃんはアセクシュアルだって公表してたから、ファンに対する裏切りだなんて言ってるやつもいる。裏切りかどうかはわかんないけど、昨日は出る予定だった生放送の番組に出演してなかったし、仕事にだって影響が出てる。なのに、おねーちゃんは説明の一つもしてない。来月には初のライブツアーがあるから、絶対に何とかしなくちゃいけないのに」
「私はネットニュースで過労のせいだと言われているのを見たけど」
「わたしも見たけど? そんなの嘘に決まってるじゃん」
「あなたのお姉さんはファンに嘘をつくような人なの?」
「……でも、それならそうって言うはずだし」
少なくとも、早桜さんが手を打ち忘れるとは思えない。ネイルは長々と息を吐いた。
「伝える必要がなければ黙っていようと思ってたんだけど。由花、あなたは不定性のXジェンダー特有の精神障害について知っている?」
「何いきなり。知らないよ」
「簡単に言えば、肉体と精神が乖離する病気よ。症状が進行すると、手足が欠損したり意識不明になったりするらしいわ。と言ってもXジェンダーなら誰もがなるわけじゃない。そもそも不定性のXジェンダーとは、性自認がその時々で変化することで、それに応じて肉体の性別も変化する人のこと。これは由花も知ってるわよね」
眉を顰める。ネイルが人の話を聞かないのはいつものことだけど、輪をかけて酷い。おねーちゃんの仕事の話をないがしろにされたみたいで、腹立たしい。
「精神障害は、こうした性別の変化を繰り返すことで、自分の肉体を自分のものだとは感じなくなることによって起こるの。と言っても普通に生活していれば起こらないわ。性自認に合わせ肉体の性別が変化するのは、あるべき自分になろうとする変化だから」
いつものお返しみたいに、黙々と弁当を食べてやる。
「だから、それ以外の理由で肉体が変化している場合、特に、何らかの目的の解決手段として肉体の変化を利用している場合が当てはまる。体を道具として扱っていくうち、本当に道具としか感じなくなり、精神が肉体をただの物として認識してしまうの。症状としては、体の場所によって性別が異なるようになったり、自分のものだと感じなくなった部位が、末端から熟れた果物みたいに取れたりする。そして肉体の道具視が生命活動に関係する部位にまで及んだ時、意識を失い、二度と目覚めなくなるわ」
ネイルの言ったことを考える。……なんだ、どうでもいいことじゃんか。
「自分の体を道具として認識するのが原因だっていうなら、普通の人だってそうなってもおかしくないじゃん」
「……でも、Xジェンダーの人は精神が乖離しやすくなるのは確かなはずよ」
「だから? そもそもそれ、おねーちゃんには関係ない」
「あるでしょう。あなたのお姉さんの歌声の表現力は、性別を変えるXジェンダーの特徴を利用しているからこそのものだもの」
鼻を鳴らす。
「おねーちゃんの歌は目的の解決手段じゃない。おねーちゃんがおねーちゃんらしくあるための歌なんだ。それは、あるべき自分になろうとするのと何が違うの?」
「……そうね、私が間違っていたかもしれない。でもこの精神障害は、サンプル数が少なすぎて病名に名前がついていないだけで、きちんと論文になっていることなの。大学教授も間違いじゃないと仰ってたわ。覚えておいて損はないはずよ」
ああもうイライラする。間違ってないって、正しくないかもしれないってことでしょ。わからないならどうでもいいよ。
「とにかく、早くスキャンダルをどうにかしないと、仕事もファンも離れていっちゃうよ」
「前向きにとらえることね。あなたのお姉さん、あまりたくさん歌を歌えない体質でしょう? スキャンダルで歌う機会が減ってちょうどよかったじゃない。いい休暇になるわ」
「なにそれ」
頭の芯がカッと熱くなる。怒りが内臓を燃やし、血を沸かす。右拳がベンチを叩いた。
「あのさあ、おねーちゃんが今までどんな目に遭ってきたか知らないでしょ? どれだけ頑張って今の地位にたどり着いたかわかってないでしょ? 差別されて、虐められて、誹謗中傷されて、ずっと傷つき続けてたんだよ。それでも、おねーちゃんも早桜……マネージャーさんも、諦めずに立ち向かってきたんだ。寝る間も惜しんで仕事を探したり、偏見の目を向けられる中で歌ったりして努力し続けた。それで、ようやく今があるんだよ?」
ネイルの襟首を掴む。相変わらず表情がないのが腹立たしい。少しは動揺しろよ。
「それが失われようとしてるのに、ちょうどよかったって、休暇って、本気で言ってんの? ふざけんな!! 少し齧っただけの知識でわかったような口を利くな!! そういうことは、おねーちゃんが言うならまだしも、アンタら外野が言うことじゃないでしょ!?」
「……由花、あなたは本当にお姉さんのことが好きなのね」
じっと目を見つめられる。さっきから話を取っちらかして、何が言いたいんだ、コイツは。
「そうよ。悪い?」
「ええ。異常よ。前から思っていたけど、あなたはお姉さんのことが好きすぎる」
「は? 意味わかんない。姉妹仲がいいことの何が悪いの?」
「姉妹仲が、いえ、あなたからお姉さんへの気持ちが強すぎるのよ。異常なほどに」
「なに、わたしの頭がおかしいって言いたいわけ? それで自分の暴言を正当化しようっての?」
「認識の齟齬があるようね。もう少し素直に受け取ってちょうだい。私はあなたのためを思って言っているのだから」
「……そんなこと言うやつが、本当に他人のことを思って言ってるわけがないんだよ」
何度も聞いた台詞なんだよ。押しつけがましくて、的外れな善意。そういうのを、おねーちゃんはずっと浴びせられてきたんだから。
「もういい」
襟首を離し、立ち上がる。後ろから呼び止める声がしたけど、知ったことじゃない。
「わたしのことなんて興味ないんでしょ? だったらもう絡まないでくれる?」
はいおめでとう。これで入学した時の願いがやっと叶ったね?
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