瑞木由花 13歳 夏1

 ベッドに寝転がって井上尚弥選手の試合動画を見ていると、視界の端で何かが動いた。おねーちゃんが隣のベッドの上で寝返りをうったようだ。どうやらイヤホンを付けたまま寝転がり、動画を見ているらしい。いつも聞いてるv-flowerっていうボカロの曲だと思う。前に、その子の中性的な声を聞いてるとほっとするって言ってたから。


 千葉県に引っ越してきて二年たつけど、わたしとおねーちゃんは相部屋のままだ。部屋の数が少ないからだけど、引っ越す予定はない。綺麗な七階建てのマンションの三階で、立地も通勤通学に結構便利だし、わざわざ引っ越すのはもったいない、って家族会議で決まったからだ。もう中学生なのに相部屋でゴメンな、ってお父さんたちに言われたけど、わたしはおねーちゃんとずっと一緒だから、むしろ嬉しい。


 おねーちゃんは、わたしの視線に気づいてイヤホンを外してくれた。わたしも動画を一時停止する。


「おねーちゃん、学校楽しい?」

「うん、とっても楽しいよ。由花は? もう一学期終わるけど、どう?」

「……そうだね。同じかな」


 あのねおねーちゃん、普通はね、フツーッて答えるんだよ。学校で起きることなんて毎日同じようなものなんだから、それが普通なんだよ。小さい頃ならともかく、もう学校の楽しいところも面倒くさいところも知ってるんだから。普通に楽しいってことはあっても、わざわざ楽しいなんて言わないんだ。まして、わたしの目をちゃんと見て、にっこり笑って、とっても、なんて。


「そっか、よかった」


 柏の葉中学校に転校してから、おねーちゃんは虐められていない。あの女の先輩たちと同じクラスだし、嫌な思いをしていることも多分ないはずだ。トイレや着替えなんかの配慮もされてるって言ってたし、過ごしやすくはあるみたい。


 でも、それだけ。おねーちゃんは、いきいきしてない。


 最初は、教室でうまくやるためだって思ってた。でも両親やわたしの前でまで同じようにする理由はない。外に遊びに行く時だって、いつも目立たない地味なTシャツとズボン。せっかくきれいな顔なのに、前髪は長めでやぼったい。発言も行動も、周りの目を気にして、注意深く、怯えながら選んでいるように見える。

今みたいに。


 虐められないように、心配されないように、息を殺して、気配を消して生きている。


 それがわたしは、たまらなく嫌だ。


「ねえおねーちゃん、今度の日曜、カラオケに行こうよ」


 ふと思いついてそう言ってみる。おねーちゃんは歌うのが好きだった。今は歌なんてとんでもないって感じだけど、一度歌えば昔の元気を取り戻してくれるかもしれない。


「ううん、ワタシはいいや」

「えー、いいじゃん。一緒に行こうよ。あ、何か用事があった?」

「違うよ。でもついていくだけならいいよ」

「そうじゃなくて。わたしね、久しぶりにおねーちゃんの歌が聞きたいの」


 困った顔をさせてしまう。


「……ごめんね。歌うと性別が何度も入れ替わって、自分が自分じゃなくなるみたいで、怖いんだ」

「……ごめん」


 ううん、ワタシこそごめんなさい。誘ってくれてありがとね。


 悪いのは気遣いの足らなかったわたしなのに、おねーちゃんは必要以上に謝ってた。


 何かを変えなきゃいけない、と思う。けど、何を変えればいいのかわからない。何かしないと、っていう焦りだけがある。


 お父さんたちも気づいていて、同じことを考えてたんだと思う。 


 だから夏休みに入ってすぐに、LGBTについてもっと勉強しないといけない、って突然言い出したんだ。






 七月の終わり。わたしはクラスメイトの誘いを断り、家族と一緒に千葉市中央区にある公民館にむかった。お父さんが見つけてきた「LGBT+を知る講座」を受けるためだ。


 公民館の中に入ると、冷房が効いていてほっとした。今年の夏は異常に暑くて、わたしなんかはノースリーブのシャツで一日中過ごしている。なのにおねーちゃんは、まるで隠した分だけ他人から自分が見えなくなるって信じてるみたいに、薄手の長そでシャツ着続けてる。涼しそうな顔をしているけど、絶対暑いに決まってるのに。


 指定された部屋に行くと、中学の教室より少し広いくらいの板張りの部屋にパイプ椅子が並べられていて、やっぱり教室と同じくらいの人が集まってる。複雑な闇と強さを抱えていそうな、独特の雰囲気の人たちばかり。


 拍子抜けと、やっぱりな、っていう気持ちが両方ある。興味がない人たちこそ知らなきゃいけないのに、そういう人たちは目を向けようとすらしないから、集まるのは当事者ばっかりなんだ。


 しばらくして、レインボー千葉の会から来たという四十歳くらいの講師の女性がやってきた。自己紹介をして、それが普通みたいにレズビアンだとカミングアウトする。


「今日はたくさんの方に参加していただいて大変嬉しく思っています。今日の講座では、いわゆるLGBTとは何なのかという基本的なことから、意外と知られていない、けど知って欲しいLGBTに関することを、話していこうと思います」


 パンフレットを配られた後、講座が始まった。


 最初の方は、わたしも知っていることだった。身体の性や性自認、性的志向、性表現、下三つを合わせてSОGIEということなど。おねーちゃんのことなんだから、これくらい勉強してる。


 でも、生涯を通じてどんな困難に遭遇するかって話に、わたしは不意に心を揺さぶられた。


 おねーちゃんは、誰かと結婚するのかな。どんな仕事に就くんだろう。おばーちゃんになった時、傍には誰がいるのかな。


 隣で行儀よく講義を聞いてるおねーちゃんを盗み見る。


 確かに、おねーちゃんを守るって決めた。でも、そんな先のことまで想像できない。


 考えようとしたけど、途方もなくて、すぐにやめた。


 講義中、おねーちゃんのXジェンダーに触れたのは少しだけだった。雑に扱われたからではなく、誰一人取りこぼさないようにさまざまな分類がされているから、説明の時間が足りないだけみたい。


「最後に、少し歴史について触れて終わろうと思います。約百年前まで、性的マイノリティに属する人は病気や犯罪者として扱われてきました。病気とは、例えば嫌悪療法という、同性の写真を見せた時は電気を流し、異性の写真を見せた時は流さないことで、同性愛者に同性に嫌悪感を持たせ異性愛に治そうという取り組みが行われていたことなどです。犯罪者とは、同性愛を禁ずる法律が各国に数えきれないほどあった、という意味です。さて、ではなぜ今、性の多様性やジェンダー平等といった言葉が使われるようになったのでしょうか?」


 そういえば、今が精いっぱいで、歴史については調べたことがなかった。


「それは、病気や犯罪者として扱われる危険を顧みず、声を上げた人たちがいたからです。彼らは嫌われるのはもちろん、心無い人たちにリンチやレイプをされ、傷つけられ、命を落とした人もたくさんいました。しかし、それでも声を上げ続け、協力し、助け合い、少しずつ理解者を増やし、今の社会を作ってきたのです。……どうして彼らは、命を懸けることができたのでしょう?」


 講師の女性の声が熱意を帯びる。


「それが、当たり前の権利だからです。マジョリティの側の人たちが、着たい服を着て、好きな人と付き合い、自分らしく振舞うように、マイノリティの側にも、着たい服を着て、好きな人と付き合い、自分らしく振舞う権利がなくてはならないからです。高い志や崇高な理念があるわけではありません。ただ当たり前の幸せを当たり前に手に入れたい。そんな切実な思いが、今日までの運動に繋がっているのです」


 心身の性別にかかわらず、好きな人と付き合う権利。わたしはその言葉が、妙に印象に残った。


「ですから、皆さん。私から一つお願いがあります。これから性的マイノリティに関することで差別や偏見の目に晒されることがあった時、できれば、声を上げて欲しいんです。それは違う、実はこうなんだよと。場合によっては、とても大きな勇気がいることですから、できなくても構いません。言って、理解してもらえなくても気にしなくていいです。大切なのは、声を上げること。私たちはちゃんと存在してるんだと叫ぶこと。そうした小さな積み重ねが、少しずつ理解者を生んで、法律すらも変え、今日の社会を作ってきたのですから。わたしたちは、少数派です。だからこそ、助け合って行きましょう。


 ……私からは以上です。何か、ご質問がある方はいらっしゃいますか?」


 何人か手を挙げる。自分の悩みに関することがほとんどで、講師の女性は打てば響くように答えを返し、質問者はほっとした表情になる。皆の安心が伝わってきて、じゃあ、と手を挙げてみた。そちらの赤い服の方、と指名され立ち上がる。


「今日は、どんな人がどんな性的志向をしていてもいい、という話を聞きました。わたしもそう思います。それで質問なんですが、それぞれにはゲイとかレズビアンとか名前がついています」


 講師の女性は、わたしの目を見ながら何度も頷いてくれる。


「わたしはお姉ちゃんが好きです。これにはどういう名前が付いているのでしょうか?」


 講師の女性の目が丸くなる。そしてくすりと笑い、ゆっくりと言った。


 お星さまが欲しい、とワガママを言う小さな子供に、言い聞かせるみたいに。


「それは、姉妹愛っていうんですよ」


 違う、そうじゃない。


 そう思った。何かはわからないけど、何かが違う気がする。でもそう感じたのはわたしだけみたいで、周りの人はわたしを温かい目で見ていた。お父さんたちや、おねーちゃんまで。


「っ、それは、家族愛とは違うんですか?」

「同じものですよ。姉妹だって家族ですから」


 そんなはずはない。だって、お父さんたちはお父さんたちで、おねーちゃんはおねーちゃんだ。どっちも大事で、家族だけど、ほら、こんなに全然、違う。


 でも、今ここにわたしと同じ違和感を持ってる人は誰もいなかった。まるでわたしが間違っているみたい。


 急に一人ぼっちになった気分。ワカリマシタ、となんとか絞り出して、大人しく席に座り直す。


 この違和感はなんだろう。でも、もういい、考えるのを止めよう。他の人になんて思われても知ったこっちゃないけど、おねーちゃんにおかしな奴だと思われたくない。


 きっと、上手く言葉が伝わらなかっただけなんだ。

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