第89話【愉悦】
「やあこんにちは」
ドアを開けて入って来たのは、ひとり。ニコニコとしながら友人に挨拶をするように気軽な声をした、男女どちらかもわからないほどに中性的な人だった。
僕や有坂さんよりわずかに年上、という印象がある。
「私は
心から喜び楽しむことを愉悦という。人の持つ、感情。
それは善にも悪にも簡単に傾く。
一体僕らをどうしようというのだろう。
「美徳、悪徳に中立、と来たか。俺たちを分断した理由を聞かせてくれ」
武藤さんが僕たちを庇うように前に立ち、言う。
「えっ理由? 面白いかなって」
「……それだけか?」
あっけらかんと、
「私は善にも悪にも加担はしないさ。ただ面白いことを喜びとするのが生業なんだよ。存在意義だからね」
「ここはどこですか」
「マップをみたらいいよ。君たちは最早世界の主役と言ってもいい存在だからね。あの場で死なせるのはちょっと面白くなかったんだよね」
「……部屋に残った、人たちは」
「それも自分で確かめるといいさ。君たちの活躍を期待しているよ」
それだけ言うと、
有坂さんがスマホにマップを表示させる。
現在地点は、麻布十番の近くの雑居ビルを示している。
距離的には、身体能力が上がっていなくても、徒歩1時間前後で警視庁やホテルまで移動できる範疇だ。
身体能力が上がっている今なら、走れば10分かからないかもしれない。
でもそれは、間に障害がなければ、の話だ。
「まずは、原国さんに連絡をする。ホテルメンバーに連絡を入れてみてくれ」
連絡がつかない。発信音は鳴るが、応答がない。
原国さんとも、連絡がつかない、と武藤さんが言う。
「あの分体が名乗ったのは、
武藤さんは淡々と言う。
僕にはない視点だった。
「あいつがその名の通りの存在なら、物語の人物の情動を楽しむように、俺たちを引っ掻き回して弄ぶのであれば、ありもしないピンチを演出する。本当にピンチであるなら、それは悪徳への加担だ。中立としてはありえない」と、そう説明された。
「ついでにいえば同じ分体の
「そう思わせておいて、残酷な結末を用意する、なんてこともありえそうですけれど」
「それは悪意の文脈だな。悪徳であるならば、それはありうるだろう。名乗りを偽れないルールは分体にも課される。善にも悪にも加担をしないという言葉に嘘はなかった。俺たちの取る選択によって良くも悪くも流れが変わるというのは、今に始まったことじゃないし、今危惧しても仕方がないことだ」
有坂さんが可能性を口にして、武藤さんがそれを否定する。
武藤さんの言うように、
確かに彼の応答がないのはおかしい。
この建物という空間に、通信を阻害する効果がかかっている?
僕たちのステータスにあるのはバフ効果だけだ。状態異常の表示はない。
「それを考慮した上で、選択肢はいくつかある。警視庁に戻る、ホテルに戻る、あるいは病院へ行き反魂を行う。最後はここで連絡が取れるまで待機をする。どれにする」
「あとは、もう1つ、選択肢があります」
武藤さんの提案に、有坂さんがぽつりという。
「ダンジョン攻略。この建物の1階にレベル8ダンジョンがあります。攻略をして、真瀬くんのガチャで転移系スキルが獲得できれば」
武藤さんの説明で、有坂さんとのやりとりで、冷静にはなれた。
それでも一刻も早く、みんなの安否を知りたい。それは武藤さんも有坂さんも、同じはずだ。
それでも焦ってはダメだ。
「確かに、ダンジョンの表示を見て、侵入者がいなければ攻略してみるのがいいかもしれないな」
ギルドレベルはクリアしたダンジョンの数で上がる。
パーティーは6人までの固定だけど、ギルドメンバーの人数は増やせる。
身内をギルドに全員入れておければ、安否確認はギルドメンバーの一覧でできるので、ダンジョン攻略を進めるのは有効な手段だ。
ガチャで有用な対人無力化スキル、情報獲得系スキル、転移系スキルなどが得られれば尚いい。
「僕は有坂さんのダンジョン案に賛成です。武藤さんはどうですか」
「よし、なら嬢ちゃんの案で行こう。気配察知では、このビルは無人だが、探知を逃れるスキル持ちがいる可能性もある。気をつけて進もう」
武藤さんを先頭に、ドアを開けて廊下へと出る。
無人の廊下は室内よりも薄暗く、静寂が耳に痛い。
階段を見つけ、下りる。どうやらここは3階だったようだ。
人の気配はない、静かな階段に僕たちの足音だけが響く。
1階へ辿り着くと、ダンジョンゲートが右手にある。正面は出入り口。ドアは閉まっている。
ダンジョン内に侵入者はない。
「まずは、外に出て連絡がつくか試そう。俺が行く。ふたりは後ろにいてくれ」
正面ドアを武藤さんが警戒しながら開ける。
ドアを開けた先の光景は、歩道とガードレール、道路。向かいには公園の緑が見える。
この辺りなら、普段であれば通行する人はそれなりにありそうな場所。
人の往来はない。静まりかえっている。
「ダメだ。範囲系なのかもな。効果範囲は不明だが、範囲を抜けるまで動くしかないかもしれん」
「ダンジョンを攻略しましょう。このままホテルに戻っても、多分二の舞だと思う。ああいう集団がいくつもあるなら、対抗できる方法を得ないと」
集団戦かつ、殺さず無力化。
洗脳されている可能性があるのならば、それを解くスキル。
転移系。ギルドの強化。
ショップにはそれらのスキルはない。
母さんたちは心配だけど、無事でいると信じる。
無事でいてくれた先のことを考慮して、慎重に進もう。
ホテル方面へ戻りながら連絡を取れるように動きつつ、道中のダンジョンを攻略する。そう話し合って決めた。
僕たちは初めて、3人きりの孤立した状況で、ダンジョンへと足を踏み入れた。
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