第39話 愚者のカード


 さて本日、西園寺侯爵家は忙しなかった。理由は、瑛侯爵の一時帰国を祝して、夜会を開くことになったからである。というのも、瑛の帰国に多くの者が挨拶や遊びに来ようとしたからで、全員を相手にする時間が無いので、夜会に皆を呼ぼうという事になったからである。瑛はとても顔が広い。


 今は絵山が火野の手伝いで招待状の手配をしているので、澪は久水と二人で私室にいた。チェストに飾られている水仙に、久水が水を与えている。


 澪は久水が淹れてくれた紅茶を飲みながら、ソファに座り、書籍を開いていた。

 ――地獄の國のアリスだ。


「脳がスカスカ、か」


 父の話したプリオンという言葉を思い出す。人間のプリオン病であれば、脳はスポンジ状のスカスカな状態になるというから、あながちこの童話のいう事も間違っていないのではと考えて、澪は背筋が寒くなった。すると久水が言った。


「愚者、か。愚者は実は賢者が全てを悟って捨てた先の姿だともいうな」


 久水がチェストから振り返る。


「そうなのか?」

「おう。愚者のタロットは、番号が無い。始まりでもあり終わりでもあるカードだ。ここから始まり魔術師となるのか、調和が取れた世界を旅した先の終わりの姿なのか、誰も知らない」

「へぇ」


 頷いた澪は、本を閉じてテーブルの上に置く。


「ところで久水」

「ん?」

「兄上についていてくれてありがとう。感謝する」


 澪が改めて礼を告げると、久水が二度緩慢に瞬きをしてから歩みよってきた。


「澪様のご命令だからな」

「仕事だったとしても、感謝する」

「それだけじゃない。澪様の兄上だ。澪様が大切にしていたから、俺も守ってやる気になったんだよ。ま、昴様はなにかと抜けていて……純粋だからなぁ」


 そう語った久水は、椅子の背にまわると、両手の指先を澪の双肩に置いた。


「なんだ?」

「礼が欲しい」

「何が欲しいんだ?」

「噛みたい」

「だから俺は人間では無いと言っているだろう」

「――冗談だ」


 久水はそう言ってから、後ろから澪を抱きしめるように腕を伸ばす。澪は両手でその腕の服に触れる。


「俺に触れると癒やされるのだったか?」

「おう。澪様をこうしてると、無性に落ち着く」

「変わってるな」

「変わっていてもいいだろ」


 久水はそう答えてから、顔を動かし、横から澪を見る。澪もそちらを向いた。ごく近い場所に久水の顔がある。久水の瞳は、獲物にじゃれる猫のように輝いてる。ニッと口角を持ち上げた久水は、さらに顔を近づけた。


「今度、またの機会があったら、絵山じゃなく俺を連れていけ」

「うん?」

「絵山が羨ましくて死ぬかと思った」

「わざわざ事件に巻き込まれたいのか?」

「違う。澪様のたった一人の供になりたいって話だ。ばーか」


 冗談めかした久水の声に、澪が喉で笑う。


「澪様、俺は独占欲が強い方なんだ。常々俺は、澪様のたった一人の従僕は俺でいいと思ってる」

「なんだそれは」

「俺が一番、澪様のことを考えてるって意味だ」

「そうなのか?」

「おう、そうだ。だから紅茶の一杯を注ぐ時にも、細心の注意を払ってる」

「確かにお前の紅茶は今日も美味い。おかわりをくれ」

「畏まりました」


 頷いて久水が腕を放し、前にまわって紅茶を淹れ始める。その姿を見ながら、もう危険な事件はなければよいなと漠然と澪は考えた。だが仮にあったとしても、このように言ってくれる久水がいるのだし、きっと問題なく解決出来るだろうと考える。


「どうぞ」


 久水がカップを差し出したので、澪は受け取る。そして静かに味を楽しんだ。




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